ポトマックの沈黙
お待たせいたしました。第二章スタートです。
ワシントンの空は、鉛を流したように重く沈んでいた。
合衆国議会議事堂の一角、下院金融通貨委員会の公聴会室。
樫の羽目板が黒く光り、歴代議長の肖像が額の奥から静かに見下ろしている。
真鍮のランプが弱い光を落とし、空気は紙とインクと古い革の匂いで満ちていた。
証言台には、海軍の紺の詰襟を着た東洋人が座っている。
日本海軍駐米武官、東郷一成。
アナポリスで磨かれた発音は、今ではもう異郷のものではなかった。
彼を囲む半円形の卓に、委員たちの名札が並ぶ。
後列には財務省の法務官、FRBの理事、IRSの局長代理――。
アメリカの金融秩序を支える巨人たちが、腕を組み、ペンを握り、眼鏡の位置を直している。
木槌が軽く鳴った。
ハリス委員長の乾いた声が響く。
「……公聴会を再開する。東郷大佐、単刀直入に聞こう。
あなたが設計した“Institutional Credit Security”――我々の市場では“NCPC Bond”と呼ばれているものだが――
いまやサンフランシスコのチャイナタウンからニューヨークの取引所にまで流れ、事実上の通貨として使われている。
これは合衆国の通貨主権への、重大な挑戦ではないか?」
ざわめきが羊毛の絨毯に吸い込まれ、すぐに消えた。
東郷は顎をわずかに引き、マイクに唇を寄せる。
「Mr. Chairman, thank you for the question. 委員長、ご質問に感謝いたします」
英語の音節が、静かに、しかし澄んだ音で部屋の隅々に届く。
「まず明確に申し上げます。
わが国における制度債、“NCPC債”は通貨ではございません。
それは既に完了した軍事任務の履行、そして事後の契約遂行を記録した証憑にすぎません。
わが国通貨たる円とも、兌換いたしません」
「しかし現実を見たまえ!」
委員長は身を乗り出し、机の縁に指を食い込ませた。
「人々はそれをドルや金のように使い、価値を移し、富を蓄えている。
IRSの報告でも、課税のしようがないまま巨額の資金が動いているのだ。
これが通貨でなくて何だ!」
東郷は微笑の形だけを唇に残した。
「Is that so? ……そうでございますか」
短い間を置き、穏やかに続ける。
「それならば、委員長。
貴国において当該証券は“外国通貨”としての地位を得た――
すなわち、そう認定されたという理解でよろしいでしょうか」
空気が凍った。
速記官のペンが止まり、FRB理事の眼鏡がわずかにずり落ちる。
傍聴席のざわめきが一瞬で止み、財務省の法務官が手から万年筆を滑らせた。
大理石の床に響く「カチャン」という音だけが、広い天井に反響する。
東郷の声は、微動だにしない。
「繰り返しますが、我が国ではNCPC債は制度的な信用記録にすぎません。
それを通貨として扱うか否かは、貴国の法と市場の判断です。
したがって為替レートの管理、取引への課税、価値の評価――
すべては貴国の通貨法と税法の範囲内で処理されるべき内政問題でありましょう。
日本帝国として、貴国の内政に干渉する立場にはありません」
挑発ではない。
だが、その平静さは挑戦と紙一重だった。
委員席の一角で誰かが咳払いをし、机上の氷水に指が触れる。
氷の塊が、かすかに音を立てた。
沈黙を破ったのは、委員長自身だった。
唇の血色が、ほとんど失われている。
「待て。それは詭弁だ、東郷大佐。
あなたが“記録”と呼ぶそれが、意図的に我が国内で通貨化されるよう設計されたのは明らかだ。
軍の“任務”と称して、流通性、保蔵性、匿名性――通貨機能を備え、課税から逃れる仕組みではないのか!」
東郷は小さく首を傾けた。
怒りを避けるためではなく、相手の言葉を正確に聞き取る医師のように。
「その“意図”、証明できますか、委員長」
声は穏やかだが、刃を含んでいた。
「設計意図を証明するには、当方の内部手順、評価基準、任務報告の一次資料――
すなわち暗号指令、航泊日誌、戦闘詳報、護衛行動の実施記録等の提出が不可欠です。
それらは我が国の軍機に属します。
