捨てられた駒
時:1928年(昭和三年)、春
東京・霞が関に佇む海軍省の一室は、まるで凪いだ海のように静まり返っていた。しかし、その静寂の水面下では、巨大な海流が複雑に、そして激しくぶつかり合っていた。
「……以上が、来年度以降の、我が海軍における艦艇整備計画の骨子であります」
軍務局長の声が、張り詰めた空気に響く。彼は壁に掲げられた広大な太平洋の海図を指し示した。
「……今、我々が力を注ぐべきは、条約で制限された主力艦ではありません。条約の“外”にある補助艦艇――駆逐艦、潜水艦、そして給油艦、工作艦といった、艦隊の“継戦能力”を支える足腰、そのものです」
その言葉は、集まった将官たちの間にさざ波を立てた。
「来るべき対米戦は、短期の艦隊決戦では終わらない。それは、この広大な太平洋を舞台にした消耗戦となります。その時、雌雄を決するのは大艦巨砲の数だけではなく、どれだけ長く前線に留まり、戦い続けられるか。……すなわち、“ドクトリンの修正”が求められているのです」
それは、これまでの海軍の常識を根底から覆す、革命的な思想だった。大艦巨砲主義という長年の信仰に加わる、新たな教義。そして、居並ぶ将官の中で、その思想の背後に東郷一成の影を見ない者はいなかった。
会議が終わり、一人執務室に戻った東郷は、別の、そしてより厄介な問題に頭を悩ませていた。
「……中国、か」
上海の沢本から送られてきた分厚い報告書の束を前に、彼は深く息をついた。「銀のループ」は順調に回り始めている。だが、その安定のためには、大陸に信頼できる強力な「現地パートナー」が不可欠だった。
しかし、その候補はことごとく問題を抱えている。
蒋介石。有馬で一度は手を結んだ。だが、彼は「革命外交による権益回収」を掲げ、済南で部下の暴走を抑えきれなかった。あの男は、まだ信用に値しない。
ならば、満州の張作霖か。
老練な軍閥は、確かに自らの支配圏を安定させている。しかし、そのやり方はあまりにも独善的で、強欲に過ぎた。
「……満鉄平行線問題…」
東郷は、外務省から極秘に取り寄せた資料の頁をめくった。日本が敷設した南満州鉄道のすぐ脇に、張作霖は日本の資本を一切使わず独自の鉄道を敷設し、満鉄の利益を公然と侵害し始めている。そのあまりに傍若無人な振る舞いには、かつては温厚なはずの吉田茂(当時奉天総領事)すら激怒し、「満鉄の軍用使用を禁止し、張作霖を下野させるべし」と本国に意見具申したほどだった。
(……だが、それも、見方を変えれば…)
東郷の思考が、深く、速く回転を始める。
(……満鉄の資本に頼らず、自前で鉄道を敷けるだけの経済力。そして経済合理性を無視できるだけの統率力が、彼にはあるということだ。そして、何より、日本の言いなりにはならん、という強烈な自負心も。……下手に飼いならされた犬よりも、よほど交渉相手としては面白いかもしれん…)
問題は、どうやってその最も警戒心が強く、そして今、中国で最も接触が難しいとされる老軍閥の懐に飛び込むか、だ。
その夜、東郷は懇意にしている料亭の一室で、数名の男たちと酒を酌み交わしていた。
彼らはただの男たちではない。背筋の伸びた座り方、酒を注ぐ指先の寸分の乱れのなさ。そのすべてが、彼らがかつて帝国陸軍の士官であったことを物語っていた。宇垣軍縮――「平時の近代化」という美名の下、四個師団が廃止され、数千の将校が軍服を脱いだ。彼らは、その「近代化」の波に飲み込まれた男たちだった。
「……いやあ、東郷大佐。……本当に、感謝しております」
酔いの回った一人の元陸軍少佐――名を黒田という――が、呂律の回らない口調で言った。その目は赤く充血している。
「……おかげさまで、我々もこうして再び飯が食える。……もっとも、食わしてもらっているのが、憎き海軍さん、てえのが気に食わねえがね」
その冗談に、乾いた笑いが起きた。しかしその裏には、どうしようもない屈辱が滲んでいた。
黒田はかつて、シベリアの凍てつく大地で部下を率い、赤軍パルチザンと血みどろの戦いを繰り広げた歴戦の勇士だった。しかし、平和の時代は彼のような男を必要としなかった。軍服を脱いだ彼を待っていたのは、冷たい世間の風だった。
軍人というだけで「威張っている」「時代遅れだ」と陰口を叩かれ、まともな職にもつけない。故郷に帰れば、「お国のためにご苦労様」と口では言われながら、その目の奥には「厄介者が帰ってきた」という侮蔑の色が浮かんでいた。軍服で街を歩くことすら憚られる時代だった。
そんな絶望の淵にいた彼らに手を差し伸べたのが、目の前の海軍の男だったのだ。
「海軍制度債業務監査官」
その奇妙な肩書きを与えられ、彼らは再び国家の一員としての誇りを取り戻した。東北の農村を回り、満州の港で帳簿をつける。それは、かつて夢見た将軍への道とは似ても似つかぬ地味な仕事だった。だが、そこには「任務」があった。そして、その働きを正当に評価してくれる「制度」があった。
「……我々は、近代化のために捨てられた駒でした」
黒田は酒を一気に呷ると、呟いた。
「……わずか数個の戦車や飛行機のために、我々何千という人間の経験と忠誠が切り捨てられた。……だが、東郷大佐。貴方だけは違った。貴方は、我々古い人間の価値を見抜いてくださった」
東郷は、ただ黙って男たちの視線を受け止めていた。
「……我々が陸軍で培った、規律と組織を動かす力。それが、この新しい『制度』という戦場で再び武器になると。……我々を、ただの穀潰しではないと、言ってくださった」
そうだ。だからこそ、彼らはこの男に従うのだ。海軍の軍門に下ったのではない。この、東郷一成というただ一人の男の許に馳せ参じたのだ。
その、男たちの剥き出しの忠誠心を静かに受け止めながら、東郷はただ黙って酒を受けていた。
「……ところで、大佐」
黒田はそこで声を潜めた。それは、彼が自らの情報網――未だに陸軍内部に残るかつての部下や同期たちとの繋がり――から得た、生々しい情報だった。
「……近頃、満州の連中がまたきな臭い噂を立てておりますぜ。……特に、関東軍の河本とかいう大佐。……奴さん、どうやら北京のじいさん(張作霖)を、本気で消す算段を立てている、とか…」
その一言に、東郷の背筋を冷たいものが走った。
「……詳しく、聞かせてもらおうか」
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