北方戦略準備基金
時:1928年(昭和三年)、夏
東京、赤坂の料亭「佳山」の離れは、深い静寂に満ちていた。時折、庭の鹿威しが立てる乾いた音が、その静けさを一層際立たせる。部屋の中央に置かれた碁盤の上では、黒と白の石が、声なき、しかし熾烈な陣地争いを繰り広げていた。
白石を持つのは、海軍省の東郷一成。彼の指から打たれる一石一石は、淀みなく盤面全体を静かに支配していく。
対する黒石の主、陸軍の石原莞爾は、腕を組み、険しい表情で盤面を睨みつけていた。バタヴィアや満州での知的な敗北以来、彼は目の前の男を好敵手と認めると同時に、自らの「最終戦争論」にとって最も危険な障害と見なしていた。その隣では、陸軍省整備局の永田鉄山が、表情を消して座っている。
「……石原中佐」
東郷は、盤上から目を離さぬまま、静かに口火を切った。
「貴官らが構想する、満州における国家建設。その情熱と卓見には敬意を表します。しかし、そのために、なぜ“事変”という、血を流す手段を選ぶのですかな?」
石原は、鼻で笑った。
「東郷大佐。貴殿の『制度』とやらは、確かに見事だ。だが、それは平時の商人の理屈。国家の存亡を賭けた最終戦争の前には、あまりに脆弱だ。満州は、来るべき対米、対ソ戦における我が国の生命線。経済ごっこで支配できるほど、甘くはない」
「では、予算はどうされる?」
東郷の一言は、短く、鋭かった。
「宇垣軍縮で、貴軍の予算は削減された。その中で、満州の軍閥を力で屈服させ、国家を建設し、さらに毎年増強されるシベリヤからの赤軍の脅威に備える。……そのための戦費は、一体どこから捻出されるおつもりか。大蔵省か、国民からの増税か。どちらも、今の日本にその体力はありますまい」
石原は、ぐっと言葉に詰まった。それこそが彼の、そして陸軍のアキレス腱だった。
東郷は、そこで初めて盤上から顔を上げた。その目は憐れむでもなく、嘲るでもなく、ただ静かに二人の陸軍軍人を見据えていた。
「私は、提案をしに来ました」
東郷は、懐から一枚の紙を取り出し、盤面の横に置いた。海軍経理局が作成した、昨年度の「満州における制度債決済・収支報告書」の写しだった。
「……これが、貴殿らが“経済ごっこ”と断じたものの、結果です。この一年で、我々の『満州制度圏』が生み出した純益は、銀とドル換算で、陸軍省の年間予算の実に三割に達する」
永田の眉が、わずかに動いた。石原は、信じられないという顔でその数字を睨みつける。
「この利益は、我々海軍の主戦場である南の海では、必ずしも必要のないものです。我々が求めるのは石油とゴム。しかし、この潤沢な銀とドルは、貴軍が求めるものをいくらでも買うことができる」
東郷は、そこで決定的な一手を打った。それは碁盤の上ではなく、日本の未来図の上に、だった。
「この利益の半分を、陸軍にお譲りしましょう」
「……何だと?」
石原の声が上ずった。
「『北方戦略準備基金』として、です」
東郷は淡々と続けた。
「貴軍は、この資金を使い、ドイツから最新の工作機械を買い、アメリカからトラックを買い、来るべき対ソ戦に備えるための近代的な師団を、日本本土で養成なさい。我々海軍は、貴軍が北の脅威に対する強固な『盾』となってくださることを、心から歓迎する」
それは、悪魔的なまでに魅力的な提案だった。陸軍が喉から手が出るほど欲していた近代化のための「予算」。それを、最大のライバルである海軍が差し出すというのだ。
永田鉄山が、沈黙を破った。
「……東郷大佐。その代わり、海軍は我々陸軍に何を求める?」
「何も」
東郷は静かに言った。
「強いて言うならば、一つだけ。……満州で、事を起こさないでいただきたい。それだけです」
彼は、石原の目をまっすぐに見た。
「石原中佐。貴官が満州事変を起こし、満州国を建国すれば、我々の制度はその根幹から崩壊する。満州は『外国』ではなくなり、制度債は『国内取引』となる。国際的な信用も、大義名分も、全てを失う。……貴官の『最終戦争』の理想のために、我々が築き上げたこの金のなる木を切り倒すような真似は、お互いにとって何の益もありますまい」
「我々は『南』へ向かい富を生み出す。貴軍は『北』に備え国を守る。そして、南で得た富で北の守りを固める。……これ以上に、合理的な役割分担がありましょうか?」
石原は唇を噛み締め、膝の上の拳を固く握りしめた。
プライドか、実利か。理想か、現実か。
彼の脳裏で、最終戦争の壮大な幻影と、目の前にぶら下げられた潤沢な予算の現実が、激しく火花を散らした。
やがて彼は、絞り出すように言った。
「……よかろう。その話、乗った。……だが、覚えておけ、東郷。これは、取引だ。陸軍の魂まで、貴様の制度に売り渡したわけではない。これは、宇垣軍縮で放り出された仲間たちに、職を用意してくれた礼だ。もし、いつか貴様の『カネの戦争』が破綻した時、最後にこの国を救うのは、我々の一兵卒の銃剣であることを、忘れるな」
「承知しております」
東郷は静かに頭を下げた。
そして彼は、碁盤の上に白石を一つ、静かに置いた。
パチリ、という乾いた音が部屋に響く。それは、黒の巨大な陣地を完全に包囲し、殺す一手だった。
「……私の、勝ちですな」
その声には、何の感情もこもっていなかった。ただ、揺るぎない事実だけがそこにあった。
東郷一成はこの日、海軍の予算の一部を陸軍に譲渡した。そしてその代わりに、彼は自らの「見えざる帝国」の最も重要な生命線である満州の「平和」と、陸軍という最も制御不能な猛獣を繋ぎとめる、見えない「首輪」を手に入れたのである。
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