マクマリー
時:1928年(昭和三年)、六月
場所:北京(北平)、東交民巷
その日の北京の空気は、二つの全く異なる熱気に支配されていた。
一つは、城壁の外からじりじりと迫り来る戦争の熱。蒋介石率いる国民党の北伐軍が、この古都に最後の総攻撃を仕掛けようとしていた。街は、敗走の準備を始めた張作霖の軍閥兵と、新たな支配者の到来を待つ民衆の不安と期待が入り混じった不穏な熱に浮かされ、各国の公使館がひしめく東交民巷の水面下では、見えない外交戦の緊張が渦巻いていた。
そしてもう一つ。北京、陸軍大学。その講堂は、異様な熱気に包まれていた。壇上には、白髪の、しかしその背筋は少しも曲がっていない一人の老人が立っている。
東郷平八郎。
日露戦争の英雄。その一挙手一投足に、陸軍大学の学生だけでなく、関東軍から派遣された監視役の将校たちまでもが固唾を呑んで見守っていた。
「……よって、黄海の海戦において、我が軍は…」
老元帥の張りのある声が、講堂に響き渡る。
その前日。
講堂から数キロ離れた公使館区域の一角。アメリカ公使館の庭園で、二人の男が静かにコーヒーを飲んでいた。
一人は、東郷一成。父の講演会の「付き添い」という名目でこの北京の地に降り立った彼は今、父の講演会を紹介するという名目でアメリカ公使館に入っていた。
そして、もう一人は、この公使館の主、ジョン・ヴァン・アントワープ・マクマリー。合衆国駐華公使。
「……ミスター・トーゴー。……あなたのお父上の講演会は、大盛況だと聞いておりますよ」
マクマリーは、皮肉とも賞賛ともつかぬ口調で言った。
「光栄です、公使。……父も喜んでおりましょう」
東郷は静かに応じた。彼の目は、目の前のアメリカ人外交官を冷静に分析していた。
マクマリー。国務省きっての極東専門家。しかし、その彼が今最も頭を悩ませている問題は、中国大陸の動乱ではなかった。遥かワシントンにいる自らの上司、ヘンリー・スティムソン国務長官その人であった。
スティムソンは熱烈な「チャイナびいき」だった。彼は蒋介石の国民党を中国の新しい夜明けを告げる希望の星と信じて疑わず、彼らが掲げる「革命外交」――不平等条約の撤廃、租界の回収――も、正当な権利の主張だと公然と支持していた。
しかし、現場にいるマクマリーの目は違う。彼が見る国民党は、腐敗し、分裂し、自らの軍隊さえ統制できない未熟な政権に過ぎなかった。
彼らの「革命外交」はただの排外主義の暴発であり、この大陸の秩序を根底から破壊しかねない危険な火遊びだと、彼は本国に何度も報告していた。だが、その声は届かない。
それどころか、国民党の外交官たちはもはや北京のマクマリーを「素通り」し、直接ワシントンのスティムソンと交渉するようになっていた。公使としての彼の面子は丸潰れだった。
「……それで、ミスター・トーゴー」マクマリーは本題に入った。
「……外務省の友人から聞きましたよ。……あなたが張作霖元帥との会見を望んでおられる、と。……なぜです? 日本政府はもはや彼を見限ったのではなかったのですか?」
「政府は、そうかもしれません」東郷は静かに言った。
「しかし、我々海軍は違います。……公使。我々が信じるのは、イデオロギーではない。“取引相手の信用”、ただ、それだけです」
彼はそこで一度言葉を切った。
「今の蒋介石は信用できない。彼は自らの部下の暴走さえ止められない。……しかし、張作霖は違う。彼は確かに古く、そして強欲な軍閥やもしれません。ですが、彼は自らが支配する領地(満州)では、完璧な秩序を保っている。……彼の敷設する満鉄の平行線は、彼の領地では絶対的な支持を得ている。……我々にとって、どちらが信用できるパートナーか。……答えは明白です」
その言葉に、マクマリーは我が意を得たり、というように深く頷いた。
「……全く同感です、ミスター・トーゴー。……ワシントンの連中は、蒋介石の背後にいるアメリカ留学帰りのエリートたちの甘い言葉に酔っている。……しかし、この国の現実は、もっと泥臭く、そして暴力的だ」
「……だからこそ、です、公使」東郷は身を乗り出した。
「……私は張作霖に会わねばなりません。彼が北京を去る前に。……そして、彼に伝えねばならない。……この大陸にはまだ、彼を『信用できるパートナー』として見ている勢力がいるのだ、と」
