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TOGO 軍神の息子は、アナポリス帰りから軍縮した貧乏日本海軍の記録で稼ぐようです  作者: キユ
第一章

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栄養失調の病人

時:1928年(昭和三年)、夏


場所:霞が関・海軍軍令部、第一会議室


その日、軍令部の第一会議室は、外の暑さにも劣らない奇妙な熱気に包まれていた。それは、新しい軍艦の建造計画が議題に上る時のような華々しい興奮ではなかった。むしろ長年連れ添った古女房の、これまで気づかなかった(あるいは、気づかないふりをしていた)欠点の数々を、初めて指摘された時のような気まずさと、焦燥感が入り混じった熱だった。


テーブルの中央には、艦政本部と航空本部、そして軍務局の若手エリートたちが数ヶ月かけて作成した、分厚い報告書が置かれていた。その表題はこうだ。


『対米長期消耗戦ニ備フル継戦能力向上計画(第一次草案)』


軍令部次長の野村吉三郎はその報告書の頁をめくりながら、深い溜息をついた。


「なるほどな。……いざ、『長く戦う』という目で我らが帝国海軍を見てみれば、これほどまでに穴だらけだった、というわけか」


その呟きに、報告書を作成した若手幕僚の一人が緊張した面持ちで口を開いた。


「はっ。……まず、第一の問題は、艦艇の“足”の長さ、すなわち航続距離であります。我が海軍の駆逐艦は、個艦の戦闘能力を重視するあまり、船体を切り詰め、燃料タンクの容量を犠牲にしてまいりました。これでは、太平洋の真ん中で艦隊決戦を行なった後、母港に帰り着く前にガス欠を起こします」


「……つまり、アレか。帰りの切符を持たずに、喧嘩に出かけるようなものか」


野村の自嘲気味な言葉に、会議室が重苦しい沈黙に包まれた。


「わかった。解決策は?」


「はい。現在計画中の新型駆逐艦(特型)の設計を一部変更し、速力低下を覚悟で燃料タンクを増設。さらに既存の駆逐艦にも、追加のタンクを取り付ける改装工事を、急ぎ進める必要がございます。……そして何より」


幕僚は、報告書の別の頁を指さした。そこには、巨大なタンカーの設計図が描かれていた。


「連合艦隊に随伴可能な、高速給油艦隊の整備が急務です。これなくして太平洋での長期作戦行動は、机上の空論に終わります」


「……ドイツのディーゼルか。……東郷の奴が、三菱と進めているという、あの話だな」


「左様です。……ただし問題は、そのための予算であります。この給油艦隊を揃えるだけで駆逐艦数隻分の予算が、軽く吹き飛びます」


その言葉にそれまで黙っていた経理局の主計大佐が、静かに、しかし、はっきりと口を挟んだ。


「……問題ありません。……“制度”の基金から、回せます」


その一言に、会議室の空気が変わった。これまでなら、「予算がない」の一言で終わっていた議論が、初めて「どう使うか」という建設的な段階へと進んだのだ。


「……よし、続けろ」


野村に促され、次の幕僚が立ち上がった。彼は航空本部の出身だった。


「次に、航空機であります。我が海軍の一〇式艦上戦闘機は、性能自体は申し分ありません。しかし旧式化が顕著です。後継予定の中島の戦闘機も、母艦から二百カイリも離れれば、もう帰ってこられない。……これでは、敵の索敵網を突破することも、長距離偵察を行うことも不可能です。……空母艦隊の目と拳が、あまりにも短い」


「……解決策は?」


「発動機の、燃費向上と信頼性の確立。そして機体そのものの軽量化と、燃料搭載量の増加。……そのためには、欧米の最新のエンジン技術と、ジュラルミンなどの新しい素材を、積極的に導入する必要がございます。……幸い、かの国のスタンダード・オイル社は、最近我々の『制度』に、大変興味を示しておられるようで」


