碁盤の上の太平洋
時:1928年(昭和三年)、夏
場所:東京・赤坂、料亭「佳山」の離れ
部屋は静寂に満ちていた。時折、庭の鹿威しが乾いた音を立てるだけ。碁盤の上では、黒と白の石が静かな、しかし熾烈な陣地争いを繰り広げている。
白石を持つのは海軍の東郷一成。
黒石の主は陸軍の石原莞爾。そして、その脇には陸軍省整備局の永田鉄山が、表情を消して座っている。
東郷が陸軍に「北方戦略準備基金」という破格の提案をした直後だった。石原は、その申し出を屈辱と実利の間で揺れながらも、受け入れようとしていた。
だが、永田はまだ納得していなかった。彼のドイツ仕込みの合理的な頭脳が、警鐘を鳴らしていた。この取引は、あまりにもうますぎる。
「東郷大佐」永田は静かに口を開いた。「貴官のご提案、陸軍の近代化にとってこの上ない福音であることは認めましょう。しかし、一つだけ腑に落ちない点がある」
「と、申されますと?」
「なぜ、今、我々陸軍にこれほどの塩を送るのですか。貴官の『制度』の力をもってすれば、海軍単独でアメリカと渡り合うことも可能なのでは?」
その問いに、東郷は碁笥から白石を一つ、つまみ上げた。それを盤上に置かず、指先で弄び始める。
「永田大佐。貴官は日本で最も総力戦を研究しておられるお方だ。ならばお分かりのはずです。来るべき総力戦とは、すなわち“持続性”の戦いであるということを」
彼は懐から一枚の折り畳まれた海図を取り出した。太平洋全域を覆う巨大な海図だった。
「ワシントン条約の結果、我が連合艦隊の対米戦力比は七割に満たない。それでも短期の艦隊決戦ならば、猛訓練と幸運で勝利することも可能やもしれません。しかし、もしその決戦が一度では終わらなかったら?」
東郷は、海図の上に白石をそっと置いた。ハワイ・真珠湾の位置に。
「欧州大戦がそうであったように、来たる太平洋の戦いもまた、一度の会戦では終わりませぬ。それは無数の島々を舞台にした連続した会戦となるでしょう。その時、我が艦隊は補給し、修理し、再び戦場へと向かわねばならない。その持続性において、我々はアメリカに劣っている。これは認めざるを得ない事実です」
彼は、もう一つの白石をフィリピンの位置に置いた。
「永田大佐、このハワイとフィリピンを結ぶ戦線を、我が連合艦隊だけで維持できるとお考えか?」
永田は黙ってその海図を見つめていた。彼の頭の中で、無数の数字と兵站の計算が高速で回転し始める。
「つまり、貴官は…」
「そうです」
東郷は永田の目をまっすぐに見た。
「その“戦線を支える”という、最も重要で、最も過酷な任務を遂行できるのは、この帝国において陸軍、貴官らしかいないのです」
石原が思わず身を乗り出した。
「馬鹿な! 我々陸軍は大陸の軍隊だ! 南の海の小さな島で、一体何をしろと…!」
「ええ。今のままでは何もできませぬ」東郷は静かに言い放った。
「我々海軍は艦隊戦の訓練はしております。しかし、視界の効かぬ南洋のジャングルで、地の利を生かした米国の海兵隊と戦う訓練はしておりません。そして何より、そのための人員を割く余裕がない」
彼はそこで一度言葉を切り、永田に向き直った。
「永田大佐。貴官は今、対ソ戦で頭が一杯でしょう。だが、その貴官らが培ってきた陣地構築の技術、兵站維持のノウハウ、そして何よりもその強靭な精神力。それこそが、来たる太平洋の戦いにおいて、我が国が勝利するための最後の鍵となる」
「我々海軍が南の海でカネを稼ぐ。そのカネで貴官らは北のソ連に備える。しかし、その準備の過程で、その優れた頭脳のほんの一部で結構です。我々と共に、この新しい“海の戦場”で、陸軍がどう戦うべきか、そのドクトリンを研究してはいただけませんか」
その言葉に、永田は完全に沈黙した。反論できなかった。
東郷のロジックは陸軍のプライドを最大限に尊重し、その専門性を称賛し、その上で、国家全体の総力戦という、自らが最も信奉する土俵の上で、逃げ場のない「協力」を要求していた。
そして、永田は理解してしまった。なぜ、東郷が今、この話を持ち出したのかを。
(満州での一件……そうだ。あの一件で陸軍が暴走の危険性を自覚し、その手足を自ら縛らざるを得なくなった、このタイミングしかない、と。この男は、そこまで読んでいたのか……)
「これは、命令でも何でもありません」東郷は静かに言った。
「まだ軍縮の気風が濃く、次の戦争まで時間があると思われているこの平時にこそ、未来の戦いの準備をすべきだ、と。一人でも兵士を家に帰してやるための知恵を、今のうちに絞っておくべきだ、と。ただ、それだけの提案です」
永田はゆっくりと顔を上げた。彼の目には、もはや海軍への反発心はなかった。そこには、自分と同じ、あるいはそれ以上の次元で国家の総力戦を見据えている、もう一人の合理主義者へのある種の敬意と、そして戦慄だけがあった。
「…………分かりました、東郷大佐」彼は深く、そして重く頷いた。
「その研究、引き受けましょう。ただし東郷大佐。最初の議題は、貴官らが制度債で入手した、フィリピンおよび太平洋諸島の港湾施設に関する全ての情報を、我が参謀本部に開示していただくこととしましょう。共同研究とは、情報の対等な共有から始まりますのでな。そして、これだけはお忘れなく。我々陸軍は、貴官らの単なる“駒”ではない。この研究の成果によっては、我々が“主導権”を握ることもありうると」
「望むところです」
東郷は初めて、その唇にかすかな笑みを浮かべた。
そして、彼は先ほどから指先で弄んでいた白石を、碁盤の中央、「天元」にそっと置いた。
その一石が、盤面全体の力関係を静かに、しかし決定的に変えてしまったことを、その場にいた誰もが理解した。
東郷一成は、この日、陸軍の近代化を助けた。
そしてその見返りとして、彼は、太平洋という広大な碁盤の上に、陸軍という最も強力な、しかし、これまで交わることのなかった駒を、自らの意志で引きずり出すことに成功したのである。
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