拒絶反応
ニューヨーク州知事公邸、オールバニ。
夜の書斎は、暖炉の火だけが揺れる静かな聖域だった。ハドソン川から吹き付ける風が窓を打ち、遠い嵐の到来を告げている。車椅子の上でニューヨーク州知事のフランクリン・デラノ・ルーズベルトは、まるでチェスの終盤を眺めるように、机の上に広げられた新聞の切り抜きを見つめていた。その表情は怒りではなく、むしろ畏怖に近いある種の静かな興奮に満ちていた。
「……ハリー」
彼の声は低く、暖炉の薪がはぜる音に混じった。背後に控える腹心のハリー・ホプキンスは、主の視線の先に置かれた、矛盾する見出しの数々を無言で見つめていた。
「見事だ。実に見事というほかない」
FDRは、乾いた笑いを漏らした。
「議会のハリス委員長も、ウォール街の強欲な銀行家も、誰も気づいていない。我々が今、何をされたのかを」
「フランク……君は、あれを日本の“勝利”だと?」
「勝利? とんでもない」FDRは首を横に振った。
「ハリー、これは勝利などという生易しいものではない。これは“移植”だ。東郷は、日本海軍の軍事規律という名の“心臓”を、我々アメリカ合衆国の金融システムという名の“身体”に、外科手術もなしに直接埋め込んでしまったのだ」
彼は、指先で『ウォール・ストリート・ジャーナル』の紙面をなぞった。
「我々の最大の強みは何だ? 自由な市場だ。あらゆる価値を貪欲に呑み込み、値付けし、商品に変える。東郷は、その強欲さを逆手に取った。彼は『任務の記録』という、本来なら値段のつけようがない、曖昧で神聖さえ帯びた概念を、我々の市場に投げ込んだ。そして我々の市場は、見事にそれに食いつき、『NCPC債』という名前の商品に変え、値付けを始めてしまった」
ホプキンスは息を呑んだ。
「……つまり我々自身の手で、日本の軍事行動に“市場価格”を与えてしまった、と?」
「その通りだ!」FDRは机を叩いた。
「しかも、最悪なことに、その価格は上昇を続けている。なぜなら、その価値の源泉である日本海軍の“任務”は、今のところ失敗を知らないからだ。済南での見事な撤退作戦も、張作霖暗殺の阻止も、全てが彼らの『任務遂行能力』の確かさを証明し、NCPC債の信用を裏書きし続けている。我々は、敵の軍事行動が成功するたびにその価値が上がるという悪魔の金融商品を、自国の市場で嬉々として取引しているのだ!」
書斎に、絶望的な沈黙が落ちた。嵐の音がすぐそこまで近づいてきている。
「公聴会での、あのやり取り。あれは、法廷闘争などではない。あれは、神父が悪魔祓いをする儀式だったのだよ、ハリー」FDRの声は、もはや囁きに近かった。「東郷は我々に問いかけたのだ。『この“聖なる記録”を、お前たちの汚れた“カネ”の法則で裁けるのか?』と。そして我々は、『裁けない』と答える代わりに、『ならば商品として買ってやろう』と答えてしまった。……我々は、悪魔祓いに失敗したのだ。悪魔を市場という名の教会に、客として招き入れてしまった」
「フランク……では、どうすれば」
「方法は一つしかない」
FDRは顔を上げた。その瞳はもはや政治家の顔ではなかった。それは見えざる敵と戦う、最高司令官の顔だった。
「奴が持ち込んだ“心臓”を、拒絶反応で殺すのだ。……我々の身体の中で、腐らせる」
彼は、机の上のボタンを押した。ニューヨーク州知事という公的な立場では、決してできないこと。だが彼には彼個人のための、影のネットワークがあった。
「ONI(海軍情報局)の、ヒギンズ中佐に繋げ」
⸻
同日深夜、ワシントンD.C.、海軍情報局(ONI)。
叩き起こされた極東担当部長、アーサー・ヒギンズ中佐は、受話器の向こうから聞こえてくるニューヨーク州知事の氷のように冷たい声に、ただ相槌を打つことしかできなかった。指揮系統を無視した異例の、そしてあまりにも曖昧な「命令」だった。
『……東郷の次の“任務”を探せ。そしてそれを失敗させ、アメリカ社会に奴への”拒絶反応”を起こせ』
電話が切れた後、ヒギンズは部下の情報将校たちを緊急に召集した。
「……知事閣下からの、直々のご命令だ」
彼の顔は、寝不足と、そして前代未聞の任務へのプレッシャーで青ざめていた。
「東郷一成の任務を失敗させろ、と。……何か、いい案はないか」
会議室は沈黙に包まれた。東郷の「任務」とは何だ? 経済協力か? 食糧支援か? それらを一体どうやって「失敗」させるというのだ。
その絶望的な沈黙を破ったのは、上海帰りの若い情報将校だった。あの偽造債作戦で現地での実行部隊を率いていたジェームズ・パーカー、その人であった。彼は作戦の失敗の責任を取らされパナマへの左遷が決まっていたが、後任への引き継ぎのためにまだワシントンに残っていた。
「……中佐」パーカーは、卑屈な、しかしどこか狡猾な笑みを浮かべた。
「……一つ、古典的な、しかし確実な手がありますぜ」
「何だ?」
「“任務”を失敗させるのが難しいのであれば、……その任務を遂行する『人間』そのものを、失敗させてやればいいのです」
彼は一枚の古い報告書を取り出した。欧州大戦後、ドイツの諜報部が日本陸軍の駐在武官に対し仕掛けた作戦の記録だった。
「……ベルリンの日本大使館に一人の美しいメイドを送り込む。……そして、その武官と懇ろになったところで、スキャンダルをでっち上げる。……男という生き物はいつの時代も同じです。……どれほど優秀な軍人であろうと、女の前ではただの雄に過ぎません」
「……ハニー・トラップ、か」
ヒギンズは忌々しげに呟いた。あまりにも陳腐で、そして下劣な手口だった。しかし、他に何か有効な手があるだろうか。ニューヨーク州知事の、あの氷のような声が耳の奥で蘇る。
『奴への”拒絶反応”を起こせ』
「……パーカー」ヒギンズは決断した。
「貴様のパナマ行きは一時保留だ。この作戦の指揮を貴様に任せる。必ず成功させろ。……これは貴様にとって最後のチャンスだぞ」
「はっ!」
パーカーの目に、再び野心の光が宿った。
こうしてFDRの、あまりにも巨視的で、あまりにも抽象的だった「拒絶反応」という名の戦略は、現場の情報将校たちの功名心と想像力の欠如によって、「ハニートラップ」という名の、最も古く、そして最も愚かな戦術へと矮小化されてしまったのである。
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