信用と歴史
霞が関の軍令部での仕事を終えた夜、東郷は同期の将校たちと連れ立ち、近くの料亭の一間に腰を下ろした。外では冬の風が唸っていたが、部屋の中は酒の匂いと人いきれで熱気を帯びていた。
南雲忠一が盃を置き、むっつりした顔で吐き出す。
「……結局、どうすりゃいいんだ。条約で艦も人も削られる一方じゃないか」
沢本頼雄が冷笑を浮かべ、紙のように薄い声で応じる。
「だからこそ国際協調だよ。戦わずして地位を保つのが賢い。軍縮は恥ではない、世界の“常識”だ」
「常識?」
南雲が眉を吊り上げた。
「国の力を削って何が常識だ。艦隊は血で養うものだろう」
東郷は黙って二人を見ていた。
ふと視線が集まり、誰かが声をかけた。
「そうだ、一成。お前はワシントンに行ってきたばかりじゃないか。あの会議の裏で、連中がどんな面をしていたか教えてくれ」
彼は盃を傾け、しばし沈黙したのちに言った。
「……彼らは戦艦の数を削ることを“平和への貢献”と信じていた。屈辱を受けたと思っているのは、むしろ我々の方だった」
その言葉に場が静まり返る。南雲が低く唸った。
「……平八郎元帥も、そう仰っていたのか?」
東郷は、縁側での父の言葉を思い出した。
「……あの方は言われた。アメリカの恐ろしさは鉄の数ではなく“思想”にある、と」
酒の香に包まれた狭い座敷に、ふと冷たい風が吹き込んだような気がした。
南雲が盃を叩きつけるように置いた。
「結局は金だろう。艦を造るにも人を養うにも、アメリカほどの金がなければどうにもならん」
沢本が皮肉めいた笑みを浮かべた。
「だからこそ条約だ。持てぬ者は、持たぬ理屈を探すしかない」
座敷に沈鬱な笑いがこだまする。誰もが口には出さずとも、「我々は結局、金のない帝国の将校にすぎぬ」という諦めを胸に抱いていた。
酒席の喧噪をよそに、一成は独り思索の海へ沈んでいた。
金がない――それが結論か。確かに事実だ。しかし、アメリカの強さの根は必ずしも金そのものではない。
彼はアナポリス時代を思い出す。若き米国士官たちは「アメリカは自由と正義の守護者だ」と無邪気に信じていた。その信念こそが、国際社会で「信用」として通用していた。造船所の契約も、銀行の融資も、議会の予算も、結局はその理念の与信の上に積み上がっていたのだ。
ならば、日本には何がある?
脳裏に浮かぶのは、黄海と日本海の戦い。父の指揮の下、劣勢を覆して勝ち得た軍功。血で刻んだ勝利の記録――それもまた、この国が世界に示した「歴史」そのものである。
我々には金はない。だが、歴史がある。軍功がある。それを「信用」に変えられぬものか。
思いはさらに広がる。艦隊の勝利を担保に資金を集め、工廠を動かし、農村を救済し、次世代の人材を育てる。紙幣ではなく、軍の誠実と実績を証明する「証書」として――。
翌朝から、東郷は海軍大学校の重い門をくぐった。自ら卒業した学び舎に足を運んだのは、過去の記録に「与信化の手がかり」を探すためだった。答えを求めて、東郷は母校の図書室にたびたび足を運んだ。書架には日清・日露戦争の戦史や艦隊行動の記録、日本海軍の歴史が並ぶ。頁を繰るたび、血と汗で刻まれた軍功の数々が浮かび上がる。
歴史そのものが証明になる。勝利の記録を未来の与信に変えられるのではないか。ぼんやりとした昨夜の思索が、少しずつ形を帯び始めていた。
そのとき、背後から低い声が響いた。
「――やはり、ここにいたか」
振り返ると、海軍大学校長・山本英輔が立っていた。薩摩出身の先輩にして、あの山本権兵衛の甥であり、航空戦力の未来を誰より早く見抜いた男である。
山本は数日前から、東郷の帰国を気にかけていた。ワシントン会議で「空母改装枠を三隻に増やした」という噂は耳にしている。空母に未来を見ていた自分としては、その裏にどんな論理があったのかを確かめずにはいられなかった。
「卒業生が一人で古い記録を漁りに来るとは、珍しいな」
そう言って山本は隣に腰を下ろした。
「お前がワシントンでやってきたことは知っている。空母を一隻、増やして帰ってきた――そう聞いた。だが、本当に問いたいのは、その数字の裏にあるものだ。お前は、何を考えていた?」
東郷はしばし逡巡したのち、静かに答えた。
「……彼らは理念を信じ、その理念が信用となり、資金を呼び込む。ならば我々も、血で刻んだ軍功や歴史を――未来の信用に変えられるのではないかと、そう考えておりました」
山本はじっと耳を傾け、やがて大きく頷いた。
「それだ。薩摩も同じだった。関ヶ原で敗れたが、敗れたからこそ工夫し、生き残り、やがて明治の中核を掴んだ」
そういうと山本は、東郷に向き直り話を続けた。
「歴史は単なる過去ではなく、未来を担保する“信用”になる。お前の父、平八郎もまた、その薩摩の血を背負っていたからこそ日露に勝てたのだ」
東郷の胸に熱が走った。父の言葉、同期との議論、そして今、山本の薩摩史観が一本に繋がる。
歴史を信用に変える。軍功を制度にする。
その構想は、もはや漠然とした夢想ではなかった。制度として形にすべき「未来の武器」として、確かに芽生え始めていた。




