日露戦争ノ英雄
その夜更け。横須賀の自邸の書斎に戻った東郷一成は、一人地図の前で立ち尽くしていた。
(関東軍の暴走。……ありうる。いや、奴らならやりかねん…!)
もし、張作霖が殺されればどうなる? 満州は、大混乱に陥る。息子、張学良は、必ずや国民党と、手を結び、全面的な抗日に走るだろう。そうなれば、我々の「制度」も、全てが終わりだ。
(……止めねばならん。……だが、どうやって……)
公式に動けば、陸軍との全面対立は避けられない。非公式に動くには、あまりにも危険すぎる。張作霖は、今、日本の誰をも信用していない。
その時書斎の扉がそっと開かれ、息子の家に来ていた父、東郷平八郎が、静かに入ってきた。その手には一杯の、湯気の立つ、熱い茶があった。
「……まだ、起きておったか」
「父上」
平八郎は茶を机に置くと、息子が睨みつけている、満州の地図に目をやった。そして、静かに言った。
「……難しい、顔をしておるな。……お前が、まさか満州のことで思い悩むとはな」
その全てを見透かしたような言葉に、一成は返す言葉もなかった。
「……聞かせい。……この老いぼれでも、何か、知恵を貸せるやもしれん」
一成は、しばらくためらった。だが、父の、その揺るぎない瞳に促されるように、彼は、断片的に、しかし、正直に事の次第を語り始めた。関東軍の、不穏な動き。張作霖との接触の、困難さ。そして、陸軍の諜報網に気づかれずに、北京へ入ることの危険性を。
全てを聞き終えた平八郎は、黙って茶をすすった。そして一言、こう言った。
「……ならば、わしが行こう」
「……父上が、ですと?」一成は、我が耳を疑った。「何を、おっしゃるのですか。父上が今北京へ行かれたら、それこそ陸軍の格好の的です!」
「だから、良いのだ」
平八郎の口元に、若い頃を思い出した悪戯っ子のような、笑みが浮かんだ。
「……表向きは、こうだ。
『日露戦争ノ英雄、東郷平八郎元帥、北京ノ陸軍大学ニテ、講演会ヲ開催ス』……どうだ。これならば、陸軍も表立って、文句は言えまい。奴らの目は、全てこのわしに、釘付けになる。……その隙に、お前はお前の仕事をすればいい」
それはあまりにも大胆で、そしてあまりにも危険な「囮」作戦だった。
「いけません!」一成は思わず、声を荒らげた。「父上の、お命が危ない!」
「……一成」
平八郎の声が、静かに、しかし、鋭く響いた。彼の悪戯っぽい笑みは消えていた。その瞳には、深い自己内省の色が浮かんでいた。
「……なぜ、今満州がこの様になっておるか、分かるか。……なぜ、陸軍の若い連中や国民が、かくも頑なに満州に固執するか。……その全ての始まりは、このわしだ」
「……父上?」
「わしが、旅順を攻略するよう、陸軍に頼んだからだ。日本海で、バルチック艦隊を沈めたからだ。……あの勝利が、この満州の大地を、ただの外国では、なくしてしまった。『英霊の、眠る聖地』という名の“引っ込みのつかない呪い”を、かけてしまったのだ」
平八郎の声は静かだったが、その一言一言に、二十数年分の重みがこもっていた。
「……わしは、薩摩の生まれだ。そして生涯、西郷先生を尊敬してきた。……なぜ、あの偉大な先生が、西南の役で、滅びねばならなかったか。……それは、維新でのあまりにも大きな功績が、彼を縛り、新しい時代の中で、彼を“引っ込みのつかない立場”に、追い込んでしまったからだ。……功績は、時に人を滅ぼすのだ、一成」
彼は息子の肩に、そっと手を置いた。
「……わしはもう、死に損ないの爺だ。だが、わしがかけた呪いならば、この命が尽きる前に、わしが解くのが、筋だ。……お前がやろうとしていることは、分からん。だがそれが、この国を、新しい道へと進めるためのものならば。……この、古い、過去の亡霊が、その露払いをしてやるのが、最後の務めだろう」
「わしが、陸の鷲どもを引きつけてやる。……その間に、お前は、海の龍の懐に、飛び込んでこい」
その言葉に、一成はもはや何も言えなかった。父は、ただの感傷で言っているのではない。日露戦争の英雄という、自らの「過去の功績」がもたらした、国家の硬直。その歴史の因果を、自らの命を、賭して断ち切ろうとしているのだ。その、あまりにも深く、そして悲壮な覚悟の前に、彼はただ、深く、深く頭を下げるだけだった。
その時、書斎の扉がそっと開かれ、養女の幸が顔を覗かせた。
「……お父様。……お爺様。……まだ、お話ですか?」
彼女は、部屋のただならぬ空気に気づき、不安げに立ち尽くしていた。その手には、ブリキのおもちゃの汽車が握られていた。
「お父様。……この、汽車、ね。……まっすぐ、走らせているつもりなのに、時々、ガタンって、言って、倒れちゃうの。……どうしてかしら?」
その子供らしい、無邪気な問い。
しかしその瞬間、一成の脳裏で、何かが、閃光のように結びついた。
汽車。脱線。転覆。そして、爆発。
(……そうか。……奴らの狙いは、列車か…!)
彼は幸と、そして、父の顔を交互に見つめた。
一つの、酒席の、噂話。
一人の、老いた、英雄の覚悟。
そして、一人の少女の、無邪気な一言。
その全てが今、一本の線となって繋がった。
彼はすぐに電話の受話器を取り、外務省の次官に繋いだ。
「……次官。……私です。……急で、申し訳ないが、北京へ行きたい。……いや、公式な訪問ではない。……父の講演会の海軍からの付き添いの随員、という名目でな。……ああ、そうだ。そのついでに、満州の石油資源の調査もできれば、と。……北京の主であられる張作霖元帥に、ご挨拶をしたいのだが、取り次いでいただけるかな?」
それは歴史の修正作業であったと同時に、父から子へ、そしてその次の世代へと受け継がれる、魂の物語でもあった。
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