氷の下の槌音
時:1928年(昭和三年)、夏
場所:東京・霞が関、大蔵大臣室
官邸での、あの嵐のような一日が過ぎ去った後も、高橋是清の頭の中には一つの素朴な、しかし根源的な疑問が渦巻いていた。
(それにしても、解せんな)
彼は、大臣室の分厚い絨毯の上をゆっくりと歩きながら、自問自答を繰り返していた。
(海軍の、あの東郷という小僧。奴が、いかに食えん男だとしても、だ。自らが稼ぎ出した、虎の子のカネを、憎き陸軍にくれてやるなどと。……慈善事業でもあるまいに。一体奴らは、何を企んでおるのだ?)
その疑問を確かめるべく、彼はある日の午後、海軍大臣の岡田啓介と軍令部次長の野村吉三郎を、自らの大臣室に非公式に呼び寄せた。
「まあまあ、お二人とも固くならずに、茶でも飲みなされ」
是清はにこやかに茶を勧めながら、単刀直入に切り出した。
「それで、岡田さん。野村さん。……正直に聞かせてはくれんかのう。……あんたら海軍は、なんでまた陸軍なんぞに、カネを恵んでやる気になったんだ? いくら制度債で儲かって、懐が暖かいからといって、普通はやらんことですわい」
そのあまりに率直な問いに、岡田と野村は一瞬、顔を見合わせた。
やがて、口を開いたのは野村だった。その艦隊派の猛将として知られる男の口から出たのは、意外なほどに現実的で、そしてどこか自嘲的な言葉だった。
「……是清閣下。……我々も馬鹿ではありませんのでな」
「ほう?」
「東郷が作り上げたこの『制度』。これが、どれほど途方もない資金力を今持っているか。……今や、我々軍令部の人間が、一番それを理解しております。……閣下がおっしゃる通り、その気になれば明日からでも、八八艦隊の亡霊を、二隻でも、三隻でも、蘇らせることができるでしょう」
野村のその言葉に、是清はゴクリと喉を鳴らした。
「……だが、我々はそれをやらんのです」
野村は続けた。その目には、かつての決戦至上主義の輝きではなく、新しい戦争の現実を見据える指揮官の、冷徹な光が宿っていた。
「もし、我々が馬鹿正直に、その有り余る資金を全て、新しい戦艦や空母の建造につぎ込んだら、どうなるか。……アメリカも、イギリスも黙って見てはおりますまい。彼らは必ずや、我々を『軍縮条約を破る無法者』として、国際社会から孤立させ、そして、経済制裁という名の兵糧攻めで、我々の息の根を止めに来るでしょう」
「……なるほど」
「だからこそ、です。是清閣下」野村は、声を潜めた。
「我々が手にした、この、あまりにも巨大すぎる力は、敵の目に触れぬよう、静かに、そして、巧妙に使う必要がある。……陸軍への、資金供出もその一環。……あれは、我々の有り余る資金の、最も分かりやすい『ガス抜き』であり、同時に陸軍という暴れ馬を手懐けるための、最高の『餌』なのですよ。正直、腹の中は煮えくり返っておりますがな。あの陸の猿どもに、我々の汗の結晶をくれてやるのは」
岡田が、そこで静かに言葉を継いだ。
「……そして、是清閣下。その『餌』以外の資金の本当の使い道こそ、我々が今最も、力を注いでいるところであります」
彼は、机の上に一枚の巨大な日本地図を広げた。
「まず、これです」
彼が指し示したのは、本州の最北端。下北半島の、大湊。小さい警備府があるだけの僻地だ。
「ここに、我々は新しい造船所を建設しております。表向きは、『北方漁業・民需船開発拠点』という、名目で。……しかしそのドックのサイズは、戦艦が複数同時建造可能な規模で、設計されている」
「……何だと?」
「北の海は、凍ります。我々は、その寒冷地での特殊な造船技術を学ぶため、ノルウェーから、密かに技術者を招聘しております。……来るべき対米戦が、アリューシャンや、北太平洋で起きぬと、誰が保証できますかな?もっともかの地の冬の吹雪は我々の想像を絶しており、ノルウェーから来た技師も、音を上げております。計画は、すでに遅延し始めているのが実情ですが」
是清は、言葉を失った。
岡田は、次に地図のあちこちに印をつけた。
「そして、日本各地の港湾。我々は制度債を使い、これらの港の水深を深くする、大規模な浚渫工事を進めております。……これで、大型船が全国のどの港へも寄港可能となる。兵站の柔軟性が格段に向上する」
さらに、彼は一枚の設計図の写しを取り出した。
「……そして、これ。ドイツのMAN社が開発した、最新の大型ディーゼル機関。……我々は、これを三菱と共同でライセンス生産し、戦艦の船体サイズを持つ、巨大な『タンカー』に搭載する研究を進めております。……平時は民間の石油輸送船として、アジア太平洋航路を走り回る。しかしひとたび有事となれば、それは我が連合艦隊の生命線となる、高速給油艦隊へと姿を変える」
戦艦を、作るのではない。
戦艦を作れるインフラを作るのだ。
空母を、増やすのではない。
空母を支える兵站網を築き上げるのだ。
是清は、全身に鳥肌が立つのを感じていた。
目の前の二人の海軍軍人が語っていること。それはもはや、単なる軍備拡張ではなかった。
それは「制度債」という魔法の資金を使い、この日本という国そのものをその産業基盤、エネルギー、そして物流の根幹から、来るべき総力戦に耐えうる強靭な「要塞」へと作り変えようという、あまりにも壮大で、そして恐るべき国家改造計画そのものだった。
「……分かった」
是清は、深く息を吐き出した。
「君たちの、本当の狙いは分かった。……よかろう。大蔵省としても、この件静観させてもらう。ただし、一つだけ約束してくれ」
「何ですかな」
「……この国を、滅ぼすなよ」
その老財政家の、魂からのような言葉に、岡田と野村は、ただ、深く、深く頭を下げることしかできなかった。
その会談が終わった後も是清は一人、大臣室で、地図を見つめていた。
大湊の氷の下で鳴り響く、槌音。
日本各地の港の底で蠢く、浚渫船。
そして、ドイツの設計室で唸りを上げる、新しいエンジン。
それら全ての音が、彼の耳には聞こえてくるようだった。
それらは、新しい時代の産声か。
それとも、この国が奏でる、壮大な滅びの序曲か。
その答えを知る者は、まだ誰もいなかった。
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