張作霖 前編
時:1928年(昭和三年)、六月初旬
旅順、関東軍司令部の薄暗い一室で、関東軍参謀・河本大作大佐は満州の地図を睨みつけ、固く拳を握りしめていた。
「……もう待てん。張作霖はもはや蒋介石の敵ではない。あの男は、我々日本帝国の“敵”だ!」
彼の周囲には、陸軍内部の急進的な少壮将校たちが熱っぽい眼差しで集まっている。
「そうだ! 張作霖の奴、最近では海軍の連中とすらこそこそと会合を重ねているというではないか!」
「奴は、我々が満州に築こうとしている五族協和の王道楽土を、海軍の“カネ”で切り売りするつもりなのだ!」
彼らの怒りは限界に達していた。日露戦争で得た神聖な満州の権益を守り、腐敗した軍閥を一掃して理想の国家を建設する。その崇高な目的のためには、もはや手段を選んではいられない。
河本は地図上の一点――奉天郊外、京奉線と南満州鉄道が交差する陸橋を、指で強く叩いた。
「……天は我々に味方している。張作霖は近々、北京を脱出し、特別列車で奉天へ帰還する。その時こそ、天が我々に与えた唯一の機会だ」
その計画は、狂気と愛国心がない交ぜになった恐るべきものだった。陸軍大臣にも、参謀総長にも、そして首相にさえ知らせない。関東軍の独断による「天誅」。しかしその狂気の計画は、すでに全く別の経路から東京の中枢へと漏れ伝わっていた。
東京、霞が関、首相官邸。梅雨を間近に控えた空気は湿った熱を孕み、息苦しい。執務室で、田中義一は陸軍大将出身とは思えぬほど憔悴しきった顔で、山積する書類を睨んでいた。
蒋介石率いる北伐軍は、ついに北京の喉元にまで迫っていた。満州の覇王、張作霖は故郷の奉天へ「退却」という名の屈辱的な敗走を決断したばかりだ。
「……総理。関東軍の連中が、またきな臭い動きを見せております」
内閣書記官長が声を潜めて報告する。
「『張作霖を見限り、これを排除し、満州の独立を断行すべし』と。…参謀本部が中心になっている模様です」
「分かっておる!」
田中は苛立ちを隠さず怒鳴った。彼とて陸軍の人間だ。張作霖という老獪な軍閥を見限り、満州を日本の生命線として完全に掌握したいという、関東軍の若き将校たちの激情は痛いほど理解できる。一時は自らもそれに同意しかけた。
だが、できなかった。駐日英国大使からも、アメリカの国務長官からも再三にわたる「警告」が届いている。
「満州における日本の特殊権益は理解するが、武力による現状変更は断じて容認しない」と。ここで事を起せば、英米との決定的な対立は避けられない。それはこの国の破滅を意味する。首相として、その引き金を引くことはできなかった。張作霖の排除命令は出さなかった。
その決断が、関東軍の青年将校たちをどれほど激怒させたことか。
「……奴ら、俺を腰抜けだと罵っているだろうな」
書記官長は返す言葉もなかった。今の田中には、遥か遠い彼の地で制御不能なまでに膨れ上がった組織を抑えつける力はない。統帥権は天皇に直属する。首相の一言で止められるものではないのだ。彼は、自らが育てた「帝国陸軍」という名の猛獣の前に無力だった。
その時、海軍大臣の岡田啓介が極秘の面会を求めてきた。
「総理。これは、我が海軍が制度債の取引を通じ、大陸や日本の情報網から入手した情報です」
岡田が静かに差し出した一枚の電文。そこに記された簡潔な、しかしあまりにも衝撃的な内容に、田中は息を呑んだ。
『関東軍参謀・河本大作大佐、張作霖ノ乗車スル特別列車ヲ、奉天近郊ニテ爆破スル計画アリ。想定日時、六月四日。場所候補、南満州鉄道・京奉線交叉点』
「……馬鹿な!!」
田中はわなわなと震え始めた。噂では聞いていた。だが、これほど具体的で確度の高い情報。
しかも陸軍の諜報網ではなく、海軍が得たものだという。だが元陸軍大将の田中には分かっていた。恐らく大陸の情報網というものは、軍縮で海軍に拾われた元陸軍士官たちの隠喩だろう。
「……岡田君。これは、真実か」
「九分九厘、間違いありますまい。東郷一成大佐が、北京で直接、裏を取っております。…総理、もはや一刻の猶予もありません」
田中は椅子に深く身を沈めた。全身から力が抜けていく。失意。絶望。そして己の無力さへの深い怒り。
(……俺は、この国の首相でありながら、自らの軍隊の暴走を止めることすらできんのか…)
その絶望の淵で、岡田が静かな、しかし鋼のような意志を込めた声で言った。
