表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
TOGO 軍神の息子は、アナポリス帰りから軍縮した貧乏日本海軍の記録で稼ぐようです  作者: キユ
第一章

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

53/184

書斎の海戦

時:1928年(昭和三年)、夏の夜

場所:ニューヨーク州知事公邸、オールバニ


夏で火の通っていない書斎の暖炉の代わりに白熱電球の光が、壁にかけられた古びた海図を照らし出していた。私、フランクリン・デラノ・ルーズベルトは車椅子の上で、海軍時代の旧友であるウィリアム・モフェット提督からの、極秘の私信を読み返していた。


『……フランク。君が警告してくれた通りになった。例の日本の新ドクトリンを巡り、作戦本部は完全に二つに割れている。ガン・クラブの連中はこれを「弱者の逃げ」と嘲笑い、我々航空派はこれを「巧妙な罠」だと警戒している。議論は空転し、来年度の予算編成は、醜い派閥抗争の様相を呈し始めた。……我々は、敵の姿を見誤っているのかもしれない』


私はその手紙を机に置くと、深く息を吐き出した。

(……見事なものだ、東郷)

君は、太平洋に一発の砲弾も撃ち込むことなく、ワシントンD.C.の会議室で、我らが海軍の最も醜悪な内戦を誘発してみせた。


ガン・クラブ。航空派。

それは、単なる兵器思想の違いではない。海軍という組織の予算と、未来の主導権を巡る、剥き出しの権力闘争だ。東郷はそこに「空母による通商破壊」という、どちらの派閥にとっても都合の良い、そして、どちらの派閥にとっても不安を煽る絶妙な「餌」を投げ込んだのだ。


ガン・クラブの連中は、こう考えるだろう。「好都合だ。ジャップどもが正々堂々たる艦隊決戦から逃げた。ならば、我々の無敵の戦艦艦隊の優位は、もはや揺るぎない」と。彼らは、自らの存在意義が脅かされていないことに安堵し、思考を停止させる。


一方モフェットのような、聡明だがまだ少数派の航空派は、こう叫ぶ。「これは罠だ! 日本の空母の脅威に対抗するため、我々にもっと予算を!」と。彼らは危機感を煽り、自らの派閥の勢力拡大を図ろうとする。


結果、どうなるか。

海軍は一枚岩の戦略を描けず、内輪揉めにその貴重な時間とエネルギーを浪費する。そして限られた予算は、戦艦派と航空派の妥協の産物として、中途半端に食い物にされ、どちらも決定的な優位を築けぬまま、時間だけが過ぎていく。


(……東郷。君の狙いは、これだったのか。敵の“内なる矛盾”を突き、その意思決定そのものを麻痺させる。……なんと、悪魔的な手だ)


だが私は、モフェットほど悲観的にはなっていなかった。

なぜなら、この「ドクトリン論争」そのものが、東郷の仕掛けた、より巨大な欺瞞工作の一部である可能性に気づき始めていたからだ。


私は、腹心のハリー・ホプキンスを呼んだ。

「ハリー。ユニット・Rが集めた、日本の『制度債』に関する最新のレポートを」

「ここに」

ホプキンスが差し出したファイルの頁を、私はゆっくりとめくった。そこに並んでいたのは、軍事ドクトリンのような華々しい言葉ではない。地味で、しかし、血の通った数字の羅列だった。


『……川崎神戸造船所ニテ建造開始ノ大型ディーゼル・タンカー『海王丸』。建造資金、制度債ファンドヨリ全額出資…』

『呉海軍工廠、ドイツヨリ最新鋭ノ大型旋盤ヲ購入。決済、上海ニテ銀・制度債ニテ実施…』

『横須賀・追浜航空隊、発動機性能試験ヲ実施。ソノ燃料、スタンダード・オイル社ヨリ、制度債決済ニテ購入…』


「……これだ」

私は、レポートの一点を指で叩いた。


「ハリー、分かるかね? 我々の海軍が、『空母が強いか、戦艦が強いか』などという、神学論争に明け暮れている間に。東郷は、そのどちらをも支える“足腰”を、我々の目の届かないところで、黙々と、そして凄まじい速度で、作り上げているのだ」


大型タンカー。最新の工作機械。そして、アメリカ製の、高性能な航空燃料。

それらは全て、ワシントン海軍軍縮条約のいかなる条文にも触れない。しかしそれら全てが、来るべき総力戦における「持続性」――継戦能力――を、決定的に左右する要素だ。


「……モフェットは日本の新ドクトリンを『罠』だと言った。……違う。ハリー、あれは『罠』ですらない。あれは我々の目を引きつけるための、陽動だ。花火だ。我々がまだ実体のない『航空主兵論』という名の花火に見とれている間に、東郷はその足元で静かに、そして確実に、日本の国土そのものを巨大な『不沈要塞』へと作り替えようとしているのだ」


私は、車椅子を窓辺に進めた。ハドソン川の向こうに広がる、アメリカの夜景。その無数の光の一つ一つが、この国の圧倒的な工業力を象徴していた。


(……そうだ。東郷、君は知っているのだな。このアメリカという巨人を本気で怒らせることの、本当の恐ろしさを。だから君は、我々と同じリングには上がらない。我々が気づかぬうちに、我々とは全く別のルールで、静かに力を蓄え続ける……)


そして私はもう一つの、より恐ろしい可能性に思い至った。

「ハリー」

私は、傍に控えるホプキンスに声をかけた。

「君は社会福祉の専門家として、今のこの国の好景気をどう見る?」


その問いにホプキンスは、いつもより険しい表情で答えた。

「フランク、危険な兆候は至る所に見られます。農産物の価格は下落し続け農民は困窮している。工場の生産性は上がり続けているが労働者の賃金は追いついていない。つまりモノは溢れているのに、それを買うためのカネが、国民の隅々にまで行き渡っていない。……これは、健全な成長ではありません。いつか必ず破綻する、過剰生産という名の熱病です」


