壊れた未来図
時:1928年(昭和三年)冬
横須賀・汐入尋常小学校の校庭の隅に立つ大きな銀杏は、すでに葉を落としきり、裸の枝を澄んだ冬空へと伸ばしていた。
冷たい風が校庭を渡るたび、地面に残ったわずかな落ち葉が、からからと音を立てて転がっていく。
幸は、その木の根元に腰を下ろし、膝を抱えていた。
手には「修身」の教科書。けれども、その瞳は文字を追ってはいなかった。
(……おかしい。何かが、少しずつずれている)
ここ数か月、胸の奥に言いようのない不安が巣食っていた。
義父、東郷一成がアメリカへと旅立つ前から、この国の空気は静かに、しかし確かに変わり始めていた。
幸の頭の中にある“未来の歴史”によれば、いま頃、日本は張作霖爆殺事件の余波で田中義一内閣が総辞職し、やがて来る世界恐慌の嵐に呑み込まれているはずだった。
だが現実は違っていた。
新聞は連日、田中首相が蒋介石との粘り強い交渉を続けていると報じ、張作霖は奉天で健在のまま、陸軍の過激な動きも鎮まっている。
歴史の歯車が、軋みを上げながら、幸の知らない方向へと、ゆっくり、しかし確実に回り始めている。
(……お父様のせいだ。お父様が、歴史を変えてしまったんだ。
……じゃあ、この先にあるのは? 私の知っている、あの悲しい戦争も、あの焼け野原の東京も……もう起きないの?)
それは希望であり、同時に恐怖でもあった。
道標となるはずの未来の地図が、静かに引き裂かれていくような感覚。
「……幸さま」
不意に背後から声がした。振り返ると、東北の寒村から「制度進学券」で上京してきた庄司梅が、少し心配そうに立っていた。
「……また難しい顔をしておりました。何かお悩みでも?」
「ううん、なんでもないの、梅ちゃん」
幸は慌てて教科書を閉じ、笑顔を作った。
だがその笑みがどこかぎこちないことを、彼女自身がいちばんよく分かっていた。
その日の放課後、幸は梅と共に「制度生の会」の小さな集まりに顔を出した。
空き教室に机を寄せ合い、全国のさまざまな土地から制度債の恩恵で横須賀へ集まった子供たちが、故郷の話に花を咲かせている。
「うちの村さ、海軍さんのおかげで、今年から電気が来たんだど!」
北陸の港町から来た、腕っぷしの強そうな少年が胸を張る。
「夜でも本が読めるようになったんだ。すごいだろ!」
「私のお父さんも言ってたわ」
呉の工廠の近くに住む少女が声を弾ませた。
「制度債で新しい機械が入って、お給金が少し上がったの。今度、活動写真に連れてってくれるんですって!」
子供たちの言葉は、希望と感謝に満ちていた。
制度債は、彼らにとって難しい経済の話ではない。
それは、自分たちの暮らしを明るく照らす、温かな光そのものだった。
幸は、その眩しすぎる光の中で、息が詰まりそうだった。
(……違う。私、これを聞きに来たんじゃない。
この光の裏にある影を。誰も口にしない、小さな不安の声を。
それを聞かなきゃ――おじいさまに託された羅針盤の役目は果たせなくなる)
彼女はそっと輪を抜け出し、教室の隅で窓の外を見つめていた少年に声をかけた。
彼の父親は東京・兜町の株式仲買人だと聞いている。
「……佐藤くん」
「……何だい、東郷さん」
少年は冷めた目で振り向いた。
「……佐藤くんのお父様は、制度債のこと、何か言ってた?」
「言ってたよ。『あんなもの、まやかしだ』って」
「まやかし?」
「ああ。親父の仲間はみんな言ってるそうだ。『利息もつかない、国の保証もない紙切れが、いつまで通用するもんか。所詮、軍隊が勝手に刷ってる子供銀行の札と同じだ。いつかきっと、ただの紙くずになる』って」
その言葉は、冷たく幸の胸を突いた。
「……でも、それで助かってる人もいるのに」
「それは今だけさ」
少年は吐き捨てるように言った。
「本当の金持ちは、あんな胡散臭い紙なんて持たない。みんなこっそりドルやポンドに換えてる。馬鹿を見るのは、いつだって何も知らない貧乏人さ」
幸は何も言い返せなかった。
その瞳の奥に、父が最も戦っている敵――“不信”という名の敵の姿を見たからだ。