マクマリーはしばらく沈思した。日本海軍と張作霖が手を結ぶ。それはアメリカの国益にとって必ずしも好ましいことではない。しかし。もしこのまま関東軍が暴発し、張作霖を排除すれば満州は大混乱に陥る。その混乱は必ずや、スティムソン長官が夢見る国民党の中国統一の夢を打ち砕き、そしてこの大陸全体をより大きな戦争の渦に巻き込むだろう。それだけは避けねばならない。
そして何よりも、目の前のこの日本人、東郷一成。彼は自分と同じ「現実」を見ている。ワシントンの理想論ではない。この北京の泥濘の中にある現実を。
マクマリーは自嘲気味に笑った。
「……面白いではないか。この北京で誰もが私を無視する中で、日本の海軍の秘密の使者が私を頼ろうとしている。……いいだろう。その勝負、乗ってやろうじゃないか」
「ありがとうございます。しかし、どうやって」
「実は明日、張作霖が北京を離れる最後の祝宴を開く。……私も招待されているが、どうせただの飾り物だ。……私の随行員として、君もその宴に潜り込むのだ。……君の、そのお目付け役の憲兵の目は、どうにかして掻い潜るんだな」
翌日。東郷平八郎の日本海海戦の講演会は、最高潮の盛り上がりを見せていた。彼の一言一句に聴衆――居並ぶ各国の陸海軍の将校たち、そして北京在住の日本人たちは固唾を呑み、そして熱狂した。ここはもはや単なる講演会ではなかった。それは、一つの神話がその語り部の口から再び生々しい現実として蘇る儀式の場であった。
その熱狂の渦の後方で、壁際に控えるように立っていた一人の海軍大佐が、そっとその場を抜け出した。東郷一成だ。
「……大佐殿、どちらへ?」
背後からかけられた声。振り返ると、そこには陸軍から一成の「案内役」として派遣された若い憲兵大尉が、貼り付いたような笑顔で立っていた。案内役というのは名目だ。その本当の役目が「監視」であることは言うまでもなかった。
「……いや、少し風に当たってくる」
「はっ。では、私もお供を」
断る術はなかった。いっそ手荒な手段に踏み切るべきか。二人が廊下へ出たその時だった。
「きゃっ!」
小さな悲鳴と共に、曲がり角から一人の少女が飛び出してきて、憲兵大尉の足元に派手にすっ転んだ。手にした麦茶の入った水筒が床に転がり、派手な音を立てる。
「……さ、幸!」
東郷が驚いたように声を上げた。
「……ご、ごめんなさい…!」
少女――幸は、涙目で立ち上がると、憲兵大尉のズボンの裾が濡れているのに気づき、顔を真っ青にさせた。
「た、大変! 軍服が汚れて…! ど、どうしましょう…!」
彼女は小さなハンカチで必死にその濡れた箇所を拭おうとする。その健気な、しかしどこか間の抜けた仕草に、憲兵大尉は苦笑するしかなかった。
「……い、いや、お嬢ちゃん、大丈夫だ。これはただのお茶だから…」
「いけません! お父様の大事なお客様なのに…!」
幸のその必死の姿に、東郷一成はやれやれ、という顔で肩をすくめてみせた。
「……大尉殿、申し訳ない。……この子は少しそそっかしいところがあってな。……すぐにシミ抜きを手配させますので、どうかこちらでお待ちを。……私はすぐ戻ります」
「は、はあ…」
憲兵大尉が戸惑っているその一瞬の隙。一成はまるで影のようにその場から姿を消していた。
残された幸は憲兵大尉を見上げ、心からの申し訳なさそうな顔で深く、深く頭を下げた。
(……行って、お父様。……あなたの本当の戦場へ。……ここは私が守りますから)
その決意を胸に、彼女は目の前の憲兵に再び天使のような無垢な笑顔を向けた。
「……あの、おじさま。……お詫びに、私のとっておきのキャラメルをあげます」
そして、東郷一成は控え室の裏口から闇に紛れ、待たせておいた一台の車に乗り込む。車の中にはアメリカ公使マクマリーが葉巻を燻らせて待っていた。
「見事な手際だったな、大佐。……君の娘は大した女優になるぞ」
「……感謝します、公使」
車はエンジン音を潜め、北京の夜の闇へと滑り出していった。その車が向かう先。それは、歴史が大きく変わる運命の祝宴の場所であった。
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