「その通りだ」私は頷いた。

「そして、その熱病が冷めた時――すなわち不景気が訪れた時、政府の税収は激減する。均衡財政を信奉する共和党政権下では軍事費も、公共事業も、真っ先に削減の対象となるだろう。我々が次に軍縮会議のテーブルに着く頃、我々の手札は今よりもずっと弱くなっている可能性が高い」

私は、目を閉じた。全てのピースが、一つの恐るべき絵図へと組み上がっていく。


「ハリー、分かるかね? 日本の新しいドクトリン――『空母による通商破壊』――あれは、軍事的な脅しであると同時に、経済的な時限爆弾でもあるのだ」


「……と、申しますと?」

「想像してみろ。二年後のロンドン。世界は不況にある。我が国も、イギリスも、もはや一隻の巡洋艦を建造する予算すら捻出したくない。その凍てつくような交渉のテーブルに、日本がこの『通商破壊』というカードをちらつかせながら座ったら、どうなる?」


私の脳裏に一つの記憶が蘇る。欧州大戦。ドイツのUボートが繰り広げた、無制限潜水艦作戦。あれはイギリスの喉元に匕首を突きつける、極めて効果的な軍事作戦だった。しかし同時に、それはアメリカの参戦を招き、ドイツ自身の首を絞める、最悪の「政治的失敗」でもあった。


通商破壊。その言葉はこの戦間期の平和に慣れた世界において、最も忌み嫌われ、最も警戒される、悪魔の言葉だ。ドイツの悪夢から、まだ十年しか経っていない。

(……東郷。君は、あの悪夢を、今度は太平洋で再現しようというのか? いや、違う。君はその“悪夢の記憶”そのものを、人質に取ろうとしているのだ)


ホプキンスは、息を呑んだ。

「……彼らは、我々が最も嫌がる『Uボートの悪夢』を突きつけてくる。我々がそれを封じ込めたければ、彼らの要求(戦力比率の引き上げなど)を飲むしかない。……我々には、それに対抗する建艦予算がない」


「そうだ。あるいは交渉を決裂させるか、だ」私は続けた。

「そしてその交渉の相手が、あの自らを過大評価する……ヘンリー・スティムソンだということが、最悪の事態を招く」


私は、机の上に置かれた、スティムソン国務長官の顔写真を指で弾いた。共和党のエスタブリッシュメント。陸軍長官の経験はあるが、海軍の機微には疎い。そして何よりも、蒋介石の国民党に肩入れするあまり、日本の、特に海軍の現実を完全に見誤っているあの男。


「スティムソンは、心根は善人だ。アメリカは国際社会のエリートとして『白人の責務』を果たさねばならぬと、本気で信じている。彼がフィリピンの独立に反対するのも、蒋介石を支援するのも、全ては『劣等なアジアの民を、我々が正しく導いてやらねばならぬ』という善意からだ。……だからこそ、彼の愛する国際法と正義の名の下に、日本のこの『弱者の卑劣な戦法』を、道義的に許せないだろう。正義感に燃えて日本の脅しに屈しない、強いアメリカを演出しようとするだろうな」


「……交渉の、決裂」

「その通りだ!」私は、机を叩いた。

「そして交渉が決裂し、軍縮条約が更新されなければ、建艦競争が再開する。東郷が、日本海軍が最も望んでいるであろう自由な軍拡の時代が、我々アメリカの『正義』の手によって始まってしまうのだ!」


東郷は自らの真の目的(軍拡)を、敵であるアメリカの「正義感」と「財政的困窮」によって達成させようとしている。しかもその責任の全てを、スティムソンという、私にとっては最大の政敵でもある男に押し付ける形で。


「……さらに、最悪なことがある、ハリー」私の声は、我ながらかすかに震えているのに気づいた。


「このシナリオには、東郷の『制度債』という、あの不気味な資金力が一切考慮されていない。スティムソンは、日本が我々と同じように、不況下で国家予算が枯渇すると信じて疑わないだろう。だが、現実は非情だ。我々が予算の制約に喘ぐ中、日本だけがその見えざる財布――国民の“任務”そのものを価値の源泉とする、不況に強い自己完結した経済圏――を使って、我々を遥かに凌駕するスピードで、艦隊を拡張していくことになる…」


「フランク……それは…」

「ああ。地獄だ」私は、ホプキンスの言葉を遮った。

「そして、その地獄の釜の蓋を開けるのが、他ならぬ我が国の国務長官その人だというのだから、もはや喜劇だ」


私は、夏の火の通っていない暖炉を見つめた。

正直に言えば、私の中にもかつては彼らと同じような考えがあった。黄色い顔の小さな島国の民。彼らが、我々アングロサクソンの築き上げた、この世界のルールを本当に理解できるのか、と。


だが、東郷一成。あの男の存在が、その生まれながらにして持っていた傲慢さを根底から粉砕してしまった。彼は我々のルールを理解した上で、そのさらに裏側に、全く別の、より強靭なルールを作り上げてしまったのだ。それはもはや人種や文化の優劣の問題ではない。システムそのものの生存競争だ。


(……もはや、彼らを『モンキー』などと誰が言えるのだ)

いつもお読みいただきありがとうございます。


もし少しでも「面白い」「続きが気になる」と思っていただけましたら、ブックマークや感想、ページ下の【★★★★★】で評価をいただけますと、執筆の大きな励みになります。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