羅針盤の試験
時:1928年(昭和三年)冬
場所:東京・麹町 東郷平八郎邸
その冬の昼下がりは、陽だまりのように穏やかだった。
縁側では東郷平八郎が、日露戦争時の海図を広げ、何やら書き込みをしている。
傍らでは、孫娘の幸がアメリカのファッション雑誌の切り抜きを熱心に眺めていた。
彼女の父・一成からの手紙に同封されていたものだった。
「……まあ、素敵」
幸はわざとらしいほど完璧なタイミングで声を漏らした。
まるで21世紀の女子高生のように、計算されたあざとさを込めて。
「……なんだ、騒がしい」
平八郎は顔を上げず、海図を見つめたまま言う。
「お爺様! ご覧になってくださいな。アメリカの女優さんのドレス、とてもきれいなんですよ!」
幸は切り抜きを祖父の前に差し出した。
そこには、きらびやかなフラッパー・ドレスに身を包んだハリウッド女優が微笑んでいる。
「……品のない服だな」
平八郎は一瞥しただけで吐き捨てるように言った。
「こんな肌をさらすものを着て。婦女子の嗜みがない」
「まあ、そんなことありませんわ!」
幸は頬をふくらませてみせる。
「これがアメリカの“自由”の象徴なんですって。お父様も手紙に書いておられましたわ。――アメリカの女性は自分で仕事を選び、恋人を選び、自分の人生を生きるのだって!」
そして彼女は、会話の本当の目的である一言を、夢見るような瞳でつぶやいた。
「……いいなあ。いつか私もアメリカへ行ってみたいわ。お父様のお仕事を手伝って差し上げたいし、何よりこの目で見てみたいの。“自由”って、どんな味がするのかしら」
完璧な演技だった。
年頃の少女が抱く純粋な憧れ、遠い異国で戦う父を想う健気な娘心。
その両方を演じきったはずだった。
だが、平八郎の反応はまるで違った。
怒りも呆れもせず、静かに海図から顔を上げ、老いた鷲のような鋭い目で孫の瞳の奥を射抜くように見つめた。
そして一言。
「……そうか。お前も行くか」
「……え?」
幸は自分の耳を疑った。
あまりにもあっさりとした肯定。真意が読めず、演技の仮面がわずかに揺らぐ。
「……お爺様? よろしいのですか?」
「ならんと言ったら、行かぬのか?」
「そ、それは……」
「行きたければ行け」
平八郎は静かに言った。
「……ただし、わしは許さん」
「えっ……?」
幸は混乱した。
行けと言いながら、許さんとも言う――この老人は何を言っているのか。
「お爺様、あの……」
「幸」
平八郎の声が低くなった。
「お前、わしがなぜロンドンに行く財部を叱責したか、分かっておるか」
「……奥様を軍縮会議という“戦いの場”に連れて行かれたから、では……」
「半分正しい。だが半分は違う」
平八郎は海図の一点――対馬沖を指さした。
「戦場に女を連れてくるな、というのは、女がか弱いからではない。足手まといになるからでもない。
戦場に女がいれば、男は必ず“格好”をつける。
己の信じる合理でも損得でもなく、女の前で恥をかきたくないという、ただそれだけの感情で判断を誤る。
財部もそうだった。妻の前で英国紳士たちに見劣りしたくない――そのちっぽけな虚栄心で、国の将来を売り渡しかねんと思ったのだ」
そして、ゆっくりと孫の顔を見つめた。
「幸。もしお前が今アメリカへ行けば、一成はどうなる?」
「……お父様が……?」
「そうだ。あやつは今、一人で戦っておる。国のすべてを背負ってな。
その隣にお前がいたら、あやつは“完璧な父親”であろうとするだろう。
非情な決断もできなくなり、冷徹な計算も鈍るやもしれん。
お前はあやつの羅針盤になるどころか、磁場を狂わせる最大の“雑音”になる。……それでも行くか?」
あまりに的確で、本質を突いた言葉に、幸は完全に言葉を失った。
未来の女子高校生の知恵も演技力も、この百戦錬磨の老英雄の前では赤子の戯言に等しかった。
「……ごめんなさい。そんなこと、考えてもみませんでした……」
「うむ」
平八郎は静かに頷き、節くれだった手で幸の頭をそっと撫でた。
「だがな、幸。お前の言うことにも一理ある。百聞は一見にしかず、だ。
羅針盤も、その土地の磁場を知らねば役に立たん」
懐から一枚の小さな紙片を取り出す。
それは、幸が株の儲けで貯めたなけなしの金を預けている銀行の通帳だった。
「この金で、何をするつもりだった?」
「……い、いつか何かのお役に立てればと思って……」
「よろしい」
平八郎は通帳を幸の手に握らせた。
「ならば、その金で家庭教師を雇え」
「家庭教師?」
「そうだ。英語と国際法、経済学を学べ。
アメリカへ行きたいのなら、まずそのための“武器”を手に入れろ。
ドレスでも宝石でもない。知識という、誰にも奪えぬ武器をだ」
そして付け加えた。
「その家庭教師は、わしが選んでやる。信用できる者をな」
その瞬間、幸の背後――障子の向こうで茶の用意をしていた女中・橘小百合の肩が、ほんのわずかに震えた。
幸は気づかなかった。だが平八郎は気づいていた。
この新入りの女中が、ただの女中ではないことを。
その静かな瞳の奥に、何者かの影がちらついていることを。
彼はあえて言ったのだ。
(……面白い)
平八郎は心の中で笑った。
(猿どもめ。我らの孫娘に間諜を送り込んできたか。……よかろう。その間諜ごと、懐に取り込んで利用してやるまでよ)
彼は再び幸の頭を優しく撫でた。
「幸。羅針盤は、ただそこにあるだけでは意味がない。
時として自ら磁気を帯び、嵐を呼び寄せるくらいの気概がなくてはならん。分かるな?」
「……はい、お爺様」
その日、幸は自らの浅はかさを恥じた。
そして同時に、祖父の底知れぬ器の大きさに心の底から震えた。
彼女のアメリカへの道は、ひとまず閉ざされた。
しかしその代わりに、まったく新しい――そしてより困難な戦いの舞台への扉が、静かに開かれようとしていた。
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