貴国政府として、それら軍事機密の全面開示を、ここで要求なさいますか?」
室内の空気がきしんだ。
IRS局長代理が委員長の横顔をうかがい、財務省の法務官が青ざめた頬をハンカチでぬぐう。
「そんなことは……できるわけがない」
彼は英語で囁き、椅子の肘掛けを握りしめた。
東郷は追い打ちをかけない。
ただ、最後の一文だけを置いた。
「“通貨”か否かは、定義の問題です。
定義は立法によって与えられる。
貴国が主権のもとにお決めください。
わが国は、それを尊重いたします」
委員長は口を開けたまま言葉を失い、やがて舌打ちに似た呼気を吐いた。
木槌が二度、小さく鳴る。
「……本日の公聴会はここまでとする」
⸻
翌日、合衆国は熱に浮かされたような混乱へと沈んだ。
ニューヨーク・タイムズは一面に「見えざる経済的侵略!」と見出しを打ち、
〈我々の金融主権を内側から蝕む新しい戦争〉と煽った。
対してウォール・ストリート・ジャーナルは〈市場に新たな“安全資産”誕生か〉と報じ、
〈価値は“任務遂行能力”という普遍的信用に裏付けられ、国債をも凌ぐ可能性〉と論じた。
ラジオは街角の声を拾う。
「戦争の記録がお金になるなんて、呪われているみたいだわ」と怯える主婦。
「バカ言え! スタンダード・オイルを利食いしてNCPC債を三枚買った。税金がかからねぇんだ、これぞ自由の国の稼ぎ方さ!」と笑う投機家。
議会の保守派は「国家安全保障上の重大な脅威だ、直ちに規制せよ!」と叫んだ。
だがウォール街はお祭りだった。
JPモルガンもクーン・ローブも、NCPC債の専用デスクを設け、黒板には“NCPC/Gold”“NCPC/USD”の板書が並ぶ。
電信室では、チャイナタウンの仲買からの注文が雪のように積み上がっていった。
⸻
ポトマック川は、窓の向こうで鉛の帯のように流れていた。
合衆国日本大使館・武官室。
東郷一成はコーヒーをひと口飲み、机上の紙束をめくる。
無味乾燥な数字の列――帝国海軍の外貨準備、ドル建て残高、週次の伸び率。
だがその一行一行が、彼にとっては波の揺れだった。
彼は一発の銃も撃たなかった。
艦隊も動かさなかった。
ただ一つの“論理”を、敵の心臓部に静かに置いただけだ。
そこから先は、欲望と恐怖が勝手に燃え上がる。
電話が一度、短く鳴った。
秘書官が顔を出す。
「東京海軍省への暗号電です」
受け取った紙片には、簡潔な日本語の電文が並んでいた。
〈我 敵ノ法廷ニ於テ勝利セリ NCPC債ヲ外国為替ト見做ス向キ濃厚 米国内動揺顕著 静観ノ要アリ〉
東郷は小さく笑った。
“法廷”――委員会室は法廷ではない。
だが、言い得て妙でもあった。
彼は紙を三つに折り、差し込み口に立てる。
武官室の灯は低く、窓ガラスに東郷の横顔が淡く映った。
彼は父の声を探すように、暗い川面に目を凝らす。
――“正義”の土俵に上がったな。ならばそこで、勝て。
東郷は静かに頷いた。
コーヒーはすっかり冷めている。
カップを置き、袖口を整え、次の書類を手に取った。
紙の手触りはいつもと同じ。
だが、世界はもう昨日とは違う方角へと、静かに滑っていた。
⸻
同じ日の午後、霞が関・海軍省。
窓の外は灰色の雲が低く垂れ、木立の枝が風にしなっていた。
航空本部長・山本英輔は、机上の電文を指先で三度叩く。
正確なリズムだった。
向かいに座る軍務局の沢本頼雄大佐が、皮肉な笑みを浮かべる。
「『我、敵ノ法廷ニ於テ勝利セリ』か。東郷の奴め、大胆な書きぶりだ」
「言葉はさておき、実が伴っておる」山本は短く答えた。
「米国は自ら制度債を外国為替の檻に入れた。
檻の内で暴れれば、その檻の掟に絡め取られる。
檻の外だと言い張れば、彼ら自身の定義が壊れるだけだ」
沢本が退出し、扉が閉まる。
山本はひとりになった室内で、握っていた鉛筆をそっと机に置いた。
指先には木の感触が残る。
東郷から届いた電文の余熱が、まだ部屋に漂っていた。
「よくやった」
独り言が漏れる。
「だが、まだ始まったばかりだ」
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