「……総理。東郷に、やらせてみてはいかがでしょう」
「……東郷だと?」
「ええ。彼は明日、表向きは『東郷平八郎元帥講演会』の随員かつ『満州における石油埋蔵調査』として北京に入ります。裏では張作霖と直接会談する予定になっております。……彼ならば、あるいは」
田中は岡田の顔をじっと見つめた。その清廉な瞳の奥に、とてつもない覚悟が宿っているのを彼は見た。
「……好きに、せよ」
田中は絞り出すように言った。
「……ただし、これは政府の命令ではない。海軍の、独断だ。……万が一のことがあっても、わしは知らん」
それは国家の宰相としてあるまじき言葉だった。だが、今の彼にできる唯一の「密命」であった。
北京、張作霖官邸。絢爛豪華な調度品で満たされた宴席には、殺伐とした空気が漂っていた。張作霖は虎皮の敷かれた椅子に尊大に、しかし疲れた様子で座っている。
彼の前には、アメリカ公使マクマリーの「随行員」として、海軍の軍服に身を包んだ東郷一成が静かに座っていた。そして張作霖の隣には、息子の張学良が険しい表情で東郷を睨みつけている。
宴席に、奇妙な一品が運ばれてきた。油でこんがりと炒められた、蚕のさなぎだった。
張作霖が、にやりと笑う。それは、長年この大陸の荒波を生き抜いてきた老いた虎が、相手の胆力を試す時の目だった。
「東郷大佐。これは満州の名物でな。滋養強壮に一番効く。……まあ、うちの若いの(張学良)は、これが苦手なようだがな」
学良は顔をしかめてそっぽを向いた。各国の公使たちも、そのグロテスクな見た目に眉をひそめている。
明らかに試されている。この一皿は、単なる料理ではない。それは、この大陸の流儀を受け入れられるか否かを問う、一つの「儀式」だった。
張作霖は、やおら自らの箸を取ると、まず自分の口に一つ、ゆっくりと運んだ。そして、その野性的な風味を確かめるように咀嚼し、飲み下してから、静かに言った。
「……客をもてなすは、主人の役目。毒見も兼ねてな」
その言葉と作法に、東郷の背筋に微かな緊張が走った。これは、単なるもてなしではない。張作霖は、自らがまずリスクを取ることで、「俺は、お前たち客人を害するつもりはない」という無言のメッセージを送っているのだ。同時に、「さてお前は、俺が差し出すこの“誠意”を、受け取る覚悟があるか?」と、鋭く問いかけてもいた。
彼は、残りのさなぎを自分の箸で取り分けると、東郷の前の小皿に、そっと置いた。
東郷はその皿を一瞥すると、少しも表情を変えなかった。
「ほう。これは珍味ですな」
彼はこともなげに箸でさなぎを一つまみ、口に放り込む。そして、ゆっくりと咀嚼した。
「なるほど。香ばしく、滋味深い。……私が生まれました薩摩では、食い物がまずいのが当たり前でしてな。こういう命の味がするものは、むしろご馳走です」
そして、彼はこう続けた。
「我々日本では、客人を最高にもてなす際、生の魚――刺身というものを出します。それは、獲れたばかりの、最も新鮮で、最も“無垢”な状態のものを、客人に差し出すという信用の証。……しかし、そのためには、客人もまた、主人を信用し、その刃(包丁)に己の命を預ける覚悟が要る。主人の振るう刃が、毒ではなく、至上の味を切り出すものであると信じなければ、生の魚の本当の味は分かりませぬ」
東郷は、口にした蛹を飲み下すと、張作霖の目をまっすぐに見つめた。
「元帥。貴殿が今、私に示してくださったのは、この大陸の流儀。火を通し、毒がないことを自ら証明することで示す、絶対的な『安全』という名の信用。……どちらが優れているというわけではありますまい。ただ、流儀が違うだけのこと。そして私は、貴殿の流儀に、最大限の敬意を表します」
その堂々たる「悪食」と、その裏にある文化的な洞察に、張作霖は初めて感心したように目を見開いた。学良もまた、信じられないという顔で父と東郷の顔を見比べている。
この若い日本人は、ただ奇妙なものを食べただけではない。父が仕掛けた「儀式」の持つ意味を完全に理解し、その上で、自らの国の文化を引き合いに出し、見事な「返歌」を詠んでみせたのだ。
場の空気が、確かに変わった。張作霖の日本人に対する警戒心が、ほんの少しだけ解け、一人の人間としての興味へと変わっていた。
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