再び経理局の主計大佐が、静かに頷いた。

「交渉の窓口は、近くワシントンに赴任する、東郷大佐が直接開きます。……必要なドルは、上海の銀で、いくらでもご用意できます」


野村に促され、次の幕僚が立ち上がった。彼は艦政本部の造船技師だった。


「次に、人の問題です。端的に申し上げます。我が海軍の艦艇は、人が住む場所ではございません」


彼の言葉は衝撃的だった。

「これは、昨年の演習航海における、駆逐艦『睦月』の兵員室の記録です。一人当たりの床面積は一平方メートル未満。ハンモックは交代制。夏場の室温は常に四十度を超え、結核患者が三名発生。……食事は、塩漬けの魚と米と、味噌汁のみ。ビタミン欠乏による脚気の兆候が見られた者は、全体の二割に達しました」


野村が顔を覆った。

居並ぶ将官たちは、皆、気まずそうに俯いている。それは誰もが知っていながら、見て見ぬふりをしてきた不都合な真実だった。

「解決策は!」


「艦内の居住区画の全面的な改装。換気装置の増設、冷凍冷蔵庫の設置、そして何よりも、兵員食の抜本的な見直し。……そのためには、給糧艦や、新鮮な野菜を栽培する艦上菜園の研究も必要となります。予算は、もはや天文学的な数字に」

「問題ないと、言っている」

主計大佐が、再び静かに言った。その声には揺るぎない確信がこもっていた。


次から次へと、帝国海軍の惨めな欠陥が列挙されていく。

工作艦の不足。魚雷の信管の致命的な欠陥。そしてあまりにも脆弱な応急防御システム。


それは、巨大な「お買い物リスト」の発表会だった。そしてそのリストに挙げられる品物のほとんどが、これまで「予算がない」という一言で、あるいは「大和魂で補え」という精神論で、切り捨てられてきたものばかりだった。


リストが読み上げられるたびに、将官たちの顔が、苦々しく歪んでいく。それは、自分たちがいかに「短期決戦」という名の脆く、危うい幻想の上に胡座をかいていたかを、まざまざと見せつけられる作業に他ならなかったからだ。


全ての報告が終わった時、野村は深く、長い溜息をついた。


「……分かった。つまり、こういうことか」


彼はゆっくりと顔を上げた。その目には、もはや焦燥の色はなかった。


「我々がこれまで『精強』だと信じてきた、この帝国海軍は、その実態は豪華な甲冑を身につけた、栄養失調の病人だった、と。そして東郷の奴はその病人に、初めて『腹一杯飯を食ってみろ』と山盛りの飯と、金の詰まった財布を、目の前に差し出してきた。……そういうことだな」


誰も、何も言えなかった。


「……よろしい」


野村は、机の上に広げられたその膨大な「お買い物リスト」を、力強く叩いた。


「……買え。買えるものは、全て買え。……ドイツのエンジンも、イギリスの軍服も、アメリカの旋盤も、全てだ。そして、作れ。この栄養失調の病人を骨の髄から作り変え、本当の意味での『世界最強』の海軍へと生まれ変わらせるのだ」


その言葉は、もはや古い「艦隊派」の思想ではなかった。


それは自らの弱さを直視し、それを克服するために、なりふり構わず世界の全てから学び吸収しようとする、新しい日本の産声であった。


そしてその産声の資金源が、一人の男が作り上げた「制度」によって賄われているという奇妙な現実を、その場にいた誰もが痛いほどに理解していた。


「……ただし」


野村は、最後に付け加えることを忘れなかった。


「この買い物のリスト一件、一件全てに、陸軍から出向してきている『監査官』どもの印鑑を、必ず貰っておけ。……奴らに、我々の金の使い道をガラス張りに見せてやれ。我々がいかに『継戦能力』の向上という、地味で、しかし死活的に重要な投資を行っているかを、その目でとくと見せてやるのだ。それが奴らへの、最大の牽制になる。そして、彼らが何か言ってきたらこう言え。『ならば、貴軍の予算も、同じように我々海軍の監査官に開示していただこうか』と、な」

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改めて……よくこんな状態でアメリカに喧嘩売れたなこの国!!?
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