租界の三つの目
時:1928年(昭和三年)、夏
場所:上海・共同租界
上海の夏は、まるで熱い濡れ雑巾を顔に押し付けられるような、不快な季節だった。黄浦江から立ち上る湿気と、街路に満ちる無数の人間の汗が、租界の石造りの建物の間に、澱んだ霧となってまとわりついていた。
その霧の奥深く、三つの国の、三つの目が、同じ一つの「怪物」の、不可解な動きを凝視していた。
第一の目:アメリカ合衆国領事館
上海のアメリカ領事ネルソン・ジョンソンは、机に山と積まれた電文の束を前に、ウィスキーのグラスを苛立たしげに指で弾いていた。
「……意味が分からん」
彼は独り言のようにつぶやく。背後には、海軍駐在武官の若い情報将校が腕を組んで立っていた。
「ジョンソンさん。何がです?」
「全てだよ、大尉。全てがだ」
ジョンソンは立ち上がると、窓の外の猥雑な街並みを見下ろした。
「まず済南だ。我々は日本の陸軍、あの狂信的な関東軍が必ず暴発すると予測していた。そうなれば蒋介石の北伐は頓挫し、我々が支援する国民党は日本との全面戦争に突入する、と。それが我々の基本シナリオだったはずだ」
「ええ。しかし、現実は違いました」
「そうだ。来たのは陸軍ではなく海軍だった。そして彼らは戦わずに帰ってしまった。まるでピクニックにでも来たかのように、自分たちの国民を連れてな。おかげで蒋介石は屈辱は味わったが、致命傷は避けられた。一体なぜだ? 日本は本気で中国を獲る気がないのか?」
情報将校は静かに一枚のグラフを差し出した。それはこの数ヶ月で、上海の闇市場から日本の呉や横須賀へと流れ込んだ「銀」の推定流通量を示すものだった。その曲線は、済南事件を境に異常なまでの急上昇を見せていた。
「なんだ、これは」
「我々も最初は意味が分かりませんでした。どうやら、彼らのあの奇妙な『制度債』とかいう紙切れが関係しているようです。済南で居留民を救出し、任務を遂行したという『実績』になった。それが彼らの紙切れの『信用』を爆発的に高めた。結果、大陸中の商人がその紙切れを欲しがり、対価として銀が日本の海軍の金庫へと吸い上げられている…」
ジョンソンは言葉を失った。
「……つまり彼らは、済南という小さな戦場でわざと“負けて”みせることで、中国全土という巨大な市場で“勝った”というのか? 馬鹿な、そんな戦争のやり方があるものか……」
彼は本国へ送るべき電文の言葉を探していた。しかし、彼の頭の中にはただ一つの言葉しか浮かばなかった。
『……日本海軍ノ行動、理解不能。彼ラハ領土ニ非ズ、銀ヲ、人心ヲ集メテイル。コレハ我々ノ知ル帝国主義ニ非ズ。至急、新シキ分析枠組ヲ求ム…』
第二の目:英国総領事館
サー・シドニー・バートンは、紅茶の繊細な香りを楽しみながら、香港上海銀行のグレイ支店長からの極秘報告書を読んでいた。彼の表情は穏やかだったが、その瞳の奥には深く、そして老獪な警戒の色が浮かんでいた。
「……実に、面白い」
彼は呟いた。
「済南で陸軍の暴発を抑え、蒋介石に貸しを作る。その一方で、張作霖の暗殺を未然に防ぎ、奉天の利権も手放さない。……まるで腕利きの羊飼いが、二頭の喧嘩早い羊を鞭と飴で巧みに手懐けているようだ」
机上の書類の中に、ひときわ厚みのある封筒があった。差出人は、香港上海銀行のグレイ支店長。封を切ると、中には短い報告書と、数枚の領収書の写しが入っていた。
そこには、ある不可思議な取引の記録が記されていた。
「……上海華商聯合会を通じ、帝国海軍制度信用債券“NCPC”の銀建て兌換を非公式に仲介。三ヶ月間で、推定十五万両の銀貨が流通。信用裏付けの実効性、確認済。
兌換比率は安定、平均相場:一制度円=〇・八三銀ドル。
当行香港支店、以後の取り扱いについて本国の判断を仰ぐ」
バートンの眉がわずかに動いた。
「……やはり始めたか」
彼は椅子の背にもたれ、軽く指で報告書の角を叩いた。
この件は、すでに一年も前から、海軍の代理人や福建出身の華僑商人たちが“取扱いの打診”を続けていたものだった。だが、当時は陸軍の乱暴な振る舞いを見て、英本国は関与を避けていた。
それが済南事件のあと、潮目が変わったのだ。
