方舟
時:1928年(昭和三年)、真夏
場所:横須賀・海軍機関学校
真夏の陽光が、赤煉瓦の校舎に長く、静かな影を落としていた。かつて、この学び舎から巣立っていった若者たちは、ワシントンで結ばれた軍縮条約の冷たい風に吹かれ、その多くが艦に乗るという夢を諦めざるを得なかった。
海軍兵学校の採用枠は無情に削られ、卒業しても任官を辞退し、故郷へ帰る者が後を絶たなかった。帝国海軍の人材という名の畑は痩せ細り、干上がる寸前だった。
しかしこの年の夏は、その赤煉瓦の校舎には信じられないほどの暑さをものともしない活気が、まるで蘇った亡霊のように満ち溢れていた。
校庭の隅では、真新しい作業着に身を包んだ若者たちが、アメリカのフォード社から輸入されたばかりの、大型トラックのエンジンを分解し、その構造を食い入るように見つめている。講堂では、陸軍を予備役となった元工兵将校が、測量技術と土木工学の講義を、熱っぽく行っていた。
そして、かつては士官候補生たちの寮でありながら士官枠の減少により空き家となっていた建物は、今や「海軍制度債業務監査官・養成所」と名を変え、宇垣軍縮で軍服を脱いだ元陸軍の精鋭たちや、兵学校の採用枠の減少のあおりを喰らい涙をのんだ若者たちが、複式簿記と国際金融法を、歯を食いしばりながら学んでいた。
この奇妙で、しかし力強い光景を、校舎の窓から、二人の男が見下ろしていた。
一人は、アメリカ駐在武官の辞令が下り日本を離れる直前の東郷一成。そしてもう一人は、この教育機関の統監を務める山本英輔であった。
「……壮観だな、東郷」
山本は、煙草の煙を、細く吐き出しながら、言った。
「陸軍の連中が、ここで算盤を習っているとは。数年前までなら誰も信じなかっただろう。しかも、その給金と、教科書と、あのトラックの代金が、全て君が作り上げた『制度債』で賄われているとはな」
「彼らは当時の年齢の私より、優秀です」東郷は、静かに応じた。
「鉄の規律と、国家への忠誠心を持っている。あとは、新しい『武器』の使い方を覚えてもらうだけでいい」
「武器、か」山本は、苦笑した。
「確かに、ペンは剣よりも強し、とは言うがな。……それにしても、驚いた。機関学校だけでなく、兵学校、経理学校、果ては海軍大学校まで。全ての教育機関の定員を、去年の三倍にまで拡大するとは。しかも、その予算の全てを大蔵省に一銭も頼らず、制度債で賄うと宣言した。……霞が関の連中は、今頃血の涙を流しているだろうよ」
東郷は、人を食ったような微笑で答えた。ただ校庭で、目を輝かせながらエンジンを覗き込む、十代・二十代の青少年たちを見つめていた。彼らは、単なる兵士ではない。「海軍技術予備員」として、全国の貧しい農村や、不況に喘ぐ港町から、制度債の「奨学金」を得て、ここに集められた、未来の種子だった。
済南事件は、東郷に一つの確信をもたらしていた。制度債というシステムが、兵士の命を救えるのだと。そして、そのシステムをより強固に、より巨大にするためには、それを動かす「人間」が、圧倒的に不足しているのだと。
アメリカという国は、その広大な国土と有り余る富で、毎年、数千数万という単位の、技術者と、経営者と、法律家を育て上げ、社会に送り出している。その分厚い「人材の層」こそが、あの国の本当の強さの源泉だ。
ならば我々もまた、同じことをするまで。
国家予算という、矮小な枠組みの中で、陸軍と限りあるパイを奪い合うのではない。信用という、無限に広がる新しい大地の上に、我々自身の新しい「国民」を育て上げるのだ。
彼らは、海軍の兵士にはならないかもしれない。だが彼らは、フォードのエンジンを操り、複式簿記を理解し、そして何より、「制度債の恩恵」を、その骨の髄まで知ることになる。彼らが十年後、二十年後、この国の工場で、銀行で、そして官庁で、その中核を担うようになった時。
その時こそ、「見えざる帝国」はその版図を完成させるのだ。
「……私は、方舟を造っているのです」
東郷は、独り言のようにつぶやいた。
「そして、その方舟を動かす優秀な『乗組員』を、今育てている」
山本は、黙って煙草の煙を吐き出した。彼の目にはこの壮大な、そしてどこか恐ろしい計画の遥か先にある、巨大な嵐の海が見えているようだった。
時:1928年(昭和三年)、秋
場所:横浜港・大さん橋
