東洋美人
その夜、ニューヨーク州知事公邸の書斎は、怒りと絶望、そして今や腹立たしいほどに馴染み深くなってしまった、ある種の「諦観」に満ちていた。
ハリー・ホプキンスが、まるで罪人のように俯きながら一枚の薄っぺらい報告書を差し出した。
ONI――海軍情報局――の「極秘」スタンプが、やけに物々しく、そしてどこか滑稽に見える。
タイトルにはこうあった。
『対トーゴー工作・中間報告』
「……ハリー」
私の声は、自分でも驚くほど静かだった。暖炉の火がパチリと乾いた音を立てる。
「これを読む前に、一つだけ聞かせてくれ。……成功したのか、それとも失敗したのか」
「……フランク。……それを、どう判断すればいいのか……」
ホプキンスは初めて顔を上げた。その顔は幽霊でも見たかのように青ざめ、しかもなぜか、笑いを必死に堪えているようにも見えた。
嫌な予感が背筋を這い上がる。私は報告書に目を落とした。
――そして数分後。
私は暖炉の火を見つめながら、こみ上げてくる絶叫を必死に押し殺していた。
(……ああ、神よ。なぜあなたは、この偉大なアメリカ合衆国に、これほどまでの「喜劇の才能」を与えてしまわれたのか……!)
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FDR走り書きメモ(1928年・冬)
件名:ONIのクソッタレどもへ。そして、天国のセオドア・ルーズベルトへ。
まず、この歴史上最も愚劣で、最も救いがたい作戦の全容を記録しておく。
私が一体何と戦っていたのか。そして、この国の最も優秀であるはずの諜報機関が、いかにして人類史上稀に見る喜劇を演じたのか。
その一部始終を、未来の歴史家のために残しておく必要がある。
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作戦目標:
駐米海軍武官トーゴー・カズナリのスキャンダルを捏造し、その社会的信用を失墜させる。
……素晴らしい。目標設定だけは明確だ。
私がONIの、あの愚鈍なヒギンズ中佐に下した「拒絶反応を起こせ」という高尚な戦略的指示が、ここまで下劣な目標へと矮小化されている――その一点を除けば、な。
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作戦内容:
いわゆる「ハニー・トラップ」
海軍が雇った最高の美女をレセプションで彼に接触させ、その夜を共に過ごさせ、隠しカメラで様子を撮影する。
……待て。最初の一行目から突っ込ませろ。
ハニー・トラップだと? 貴様ら、相手が誰だか分かっているのか?
あの男は国家の金融システムをたった一人でハッキングした怪物だぞ。
議会の公聴会で、この国の最高の法律家たちを詭弁と正論だけで沈黙させた悪魔だ。
その怪物を倒すために、我らが合衆国海軍が用意した秘密兵器が――ブロンド美女と安物のシャンパンだと!?
貴様らはアル・カポネを水鉄砲で暗殺しようとしているのか?
それともアナポリスの卒業パーティーの余興のつもりか?
私がONIに命じたのは何だった?
『奴の任務を失敗させろ』――それは、奴がボーイング社と結ぼうとしている契約を妨害する、といった知的なサボタージュのことだ!
なぜそれが三流スパイ小説の筋書きに変わるんだ!
……まあいい。続けよう。まだ序の口だ。本当の地獄はこれからだ。
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作戦準備:
「ドイツ情報部が日本の陸軍将校に対し同様の工作を行い、多数の親独派を獲得した成功例を参考にした」とある。
……おい。正気か。
パーカー。報告書の起案者はお前だな。
あの上海の偽札作戦を見事に失敗させ、パナマの倉庫番になるはずだった、あのパーカーだ。
あの無能はまだワシントンにいたのか。そして、何も学んでいないのか。
ドイツが成功したのは、相手がプロイセン流権威主義に心酔する単純な田舎軍人だったからだ。
彼らは、美しい白人女性に傅かれることで、劣等感と優越感を同時にくすぐられた。
だがトーゴーは違う。
奴はアナポリスで我々と同じ教育を受けた男だ。
奴の頭の中はドイツのビアホールではない。ウォール街の取引所だ。
奴が女に溺れると本気で思ったのか?