陸軍とは違う――それが、上海商人の口から自然と洩れた言葉だった。
「彼ら(日本海軍)は、略奪者ではない。帳簿をつける者だ」と。
海軍の「制度債」は、戦場を持たずして信用を生み出す。
取引を記録し、保証する。
それは、帝国の商業銀行にとって何よりも魅力的な言語だった。
バートンは静かに紅茶を置き、立ち上がると窓の外を眺めた。
黄浦江の対岸には、香港上海銀行の上海支店が堂々と建っていた。
その白い石造りの建物の奥深くで、すでに“銀の蛇口”が開かれ始めていることを、彼は知っていた。
「ロスチャイルドが金を握ったように、日本海軍は銀を握り始めた。……歴史は、またしても海から書き換えられるらしい」
彼の視線の先には、一枚のメモがあった。香港のグレイ支店長が別のルートから入手したという情報。そこには、ただ一言、「東郷一成」と記されている。
「この男。我々が百年かけて築き上げた、このアジアにおける『力の均衡』という芸術品を、たった一人で台無しにするつもりらしい」
彼は香港にいる東洋艦隊の司令長官に宛てて、私信を書き始めた。
『親愛なるサー・レジナルド。上海の空気は変わりつつあります。日本の陸軍という分かりやすい“熊”の脅威の背後で、海軍という静かなる“蛇”がそのとぐろを巻き始めております。この蛇は毒の牙で我々を噛むのではありません。その美しい鱗(制度債)で、我々の富(銀)を静かに絞め殺しに来るでしょう。貴官の艦隊の大砲は、おそらくこの蛇には届きますまい。我々は、新しい蛇の捕まえ方を学ばねばならんようです…』
第三の目:ソビエト連邦領事館
地下室の空気は淀み、裸電球の弱々しい光が壁のカール・マルクスの肖像画を不気味に照らし出していた。
領事を兼務するコミンテルンの情報将校、イワン・ベールジンは、ウォッカの瓶を片手に部下からの報告を聞いていた。
「同志ベールジン、理解に苦しみます」若い工作員は興奮したように言った。「我々が支援した共産党を虐殺した蒋介石に、日本の帝国主義者たちはなぜとどめを刺さなかったのか。彼らは中国を分割統治するものと考えておりました」
「だが、違った、と?」ベールジンの声は低く響いた。
「はい。日本海軍は済南で蒋介石の軍隊の統制の取れなさを世界中に晒し上げ、彼に『信用できぬ指導者』という烙印を押しただけで帰ってしまいました。まるで飼い犬に手を噛まれた我々と同じように、です」
ベールジンはウォッカを一気に呷った。アルコールが、唯物史観で凝り固まった頭脳を激しく揺さぶった。
「面白い。実に、面白い弁証法だ」
彼は立ち上がると、壁のアジア地図の前に立った。
「つまりこうか。日本の帝国主義は今、二つに分裂している。陸軍という古い、ブルジョア的領土拡大帝国主義。そして、海軍という新しい、金融的超・帝国主義。そして後者は、我々プロレタリアートの敵であると同時に、ブルジョア国家の秩序そのものを内側から破壊する、最も革命的な力でもある、と…」
彼は笑い出した。肩を震わせ、腹を抱えて。
「素晴らしい! 同志よ、モスクワに電報を打て! 『日本の海軍は我々の敵である。しかし、彼らは同時に、我々が夢見た世界革命の、最も優秀な“砕氷船”でもある』、と!」
「砕氷船、でありますか?」
「そうだ! 彼らがその奇妙な紙切れで、ロンドンとニューヨークの分厚い氷を砕いてくれる。我々はその後ろからついていけばいい。そして、氷が全て溶けたその先に、どちらが本当の世界の支配者となるか、勝負をすればいい」
その日、上海の租界の霧の中で。
アメリカは「理解不能な経済的侵略」に頭を抱え、
イギリスは「新しい金融秩序への挑戦」に静かに備え、
そしてソ連は「世界革命の予期せぬ協力者」の登場に密かに歓喜した。
その全ての視線の中心にいる東郷一成は、まだそのことを知らない。
ただ、彼が放った「制度」という名の石が、アジアという古い池に、彼が想像したよりも遥かに大きく、そして複雑な波紋を広げ始めていたことだけは、確かであった。
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