霧雨が、出港を待つ今年就役したばかりの最新客船「氷川丸」の、黒い船体を静かに濡らしていた。これから太平洋を越え、アメリカへと向かうこの船の、一等船室の窓から、東郷一成は、霧に霞む岸壁を見つめていた。「氷川丸」は、海軍が建造費を制度債で助成したこともあって予定より二年早く計画が進んだのである。
東南アジアや中国における制度債の浸透は、世界一の大国であるアメリカにも伝わり始めていた。反応はさまざまであり、その様子はまさに”混乱”という言葉がふさわしいものであった。
東郷は、その混乱の中心へ、自ら乗り込もうとしていた。表向きは駐米武官としての、定期的な報告と情報交換である。
船の出港を告げる、長く低い汽笛が響き渡る。
岸壁では、小さな人影が二つ、彼を見送っていた。父東郷平八郎と、養女の幸。
やがて、船と岸壁を繋いでいたタラップが、ゆっくりと外される。船体がきしむような音を立てて、岸壁から離れていく。
平八郎は、何も言わなかった。ただ、その老いた鷲のような鋭い眼光で、遠ざかっていく息子を、じっと見つめている。
幸は小さな手を、懸命に振っていた。その隣で平八郎が、不意に静かな声で問いかけた。
「……幸」
「はい、お爺様」
「……お前は、あやつが何をしようとしておるのか、分かっておるのか」
その問いは、子供にするには、あまりにも重かった。
幸は手を振るのをやめ、遠ざかる船の、小さな窓を見つめ返した。父の姿が、もう豆粒のようにしか見えない。
「……はい」
彼女は、はっきりと答えた。
「お父様は、この国を守ろうとしています。剣や、大砲だけではない、別の、もっと強くて、もっと静かなもので…」
「……静かなもの、か」平八郎は、海を見つめたまま言った。
「わしが、日本海で戦った時、敵は、目の前に見えておった。撃つべき敵艦が、そこにおった。だが、今のあやつの敵はどこにおるのだ? 数字か、法律か、それとも人の心の中に潜む、欲望という名の怪物か……」
幸は、答えられなかった。ただ、父から教わった新しい言葉を、心の中で繰り返していた。
『任務国家』
国民の全ての行いが、国家の力となる新しい国。その国を造るために、父は、たった一人で戦っている。
「……お爺様」
幸は、平八郎の分厚く、節くれだった手をそっと握った。
「お父様は、言っていました。『方舟を造っている』と。これから来る大きな嵐から、みんなを守るための方舟だって」
「……方舟、だと?」
平八郎の口元に自嘲するような、それでいて、どこか誇らしげな笑みが浮かんだ。
「……馬鹿なやつだ。ノアの方舟に乗れたのは、神に選ばれた、正しい者だけだ。だが、この国には、正しい者も、間違っておる者も、善人も、悪人も、皆、等しく生きている。……あやつは、その全てを乗せるつもりか。この泥水にまみれた、日本という国そのものを、まるごと救うつもりでおるのか」
彼は、幸の手をそっと握り返した。その手は、驚くほど温かかった。
「ならば、幸。お前が、あやつの羅針盤になってやれ」
「……羅針盤?」
「そうだ。あやつは、あまりにも、遠い星ばかりを見ている。足元の、岩礁や、浅瀬には気づかぬやもしれん。お前がその目で、澄んだ目で、あやつの進むべき道を、照らしてやるのだ。……あやつが、道を見失わぬようにな」
幸は、涙が溢れそうになるのを必死で堪えた。
「……はいっ」
彼女は、もう一度遠ざかる船に向かって、大きく、大きく、手を振った。
父の姿はもう、横浜の霧の中に、完全に溶けてしまっていた。だが、幸には分かっていた。父は、きっとこちらを見ている。そして、父の心の中にも、自分とお爺様の姿が、はっきりと見えているのだと。
船は、ゆっくりと向きを変え、太平洋の広大な、そして、まだ見ぬ嵐が待ち受ける水平線の彼方へと、その舳先を向けた。
その船影を見送りながら、平八郎は、誰に言うでもなく静かにつぶやいた。
「……行け。そして、帰ってこい。……わしの、息子よ」
その声は、霧雨に吸い込まれ、誰の耳にも届かなかった。ただ、彼の隣で、小さな少女だけが、その言葉に込められた不器用でしかし、深い愛情を確かに感じ取っていた。
これにて第一章、完結となります。
ここまでお付き合いいただき、本当にありがとうございました!
第二章の執筆準備のため、ここで少しだけお休みをいただきたく思います。
第二章では、さらなる物語をお届けできるよう準備してまいりますので、しばしお待ちいただけますと幸いです。恐らく1日1話投稿となると思いますが、よろしくお願いします。
今後とも、宜しくお願いいたします。
ありがとうございました。