奴が溺れるのは、数字と銀の奔流だけだ!
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そして、作戦実行。
……ああ、神よ。ここからが本番だ。
これから書く数行のために、この報告書を暖炉の火に投げ込まなかった自分を褒めてやりたい。
報告によれば、ワシントンのあるホテルのスイートルームに罠を仕掛け、ターゲット(トーゴー)を誘い込んだ。
美女が待ち構え、シャンパンは冷やされ、照明は落とされ、隠しカメラは完璧なアングルでベッドを捉えていた。
ハリウッドの三流映画監督でも、もう少しマシなセットを作るだろうが――まあいい。
部屋のドアが開く。
そして、そこに現れたのは――
「見事な刺繍の施された日本の着物を着こなした、謎の東洋美人」
だった、とある。
……もうやめてくれ。頼むから。私の腹筋を殺す気か。
報告によれば、その「東洋美人」は、我らが雇ったブロンド美女――ジーナというらしいが、どうでもいい――に優雅に微笑みかけ、完璧なクイーンズ・イングリッシュでこう言ったそうだ。
「今宵はお招きいただき光栄ですわ。……ところで、あなた。そのドレス、とても素敵だけれど、少し寒そうね。……お風邪など召されませんように」
――声は紛れもなく、トーゴー本人だったという。
……女装、だと?
奴は我々のハニー・トラップを事前に察知し、その裏をかき、あろうことか自ら女装して罠の中に現れたというのか!?
報告書の続きにはこうある。
もはやそれは諜報活動の記録ではない。マルクス兄弟のコメディ映画の脚本だ。
「現場は大混乱に陥った。我々のエージェント(ジーナ)は目の前の光景が理解できず、ただ呆然と立ち尽くした。ターゲット(女装したトーゴー)は彼女の肩にそっと絹のショールを掛け、耳元でこう囁いたという――『この部屋には少々、無粋なお客様が多いようだ。……風邪をひく前にお帰りなさい』と。そして『ごきげんよう』と言い残し、颯爽と部屋を後にした」
「隠しカメラに写っていたのは、あまりの光景に床を転げ回り、腹を抱えて爆笑するターゲットの副官、イトウ・セイイチの姿だけであった」
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私はペンを置き、天を仰いだ。絶叫を抑えるのに必死だった。
(……我々は怪物と戦っているのではなかった。
我々は、この世の理不尽と不条理のすべてを体現した“何か”と戦っていたのだ……)
奴は攻撃をかわしたのではない。
その攻撃そのものを壮大なジョークへと昇華させ、我々の尊厳を粉々に砕いたのだ。
この一件は、おそらくONI内部だけの極秘の失敗談として葬られるだろう。
ヒギンズもパーカーも、今度こそアリューシャン列島の気象観測所にでも飛ばされるに違いない。
だが、もし万が一、この話が外に漏れたら?
『合衆国海軍、日本海軍へのスパイにハニー・トラップを仕掛けるも、相手が女装して現れ、返り討ちに』
――考えただけで気が遠くなる。
ジョン・ポール・ジョーンズ以来、築き上げてきた合衆国海軍の栄光が地に落ちる。
いや、違う。笑いのネタになる。
未来永劫、アナポリスの士官候補生たちの酒の肴になるだろう。
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「……ハリー」
「は、はい……」
ホプキンスの返事はかろうじて聞こえたが、彼の肩はまだ笑いを堪えるために小刻みに震えていた。
「今すぐONIの長官に繋げ。……いや、待て。……やはりいい」
私が今言うべき言葉は、一つしかない。
そして、それは命令ではなく懇願だった。
「……ハリー。もう一度ハイドパークに戻るぞ。
今度はブランデーではなく、一番強いジンを用意してくれ。禁酒法など知ったことか。……私は今夜、正気を失う権利があるはずだ」
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私は、東郷一成という男の本当の恐ろしさを、今この瞬間、心の底から理解した。
奴は強く、賢く、そして何よりも――
ユーモアのセンスがある。
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