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TOGO 軍神の息子は、アナポリス帰りから軍縮した貧乏日本海軍の記録で稼ぐようです  作者: キユ
第一章

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石原とスティムソン

旅順・関東軍司令部

時:1928年(昭和三年)、夏


旅順の空気は火薬の匂いがした。それは実際の硝煙の匂いではない。煮え滾るような屈辱と、行き場のない憤怒が発する、見えざる匂いであった。


関東軍司令部の一室。作戦参謀の石原莞爾は、東京から届いた一枚の報告書を机に叩きつけた。


「……馬鹿なっ!!」


金切り声のような怒号に、同席していた高級参謀の板垣征四郎が驚いて顔を上げた。

「……どうした、石原。また海軍の連中が何かやらかしたか」


「やらかした、どころではない!」石原はわなわなと震えながら、報告書を板垣に突きつけた。「……読め! あの東郷という男が、北京で張作霖に何を囁いたか!」


板垣はその報告書に目を通し、そして絶句した。そこに書かれていたのは、信じがたい提案だった。


『……帝国海軍、東郷一成大佐、張作霖に対し、南満州鉄道(満鉄)平行線の建設を事実上容認。それどころか、満鉄との連絡線を敷設し、両鉄道網を連携させることを提案した模様…』


「……正気か、奴は…!」

板垣が呻くように言った。


満鉄平行線。それはこの関東軍にとって、張作霖の最も許しがたい裏切り行為だった。日露戦争の血で購った満鉄の権益を侵害し、日本の生命線を脅かす敵対行為。それを、海軍の一介の大佐が勝手に容認するだと?


「……奴の目的は何だ…?」

「分からん…」石原は歯ぎしりした。「……だが、この報告書の続きを読め。……奴が外務省の連中に送った意見具申書の写しだ」


板垣は息を呑みながら、続きを読んだ。


『……張作霖がなけなしの民族資本で輸送インフラを整えてくれるというのなら、我々はそれに“便乗”すればよいだけの話である。……現在、好景気ゆえ満鉄は大豆輸送で潤っているが、一度不景気となれば資本規模の小さい平行線側から経営は立ち行かなくなる。……彼らが排日運動を煽り、満鉄よりも安価な運賃で経営競争を仕掛けてきたとしても、先に干上がるのは彼らの方だ。……我々は、その時疲弊した平行線を、制度債を使って二束三文で買い叩けばよい。……戦わずして満州の鉄道網の全てを手中におさめること。これこそが国益に適う最上の策と信ずる…』


読み終えた板垣は、全身から力が抜けていくのを感じた。

これは、外交ではない。戦争だ。銃弾も軍靴も使わない。ただカネと時間を武器とする、冷徹で残酷な経済戦争。


「……さらに、これを見ろ」

石原が指さした、最後の一文。


『……そもそも賢明なる関東軍の諸君は、来るべき対ソ戦において百万を超えるソ連軍を相手にすると言う。……その補給路が満鉄一本だけで、本当に足りるのかね? ……張作霖が我々のために第二、第三の兵站線を作ってくれていると考えれば、むしろ感謝すべきではないか?』


「…………っ!!」

石原と板垣は、互いの顔を見合わせた。その目には、同じ感情が浮かんでいた。

屈辱。そして戦慄。


この、東郷という男。彼は自分たちの思考のすべてを読み切っている。対ソ戦への渇望も。張作霖への憎悪も。そして、満鉄一本では心許ないという兵站上の弱点も。


そのすべてを理解した上で、彼は「お返しだ」と言っているのだ。お前たちが仕掛けた爆殺計画のせいで、こちらの父や娘まで北京で「囮」として危険に晒してくれた、そのお返しだと。


「……板垣」石原は静かな、しかし震える声で言った。「……やはり、俺の思った通りだ。……この男は俺たちと同じ夢を見ている。……だが、そのやり方が、あまりにも違いすぎる」


「……どうする、石原。……このまま海軍の好きにさせるのか。……米内(光政)の奴との同郷の誼で、何とかならんか」

「……いや」

石原は首を横に振った。そして、机の引き出しから一枚の畳まれた便箋を取り出した。


『……近々、東京にて一献傾けたく。永田鉄山』


それは数日前に陸軍省の永田から極秘に届いた密会の誘いだった。そしてその便箋の末尾には、走り書きでこう付け加えられていた。


『……東郷大佐も同席される』


「東京に行ってくる、板垣」石原は言った。

「……奴の懐に飛び込む。そして、その見えざる剣の正体を、この目で確かめてやる」

彼の瞳には、もはや単なる怒りではない。自らの思想を超える巨大な何かの存在を前にした、天才の危険な好奇心が燃え盛っていた。




同じ頃、ワシントンD.C.、国務省。

国務長官ヘンリー・スティムソンの執務室は、中国から送られてきた美しい陶磁器で飾られていた。彼はその一つを愛おしげに撫でながら、北京駐在のマクマリー公使から届いた報告書に、眉をひそめながら目を通していた。


その報告書は、北京の埃と泥の匂いがした。

報告書は熱っぽく、そしてどこか、ヒステリックな筆致で訴えていた。


日本の海軍が主導する「制度債」という、奇妙な金融システムが、今や満州の張作霖と結びつき、中国大陸の経済秩序を根底から覆しかねない、と。そして自分が信じる蒋介石の国民党の権威が、その現実的な利益の前に脅かされている、と。


