ニューヨークの報告
時:1928年(昭和三年)、年明け
場所:ニューヨーク州知事公邸、オールバニ
ハドソン川から吹き付ける風は、すでに冬の鉄の匂いを運んでいた。書斎の暖炉の火だけが、壁一面に並べられた海図と、マホガニーの机に堆く積まれた報告書の山を、琥珀色に照らし出している。
私、フランクリン・デラノ・ルーズベルトは、この部屋で二つの戦争を生きていた。一つは、州知事として、タマニー・ホール(ニューヨーク市の民主党マシーン)の腐敗と戦う、表の政治闘争。そしてもう一つは、この書斎の奥深く、夜ごと繰り広げられる、静かなる、見えざる戦争だ。
机の上には、一冊の分厚いファイルが置かれている。表紙には「ユニット・R」――私の私的な情報分析チーム――の、鷲を象ったエンボス加工が施されている。議題はただ一つ。
「日本帝国海軍の、真の購買力について、1927年推定」
「……信じられん」
私は唸るように呟き、報告書の最終頁を指先で強く押さえた。隣で報告を続けていた、社会福祉・公衆衛生政策の策定や運営に詳しい幕下に迎えたばかりの腹心、ハリー・ホプキンスの顔も暖炉の火に照らされてなお、青白く見えた。
「フランク、残念ながら、これは最も控えめに見積もった数字だ。我々の試算によれば、1927年末時点で、日本海軍が公式な国家予算の外で動かしている経済圏の規模は、彼らの公式予算そのものを、すでに上回っている」
私は、目を閉じた。脳裏に、ワシントンでの記憶が蘇る。軍縮会議の華やかなレセプション。あの時、一人の物静かな日本の士官――東郷一成が、私に語った言葉。
「平和は、“力の均衡”という不安定な構造物の上にしか成り立たない」
あの時、私は彼を、軍事バランスという古いゲーム盤の上で思考する、一人の優秀な軍人だと見なしていた。なんという、浅はかさだったことか。
彼は、ゲーム盤の上で駒を動かしていたのではない。我々が気づかぬうちに、ゲーム盤そのものを全く別の材質のものに、すり替えてしまっていたのだ。
報告書が示す数字は、悪夢そのものだった。
第一層、公式予算、二億五千万円。これは、我々が把握している数字だ。日本の国家予算の一五%。巨大だが、管理可能な脅威。我々はこの数字を睨み、妙高型巡洋艦の進水に眉をひそめ、彼らの力を測ったつもりでいた。だが、それは氷山の一角ですらなかった。海面に浮かぶ、カモフラージュのための、ただの氷片だったのだ。
第二層、制度債経済圏、推定三億円以上。
「ハリー、この数字の内訳をもう一度」
「まず、国内のインフラ掌握。余剰の軍需物資を肥料や電力に変え、国民の生活を直接支配している。この事業規模だけで、年間五千万円。さらに、例の金融恐慌で破綻した鈴木商店の資産と物流網を吸収、これが七千万円相当の現物資産となっている」
つまり、彼らは自前で国富を生産し、民間企業を吸収合併する巨大なコングロマリットと化した、ということか。
「そして、金融。国内の農村や、三菱のような日本海軍と提携財閥への融資だけで、年間一億五千万円以上のカネを動かしている。我々のウォール街が、眉をひそめるほどの規模だ。だが、本当の悪夢は、ここからだ、フランク」
ハリーは、報告書の別の頁を指さした。
「国際金融。彼らが『銀のループ』と呼ぶ、東南アジアの華僑ネットワークを介した銀の吸収システム。ここから得られる利益は、控えめに見積もっても年間一億円。合計すれば、年三億円を軽く超える経済圏が、日本の大蔵省の監査も、国際社会の監視も受けず、非課税で、完全に一人の男の意のままに動いている」
私は、机の上の地球儀を、ゆっくりと回した。指先が、日本という小さな島国に触れる。
「つまり、こういうことか。我々が『日本海軍』と呼んでいるものは、もはや海軍ではない。それは、中規模国家の国家予算に匹敵する資金を、議会の承認も、納税者の監視もなしに、たった一つの命令系統で動かすことができる、『第二政府』なのだ」
そして、その第二政府は、我々が持つ国家とは、全く異質の優位性を持っている。意思決定の速度、完璧な情報網、軍事規律による絶対的な強制力、そして何よりも――
「人心掌握力だ」
私は、ほとんど呻くように言った。
「我々がダムを造り、公共事業で雇用を生み出そうと計画を苦心している間に、東郷は、もっと直接的に、国民の胃袋に『肥料』を、その食卓に『光』を届け、彼らの感謝を、忠誠心を、根こそぎ奪い去ってしまった。民主主義の手続きを全て飛び越えて、な」
「ええ」ハリーが、静かに、しかし鋭く応じた。「我々のニューディールがやろうとしていることを、彼は独裁的な速度で、しかも財源の心配なしに実現している。……これは、民主主義そのものへの挑戦です」
「そして、フランク。これが、最後の、そして最悪の報告だ。第三層、戦略的準備資産――純銀だ」
「どれくらいだ?」
「これはイギリスから入ってきた情報なのだが、上海と台北の『清算港』から、横須賀の地下金庫へ直送される銀の量は年間、数百万ポンドスターリングに達する。彼らは、これを国際統計の外で蓄え続けている。我々アメリカ合衆国から石油を、あるいはドイツから最新の工作機械を、国際市場で我々と競り合って買い付けられるだけの、完璧な『弾丸』だ」
私は、椅子に深く身を沈めた。暖炉の火がぱちり、と音を立てる。その音が、遠い太平洋のどこかで、日本の新しい軍艦がリベットを打ち込む音のように聞こえた。
東郷一成。あの男は、ワシントンで、我々が軍艦の数を縛るという古いゲームに興じている間に、全く新しい戦争を始めていたのだ。それは、国家の「信用」そのものを兵器とする、究極の総力戦だ。
我々は、鋼鉄の量を制限した。だが彼は、その鋼鉄を動かす「血液」の量を、無限に増殖させる方法を発明してしまった。
「やってくれたな……トーゴー……」
私は、そうつぶやくとゆっくりと顔を上げた。
「海軍長官に非公式に伝えろ。太平洋艦隊の演習計画を前倒しにできないか、とだ。そして、財務省の旧友にもだ。ロンドンとも連携し、銀の国際価格に何らかの『介入』ができないか、至急検討させろ」
「フランク、それは…」
「ああ。危険な賭けだ。だが、もう選択肢はない。我々は、幽霊と戦っているのだ。地図には載っていない国家。帳簿には載らない通貨。そして、統計には現れない軍事力。その全てを操る、あの制度と」
ハリーが、絞り出すように言った。
「フランク……いっそ、あの東郷を暗殺できないのか」
私は、彼の言葉を遮るように、静かに首を横に振った。
「ハリー、それはもう意味がない。大聖堂を建てた建築家を殺しても、大聖堂は崩れはしないのだよ。恐るべきは、東郷という個人ではない。彼が生み出した『制度』という思想そのものなのだ。その思想は、もはや彼一人の手を離れ、独り歩きを始めている」
私は、窓の外に広がるニューヨーク州の凍てついた闇を見つめた。この闇の向こう、太平洋の彼方で、一つの帝国が、我々の知らぬ間に、我々の理解を超えた怪物へと、静かに、そして急速にその変態を遂げている。
その怪物の名を「任務国家」という。
我々の戦いはこれからだ。そしてそれは、おそらく我々が経験したことのない、全く新しい種類の戦争になるだろう。
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