山本五十六
時:1928年(昭和三年)、秋
場所:東京・水交社(海軍士官の社交クラブ)
秋雨が、水交社の庭園をしっとりと濡らしていた。雨音だけが響く静かな一室で、二人の海軍大佐がそれぞれ異なる思いを胸に、コーヒーカップを前にしていた。テーブルの上には、洋行帰りの土産であろうカラフルなゼリービーンズの瓶が置かれている。
一人は、山本五十六。二年半に及ぶ駐米武官の任を終え、数日前に帰国したばかり。日に焼けた精悍な顔つきは変わらないが、その瞳の奥には、アメリカという巨大な国家の現実を目の当たりにしてきた者の、深い思慮の色が浮かんでいた。彼は今、まさに浦島太郎のような心境だった。
そしてもう一人は、東郷一成。その後任として、数日後にはアメリカへと旅立つ男。
本来であれば、二人がこうして東京で顔を合わせることはなかった。東郷の赴任が急遽決まり、山本の任期が半年延長されたことで生まれた、奇跡のような時間だった。
「……驚きましたよ、東郷君」
最初に沈黙を破ったのは、山本だった。彼はゼリービーンズを一つ、無造作に口に放り込みながら、どこか呆れたような、それでいて面白そうな口調で言った。
「軍令部に出頭してみれば、誰も彼もが『空母がどうした』『継戦能力がどうした』と、まるで十年後の未来の話をしている。私がアメリカへ立つ前は、まだ『大艦巨砲こそ海軍の華』で一致していたはずだが。……この二年半の間に、一体何があったんだね?そして極めつけは、これだ」
山本は、懐から一枚のカードを取り出した。NCPC――海軍信用購買証だ。 「水交社の売店で煙草を買おうとしたら、これを出された。現金は要らん、と。……東郷君、魔法でも使ったのか? この国を俺の知らんうちに、全く別の生き物に変えてしまったようだな」
その問いに、東郷は静かに微笑むだけだった。
「私が聞きたいくらいです、山本先輩。……先輩こそ、この国の未来を見てこられたはずだ」
「未来、かね」山本は砂糖を大量に入れたコーヒーを一口すすると、遠い目をした。「ああ、見てきたさ。フォードの工場で、流れ作業で生み出されるT型フォードの洪水。マンハッタンの空に、日に日に伸びていく摩天楼。そして、テキサスの砂漠の上に、石油がいくらでも湧き出してくるのを、な」
彼は、カップを置いた。
「……東郷君。奴らは、我々とは違う生き物だ。戦争を『決闘』だなどとは微塵も思っていない。あれは、ただの『生産活動』だ。鉄と、油と、カネの量でただ相手を押し潰す。そこに、武士道も、名誉も入り込む隙はない。……私がアメリカで学んだことは、結局それだけだったかもしれん」
その言葉は、東郷がアナポリスで感じたものと寸分違わぬものだった。
「……だからこそ、です」東郷は言った。「奴らと同じ土俵で、生産量の競争を始めてはならない」
「……その『別の土俵』とやらが、君が作り上げたという『制度債』か」山本は、探るような目で東郷を見た。「ワシントンの友人たちからも、噂はかねがね聞いていた。日本の海軍が、魔法の財布を手に入れた、と。……正直、帰国するまで半信半疑だったが、どうやら噂は本当らしいな。軍令部の連中が、まるで子供が新しい玩具を与えられたように、目を輝かせて『お買い物リスト』を作っていたぞ」
「先輩のお耳にまで入っていましたか」
「当たり前だ」山本は、ゼリービーンズをもう一つ口に入れた。「おおかた君が裏で糸を引き、艦隊派の連中を上手いこと手懐けたのだろう。航空主兵論が、これほど早く日本海軍に受け入れられるとは、思ってもみなかった」
その言葉に、東郷は静かに首を横に振った。
「いいえ。私がやったことではありません。……時代が、それを求めたのです。そして、その時代の声に、軍令部の皆さんが自ら耳を傾けられた。……ただ、それだけのことです。私にできたのは、その声を聞くための、ささやかな『補聴器』をお貸ししたに過ぎません」
「補聴器、か。うまいことを言う」山本は、ふっと笑った。「その補聴器のおかげで、私の次の辞令も、面白いことになった」
「と、申されますと?」
「巡洋艦『五十鈴』の艦長のはずだったんだがな。どうやら、空母『赤城』の艦長になるらしい。……航空機のことなど、ろくに知らんこの俺が、だ。全く、人使いが荒いにも程がある」
そのぼやきとも取れる言葉の裏に、新しい挑戦への武人としての興奮が隠されているのを、東郷は見逃さなかった。
山本五十六。長岡藩出身。戊辰戦争で「賊軍」の汚名を着せられた土地から、努力と才覚だけで海軍の中枢に上り詰めた男。彼は、薩摩や米沢といった、海軍の主流派閥の出身ではない。だからこそ、彼は常に、組織の論理よりも、自らの目で見た現実と、合理性を信じてきた。その彼が、空母の艦長に。
(……面白いことになるな)
東郷の胸に、静かな確信が芽生えた。
「……先輩」東郷は、口調を改めた。「アメリカへ行かれる前に、一つだけお聞きしても?」
「何だね?」
「『制度』のことは、一度お忘れください。先輩が、駐米武官として、ただ一人の軍人として、アメリカという国と、その海軍を見てこられた、その肌感覚で、お答えいただきたい。もし、この国と本気で戦うことになったら。……我々に、勝ち目はあると思われますか?」
その、あまりにも根源的で、そして絶望的な問い。
山本はしばらく黙り込んだ。雨音が、部屋の静寂を一層深くしていた。
やがて彼は、コーヒーカップに残った冷たい液体を、一気に飲み干した。
「……ないな」
その答えは短く、そして断定的だった。
「正面から殴り合えば、な。……だが」
彼は、ゼリービーンズの瓶を指でとん、と弾いた。
「戦争は、それだけではないだろう? ……例えば、博打打ちが、素人を相手にする時、どうするかね? 決して相手が得意なポーカーでは、勝負しない。相手がルールを知らない、チンチロリンか何かで勝負を挑むはずだ。……そしてそのルールブックは、博打打ちの頭の中にしかない」
彼は東郷の目をまっすぐに見据えた。その瞳の奥には、日露戦争で指を失った歴戦の軍人の顔と、新しい時代の戦争の本質を見抜く稀代の戦略家の顔が、同居していた。
「東郷君。君がやろうとしていることは、それだろう? ……我々しか知らない、新しいゲームのルールを、この太平洋に持ち込もうとしている。違うかね?」
東郷は、何も答えなかった。ただ、静かに頭を下げただけだった。
「ならばせいぜい、面白いルールブックを作ってくることだな」
山本は、そう言うと、席を立った。
「……日本を頼みます、五十六先輩」
「ああ。……東郷君も、達者でな」
二人の天才が、静かにすれ違う。
一人は、アメリカという現実を知り尽くし、その上で日本の進むべき、新しい「戦い方」を模索するために、空母の甲板へ。
そしてもう一人は、その新しい「戦い方」の最も重要な鍵を握る、アメリカという巨大な敵の、まさに心臓部へと。
二人の天才の間に、言葉はもはや不要だった。 彼らは互いが、それぞれの戦場で、それぞれのやり方で、同じ一つの巨大な敵と戦う孤独な同志であることを、確かに理解し合っていた。
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次回、第一章最終話となります。
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