獅子の咆哮
時:1928年(昭和三年)、夏
場所:東京・永田町、首相官邸
官邸の空気は、まるで戦艦の弾薬庫のようだった。陸軍大将出身の総理大臣、田中義一の執務室から漏れ聞こえる怒号は分厚い扉を震わせ、廊下を歩く官僚たちの足を竦ませていた。
「恥を知れぃっ!!」
田中の腹の底から絞り出されたような咆哮が、室内にいた陸軍大臣白川義則と、参謀総長の鈴木荘六をその場に凍りつかせた。
「貴様らは帝国陸軍の誇りをどこに捨ててきたか! 一個大佐の分際で国家の大方針を独断で覆し、あまつさえその醜悪な陰謀が失敗したとみるや、組織の体面を守るため軍法会議にもかけず、ただの免職で済ませる。それが陛下の軍隊のやることか!!」
田中は、もはや首相の顔ではなかった。それは、陸軍という巨大な、しかし腐り始めた組織の醜態を嘆き、そして心の底から怒り狂う、一人の老いた獅子の顔だった。
張作霖爆殺未遂事件。そして首謀者、河本大作のあまりに不可解な処遇。その報は、海軍の情報網を通じてすでに田中の耳にも届いていた。
石原や永田といった陸軍の「頭脳」たちが、自らの保身と今後の海軍との力関係を計算し、蜥蜴の尻尾切りの如く河本を切り捨てた、その醜い裏側の力学も。
「……総理。お言葉ですが」
参謀総長の鈴木が震える声で反論しようとした。
「黙れぃ!」
田中は火のついたような目で彼を睨みつける。
「わしはな、陸軍のおかげでこの宰相の座におる。その陸軍が腐っておるというのなら、その責任は全てこの田中義一が取る。西園寺公に何と罵られようと構わん。民政党の小僧どもに『嘘つき総理』と野次られようと知ったことか。だがな、貴様らのその腐りきった根性だけは、このわしが叩き直してくれる!」
その気迫は凄まじかった。かつて政敵を陰謀で葬り去ってきた策謀家としての冷徹さと、長州閥の巨頭としての矜持が一体となった、人生最大の憤怒だった。白川も鈴木も、もはや一言も返すことができなかった。
まさに、その時だった。
「総理。大蔵大臣が至急の案件で面会を求めておられますが」
秘書官が恐る恐る声をかけた。
「是清がか。……通せ」
田中は荒い息を整えながら、椅子に深く腰を下ろした。
入室してきた高橋是清は、目の前の修羅場のような空気を一瞥すると、いつもの飄々とした笑顔で言った。
「これは、これは、総理。ちいとご機嫌が斜めのようですな。陸軍の坊主どもに、また何かやらかしましたかな?」
「是清。貴様、面白がっておるな」
「まさか」是清は、分厚い書類の束を机に置いた。
「むしろ、火に油を注ぎに参りましたわい」
「何?」
是清は、その書類の一番上の頁を指でとん、と叩いた。
「海軍から、来年度予算の一部を陸軍の『対ソ戦略準備』の名目で正式に譲渡したいと申し出がありましてな。政府予算としてこれを承認していただきたい、と。その稟議書です」
田中は言葉を失った。陸軍の将校たちが絶句した。
海軍が、陸軍に予算を譲渡する? 天地がひっくり返ってもありえない。それは国家の予算編成の常識を根底から覆す、異常事態だった。
「是清。わしをからかっておるのか」田中が絞り出すように言った。
「いいえ。至って真面目な話ですわい」是清はにこやかに続けた。
「もっとも、連中が差し出すのは円ではありませんがな。例の『制度債』という奇妙な紙切れの収益の一部。それを政府の公式な勘定に一度組み入れた上で、陸軍に回したい、と。東郷の小僧からの説明では、『これはあくまで政府予算です。海軍が陸軍に直接カネを渡すわけではありません』と、まあそういう理屈ですわ」
田中は、その稟議書をひったくるように手に取った。そこに記された金額と、その名目。
『北方戦略準備特別基金』
その文字を見た瞬間、田中は全てを理解した。
東郷一成。あの海軍の化け物は、このタイミングを狙っていたのだ。陸軍が張作霖爆殺未遂という最大の失態を演じ、その権威が地に落ちた、この瞬間を。首相である自分が、陸軍に対し人生最大の怒りを爆発させている、この瞬間を。
この瞬間に、陸軍が喉から手が出るほど欲しい、「対ソ戦準備」という最高の「餌」をぶら下げてきた。それも海軍からの「施し」という屈辱的な形ではなく、あくまで「政府予算」という公式なルートを通じて。
これを、陸軍が受け入れれば。
それは事実上、海軍の「制度」の軍門に下ることを意味する。自らの存在意義である「北」への備えを、海軍の稼いだカネで賄ってもらうという、屈辱的だが抗いがたい現実を受け入れるということだ。
そして、これを首相である自分が承認すれば。
それは陸軍の暴走を完全に抑え込み、その手綱を海軍に預けるという、政治的な決断を下すということだ。
(東郷……貴様!)
田中は唇を噛み締めた。
(貴様は、このわしの怒りすらも計算の内だったというのか!)
彼はゆっくりと顔を上げ、その場に立ち尽くす白川と鈴木に言った。
「陸相。参謀総長。……聞いただろう」
その声は、先程までの怒りが嘘のように、冷え切っていた。
「海軍が、貴様らの尻拭いのために身銭を切ると言っておる。この政府の予算を喉に通すか、それとも意地を張って飢え死にするか。選ぶのは貴様らだ」
それは問いではなかった。最後通牒だった。
白川と鈴木は顔を見合わせた。その目には屈辱と焦燥、そして、わずかな安堵の色が浮かんでいた。
やがて、白川が震える声で言った。
「……謹んで、お受けいたします……」
その言葉を聞いた是清は、思わずビクリと肩を震わせた。
彼は今、歴史の目撃者となっていた。
田中義一という老いた獅子が、自らの古巣である陸軍の喉元に牙を突き立て、その完全なる支配下に置くその瞬間の。
そしてその獅子の背後で、東郷一成という静かなる龍が冷ややかに微笑んでいる、その幻影を確かに見たのだ。
田中は、是清が差し出した稟議書に力強く署名した。
彼はまだ知らない。この一つの決断が、自らの内閣を延命させ、陸軍の暴走を完全に封じ込め、そしてこの国の運命を全く別の方向へと導いていく、その最初の一歩となるということを。
ただその日、首相官邸の執務室を支配していたのは、もはや怒りではなかった。
それは、一つの巨大な組織が、もう一つの巨大な思想の前に完全に屈服した静かな、そして底知れない畏怖の念であった。
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