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TOGO 軍神の息子は、アナポリス帰りから軍縮した貧乏日本海軍の記録で稼ぐようです  作者: キユ
第一章

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黄金の鎖

1928年(昭和三年)、春。霞が関に佇む海軍軍令部の第一会議室は、真鍮の灰皿に押し付けられた煙草の匂いと、壁に掲げられた巨大な太平洋の海図が放つ無言の圧力で満ちていた。窓の外は春一番が吹き荒れている。


軍令部次長、野村吉三郎中将は、汗も拭かずに眉間に深い皺を刻んだまま、テーブルの中央に置かれた一隻の巨大な軍艦の模型を憎々しげに睨みつけていた。それは、アメリカ海軍が建造を決定したという三隻目のレキシントン級大型空母――「レンジャー」の想像図だった。


「……三万三千トン級、三隻。これで、アメリカは太平洋のどこへでも我々を凌駕する航空戦力を送り込むことができる。ワシントンで我々が呑まされた屈辱は、一体何だったのだ…」


野村の呟きに、同席していた連合艦隊参謀長の高橋三吉少将が重々しく応じた。

「問題は、それだけではありません。彼らの東海岸の造船所の生産能力は、我々の呉や横須賀の数倍に達する。一度本格的な建艦競争となれば、我々に勝ち目はない。量で押し潰されるだけです」

「分かっておる!」

野村は机を叩いた。会議室に、重苦しい沈黙が落ちる。


彼らは「艦隊派」と呼ばれる海の男たちだった。その信念はただ一つ。来るべき対米決戦において、七割に満たぬ劣勢の艦隊をいかにして勝利に導くか。猛訓練による練度の向上、漸減邀撃作戦、そして強力な個艦の性能。彼らが信じるすべてのものが今、アメリカの圧倒的な「量」の前に色褪せて見えていた。


その沈黙を破ったのは、意外な人物だった。末席に座っていた一人の士官――現在、制度債の運用実務を担う南雲忠一中佐、東郷の同期だった。

「……野村閣下。申し上げにくいことではありますが」

南雲はおずおずと、しかし芯の通った声で言った。

「……カネなら、あります」

「何だと?」

野村は、怪訝な顔でその若い士官を見返した。


「東郷の『制度』が生み出す資金力は、もはや我々の想像を遥かに超えております。上海の沢本からの報告によれば、大陸から流入する銀だけで毎年数百万ポンド。三菱や古河との共同事業から上がる利益は億単位。……もし、本気で軍縮条約を破棄し、アメリカと建艦競争をなさるおつもりなら、我々はもう一隻、いや二隻の八八艦隊の戦艦に匹敵する巨艦を、大蔵省に一銭も頼らず建造することが可能です」


その言葉に、部屋の空気が一変した。艦隊派の将官たちの目が、ギラリと獣のような光を放った。

「……本当か、それは」

「本当です。やろうと思えば、できます。……ですが」

南雲は、そこで一度言葉を切った。


「……それをやってしまって、本当に、よろしいのでしょうか?」

「……どういう意味だ?」

「我々がアメリカと同じ土俵で、同じ“量”の殴り合いを始めてしまえば、どうなるか。……アメリカは本気で我々を叩き潰しにかかるでしょう。彼らは、我々が自分たちと同じルールで自分たちを打ち負かす可能性のある、競争相手の登場を絶対に許しません」


若い南雲の言葉は、冷徹な事実を突きつけていた。

「……東郷がこれまでやってきたことは、すべてその逆です。彼はアメリカの“外”で、彼らとはまったく違うルールで戦ってきた。我々が通貨ではない『制度債』でインフラを整備し、民心を掴み、銀を吸収しても、彼らはそれを直接軍事力で叩くことができなかった。なぜなら、それは彼らの理解を超えた『奇妙な経済活動』にしか見えなかったからです」


「しかし」彼は続けた。

「我々がその資金であからさまに戦艦を建造し始めたら? それは彼らにも理解できる、明確な『軍事的脅威』となる。その時、彼らは躊躇なく、我々のこの制度債という生命線を、最も原始的で、最も強力な手段である武力で断ち切りに来るでしょう」

会議室は水を打ったように静まり返った。


高橋三吉は目を閉じた。彼の脳裏で、二つのまったく異なる「戦争」の姿がせめぎ合っていた。一つは、自分たちが生涯を賭けて準備してきた、艦隊と艦隊が砲火を交える華々しい「決戦」の海。もう一つは、東郷一成が今まさに繰り広げている、帳簿と法律と人心を武器とする、静かで、見えない「制度」の海。

どちらが、本当にこの国を守るための戦いなのか。


「南雲。つまり、貴様はこう言いたいのか」

野村が呻くように言った。

「我々は、アメリカを打ち負かすことができるだけの黄金の鎖を手にしていながら、その鎖を見せびらかした瞬間にすべてを失う、と」

「……はっ」


それはあまりにも皮肉で、残酷なジレンマだった。無限の資金力を持ちながら、正面からその力を使うことができない。アメリカに勝てる、と思ってしまった瞬間に、本当の敗北が始まる。

野村吉三郎はゆっくりと顔を上げた。その目には、もはや焦燥の色はなかった。そこには、自らがまったく新しい、そして遥かに困難な戦場に立たされていることを自覚した指揮官の静かな覚悟だけがあった。


「……分かった。……追加建造の軍備計画は、再考だ」

彼は静かに、しかしきっぱりと言った。

「……我々の当面の敵は、アメリカ太平洋艦隊ではない。……我々の本当の敵は、『アメリカに勝てると思ってしまう、我々自身の驕り』だ」


彼は立ち上がると、壁の海図の前に立った。

「東郷は今、敵の心臓部で一人戦っている。彼の邪魔になるような馬鹿な真似はするな。……我々が今すべきことはただ一つ。この手に入れた黄金の鎖を、敵に見せびらかすことなく、静かに、より太く、より強靭なものへと鍛え上げることだ」


彼は海図の上の、太平洋諸島を指でなぞった。

「……決戦の日は、いずれ来る。だが、それは我々が望む時ではない。……敵が、我々のこの見えない帝国の本当の恐ろしさに気づき、絶望し、そして自らその引き金を引く時だ」


その言葉は、もはや古い「艦隊派」の思想ではなかった。その後、野村は予備役入り後外交官となり、高橋は砲術一筋の連合艦隊参謀から、年明けに連合艦隊に初めて空母を組み込むことになり、「赤城」「加賀」「土佐」を中心として編成された第一航空戦隊の初代司令官に任命されることになる。


それは、東郷一成という異端の天才がもたらした新しい「戦争」のやり方を、受け入れざるを得なかった海の男たちの、苦渋に満ちた、しかし確かな新しい「ドクトリン」の産声であった。

いつもお読みいただきありがとうございます。


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