その夜。
幸は父の書斎でひとり、今日の出来事を手帳に記していた。
インクの匂いが静かな部屋に満ちていく。
『光の声:電気が灯る。活動写真に行ける。海軍さんに感謝』
『影の声:いつか紙くずになる。本当の金持ちは持たない。損をするのは、いつも貧しい者たち』
二つの、まったく異なる声。だが、どちらもこの国の本当の声。
幸はペンを置き、壁に飾られた父と祖父・平八郎の写真を見上げた。
祖父はかつて言った――「お前が、あやつの羅針盤になってやれ」と。
(……お父様はきっと分かっている。この光と影の両方を。
でも、あんな遠いアメリカから、この小さな影の声が本当に見えているのかしら。
……私が伝えなきゃ。この国の“いま”を記録して、お父さまの羅針盤にならなきゃ)
彼女は手帳をそっと閉じた。
その夜、幸はなかなか眠れなかった。
昼間の二つの声――「電気が来た!」という明るい声と、「いつか紙くずになる」という冷たい声――が頭の中で渦を巻いていた。
(……どっちが本当なの? お父様は、どんな未来を作ろうとしているの?)
答えは出ない。ただ胸の奥がもやもやと痛む。
(……お父様に会いたい……)
その思いが、不意に込み上げた。
遠いアメリカにいる父の静かな笑顔と、すべてを見通すような瞳。
会って聞きたい。この国をどこへ導こうとしているのかを。
幸はそっと布団を抜け出し、書斎へ向かった。
父が残した世界地図が、無性に見たくなったのだ。
月明かりだけが差し込む静かな書斎。
壁にかけられた大きな世界地図の前に立ち、小さな指で日本からアメリカまでの太平洋をなぞる。
「……遠い、なあ……」
思わず漏れた独り言。その瞬間――。
「……幸様」
背後から静かな声。幸の心臓は凍りついた。
びくりと肩を震わせ、ゆっくりと振り返る。
そこに立っていたのは、橘小百合だった。
父が渡米する直前に雇われた新しい女中。
年は幸より少し上。透き通るような白い肌、どこか異国めいた彫りの深い顔立ち。
そして何より印象的なのは、その瞳――感情を映さぬ硝子のような瞳が、まるで人形のように静かに彼女を見つめていた。
「……こんな夜更けに、どうなさいました」
小百合の声は、湖面のように静かだった。
「う、ううん……なんでもないの」
幸は慌てて地図から離れた。
「ちょっと、目が覚めちゃって……」
「左様ですか」
小百合はそれ以上何も問わず、ただ幸の顔と壁の地図を交互に見つめていた。
その沈黙が耐えられず、幸は思わず口を開いた。
「……ねえ、小百合さん」
「はい」
「……アメリカって、どんな国なんだろうなあ」
言った瞬間、幸はしまった、と思った。
なぜ、今そんなことを。
「……行ったことがございませんので、分かりません」
小百合は淡々と答えた。
「そ、そうだよね。ごめんなさい、変なこと聞いて」
「……ですが」
小百合は言葉を継いだ。その瞳がわずかに光を宿す。
「……幸様は、まるで見てきたかのようにおっしゃいましたね」
「……え?」
「“どんな国なんだろうなあ”――それは、ただの憧れではない。
まるで懐かしい場所を思い出すような響きがありました」
幸の背筋に冷たいものが走った。
(ばれた……?)
いや、そんなはずはない。
「そ、そんなことないわ! だってお父様がいるもの。どんな国か気になるのは当たり前でしょ!」
必死に取り繕う。心臓が早鐘を打つ。
「……左様ですか。失礼いたしました」
小百合は深く頭を下げ、淡々と続けた。
「……夜も更けました。お風邪を召します。お部屋へお戻りください」
そう言い残し、音もなく闇に溶けていった。
書斎に残された幸は、全身から力が抜け、その場にへたり込んだ。
(……今の、なに……? 小百合さん、どうして……?)
彼女はまだ知らなかった。
その何気ない一言が、橘小百合という冷ややかな観察者の心に、静かに、しかし永遠に芽吹く「疑念」の種を蒔いたことを。
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