「……マクマリーめ」

スティムソンはペンを取ると、その報告書の表紙に、大きく、そして侮蔑的に書きなぐった。


『Overly Alarmist. File Away.(過度に悲観的。……保管庫へ)』


彼にとってマクマリーは、現場の混沌に目を奪われ、大局を見失った哀れな男だった。中国の未来は、蒋介石とその妻宋美齢の、キリスト教的で近代的な理想の中にある。日本の関東軍の暴力も、海軍の小賢しい金融のトリックも、その大きな歴史の流れの前では些細な障害に過ぎない。


スティムソンはその報告書を未決裁書類の一番下に押し込んだ。それは事実上、その報告書が二度と陽の目を見ないことを意味していた。



数ヶ月後、ワシントンD.C.のメトロポリタン・クラブの書斎では、暖炉の火が磨き上げられたマホガニーの壁に深い影を落としていた。部屋の空気は上質な葉巻の香りと、数世紀分の革張りの蔵書の匂いで満たされている。


ヘンリー・スティムソン国務長官は、この共和党のエスタブリッシュメントたちが集う聖域で、数人の側近議員を相手に自らの外交的勝利を語っていた。


「……見たまえ。蒋介石将軍はついに北伐を成し遂げた。中国は今、まさに我々が望んだ近代的で統一された共和国として生まれ変わろうとしている。…これこそが歴史の正しい進歩というものだ」


彼の言葉には揺るぎない自信があった。彼が北京駐在のマクマリー公使の悲観的な報告書を「現場を知らぬ官僚の杞憂」として握り潰し、蒋介石への全面的な支持を表明してから数ヶ月。歴史は、彼の思った通りに動いているように見えた。


まさにその時だった。車椅子が絨毯の上を滑る静かな音と共に、一人の男がその輪の中に加わったのは。


「やあ、ヘンリー。素晴らしい演説だったそうだね。君がついに中国に平和と秩序をもたらした、と」


フランクリン・デラノ・ルーズベルト。ニューヨーク州知事。そして、次期大統領の座を虎視眈々と狙う最大の政敵。その人懐っこい笑顔の裏に、剃刀のような鋭利さを隠した男。

「……フランクリンか。君も来ていたのかね」

スティムソンは内心の苛立ちを隠し、穏やかに応じた。

「もちろんだとも、ヘンリー」


FDRはにこやかに頷いた。

「君の歴史的な偉業を祝うためにね。……ただ、一つ気になっていたんだが」


彼はそこで、ふと声を潜めた。

「……君が見ている『中国』と、私が海軍の友人たちから聞かされている『中国』。……どうも、その二つの国の形が少し違うようなのだ」


「……何が言いたいのかね?」

「君の言う中国では、今、蒋介石将軍が輝かしい勝利を収めた。……だが、私が聞いている中国では、その蒋介石将軍が支配しているはずの経済が、いつの間にか日本の海軍が発行する奇妙な紙切れ(制度債)に、その血流を完全に握られてしまっている、らしい」


スティムソンの眉間に、深い皺が刻まれた。

「……ああ、マクマリーが報告してきた、あの取るに足らん金融の話か。…フランクリン、君はまだそんな些事にこだわっているのかね。我々が論じているのは国家の未来だ。一介の海軍軍人が考え出した子供銀行のような仕組みのことでは、ない」


「そうかな?」

FDRはそこで、初めてその笑顔を消した。


「……ヘンリー。私は海軍の出身でね。船というものがどう動くか、少しだけ知っている。……船はな、どれだけ立派な上部構造を持っていても、その喫水下の機関室が浸水すれば、沈むのだよ」


FDRは、スティムソンの目をまっすぐに見据えた。


「君が支援している蒋介石の新しい共和国は、確かに美しい上部構造を持っている。憲法も議会もある。……だが、その国家の最も重要な機関室――すなわち、『経済』と『金融』という名の機関室に、今、日本の制度債という名の海水が、静かに、そして確実に流れ込んでいるとしたら?」


「君は、その浸水に気づかないまま、船の甲板の上で、ただ勝利の祝杯を挙げているだけなのではないのかね?」


そのあまりにも痛烈な比喩に、スティムソンの顔から血の気が引いた。

「……貴様っ…!」


「私は、君を非難しているのではない」

FDRは静かに言った。「私はただ、事実を述べているだけだ。…そして、その事実に最も早く気づきながら、その貴重な報告を握り潰されてしまった一人の有能な部下マクマリーのことを、少しだけ不憫に思っているだけさ」


FDRは車椅子を反転させた。


「……まあ、いいさ、ヘンリー。君のその美しい船が沈まないことを、私も祈っているよ。……もっとも、その船の本当の持ち主は、もはや蒋介石ではないのかもしれんがね」


その言葉は、もはやスティムソンの耳には届いていなかったかもしれない。

彼の脳裏には、数ヶ月前、自らがゴミ箱に叩き込んだマクマリーの報告書の最後の一文が、まるで亡霊のように蘇っていた。


『……長官。我々が今見るべきは、中国の古い軍閥ではありません。我々が見るべきは、“定義”そのものを書き換えようとしている、一人の日本の天才です…』



いつもお読みいただきありがとうございます。


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