済南の泥濘と青島の港
時:1928年(昭和三年)、初夏
場所:中国・山東省、済南
済南の空気は、乾いた土埃と、むせかえるような人間の汗の匂いで満ちていた。城壁の外では、国民党の北伐軍と、それを迎え撃つ張宗昌の軍閥兵が、散発的な銃声を交わしている。そして、その不穏な空気の中心で、日本の青島守備隊から派遣された海軍陸戦隊の一団は、僑民保護という名目の下、この内陸の古都で孤立した「点」としての存在を強いられていた。
上等水兵の飯島は、土嚢の陰で、ヘルメットの縁を押し下げながら、遠くの銃声に耳を澄ませた。喉が、カラカラに乾いている。水筒の水は、とっくに生ぬるい泥水と化していた。
「……おい、飯島。また、アレが配られたぞ」
隣で同じように蹲っていた同期の居村が、苦々しげに一枚の紙片を差し出した。それは、もはや見慣れた、しかし、この場所では全くありがたみのない、「帝国海軍制度信用証券」――制度債だった。
「…今月の特別勤務手当、か。ちくしょう、こんな紙切れ一枚で、一体何が買えるってんだ」
飯島は、毒づきながらそれを受け取った。紙の手触りは上質で、菊の紋章の透かしも入っている。だが、済南の市場でこの紙を懐から出せば、露店の物売りは、怪訝な顔で首を横に振るだけだ。彼らが欲しがるのは、袁世凱の横顔が刻まれた、ずしりと重い銀貨か、あるいは、くたびれた国民党の紙幣だけだった。
「青島の港にいる連中は、これで女も買えるし、うまい羊肉も食えるってのによ」居村は、土壁に爪を立てながら、不満を吐き出した。「俺たちは、同じ釜の飯を食った海軍のはずだろうが。どうして、こうも違うんだ」
その言葉に誰もが同意するように、重い沈黙が落ちた。
分隊を指揮する小隊長――海軍兵学校を出たばかりの若い中尉は、そんな部下たちの空気を察しながらも、どうすることもできなかった。
『制度債は、前線における直接的な購買力ではなく、後方兵站との連携を強化し、部隊の総合的な戦闘能力を持続させるためのものである』
経理局が発行した、分厚い教範には、そう記されていた。だが目の前で喉の渇きを訴える部下に、「この紙切れは、君たちの戦闘能力を持続させるのだ」と、一体どう説明すればいいのか。
「……中尉殿」飯島が、掠れた声で言った。「水が、もうありません。近くの井戸は、どれも枯れているか軍閥の兵隊に押さえられています」
「……分かっている」
中尉は、唇を噛み締めた。その時、彼の脳裏に、教範の一節が蘇った。
『…部隊の制度点に応じて、後方倉庫からの優先的補給を受ける権利を有する…』
彼は、懐から無線機のキーを取り出すと、震える指で、青島にいる上官――沢本頼雄大佐宛に、短い電文を打ち始めた。
『我、済南ニテ孤立。水、食料、枯渇寸前ナリ。……部隊制度点、三五五点ヲ以テ、緊急補給ヲ要請ス』
その「三五五点」という数字は、彼らがこの済南で、暴徒から日本人居留民を守り、不眠不休で警戒任務にあたった、その汗と不眠の「記録」そのものであった。
同時刻、青島・海軍基地
沢本頼雄大佐は、執務室の窓から、青く穏やかな膠州湾を見下ろしていた。彼の机の上には済南からの短い電文が置かれている。
「……三五五点、か。若いのによくやったものだ」
彼は独り言のようにつぶやくと受話器を取り、基地の航空隊司令、大西瀧治郎中佐に繋いだ。
「沢本だ。……済南の件だ。一時間後に、川西の一五式飛行艇を三機、飛ばせるか。水と、圧縮食料、それから、医薬品を満載でだ」
受話器の向こうで、大西の喧嘩早いことで有名な声が、訝しげに唸った。
「大佐、正気ですか。済南上空は、まだ軍閥の対空砲が残っているやもしれん。それに、一五式は飛行艇だ。あんな低速で鈍重な機体を、敵性空域に送り込むなど自殺行為に等しい」
「危険は承知の上だ」
「危険、ですと? 大佐、それは“危険”ではない。“無謀”というのだ! この、ただでさえ貴重な航空機と、優秀な搭乗員を失うリスクをどうお考えか!」
大西の食ってかかるような口調に、沢本は少しも動じなかった。彼は静かに、しかし、鋼のような硬さを持つ声で応じた。
「……大西中佐。では、逆に問おう。ここで補給を送らず、済南の陸戦隊を見殺しにした場合の“リスク”を、君はどう考える?」
「……それは…」
「見殺しにされた兵士たちの“不信”は、失われた輸送機よりも高くつくぞ。彼らが、命を賭して稼いだ『三五五点』という信用を、我々後方が反故にしたとなれば、東郷が作り上げた、この制度そのものが、根底から腐り落ちる。……そうなれば我々は、輸送機どころか艦隊そのものを動かす“血”を失うことになるのだ。……それでも、君は飛ばんかね?……そして、大西中佐。この極めて困難な人道支援任務を、君の部隊が成功させたと記録されれば、君の航空隊にどれほどの“制度点”が付与されるか。……次期主力機の優先配備や補給にも、便宜を図れる」
受話器の向こうで、長い沈黙があった。やがて大西の観念したような、それでいてどこか楽しげな声が響いた。
「……分かりましたよ、大佐。理屈じゃ、あなたには勝てん。……飛ばしましょう。ただし護衛として、戦闘機を二個中隊、さらに掃討隊として爆撃機を一個中隊付けさせてもらいます。こいつの燃料代は、ツケにしておきますぞ」
「それでいい、頼む」
沢本は、受話器を置いた。そして机の上に置かれた、済南派遣部隊の「制度点記録簿」を指でとん、と叩いた。
「これは、施しではない。正当な“取引”だ」
その言葉は誰に言うでもなく、静かな執務室に重く響いた。
数日後、青島
済南での任務を終え、青島に帰還した飯島と居村は、基地の門前町にある、海軍御用達の酒場にいた。彼らの手には、済南で受け取った制度債と、今回の任務で加算された、新しい得点が記された手帳が握られている。
「……信じられねえ。あの時、本当に空から水が降ってきたんだからな」
「ああ。中尉殿が、俺たちの“点数”で飛行機を呼んだんだとさ」
飯島は、手の中の制度債を見つめた。済南ではただの紙切れだったそれが、この港町では、魔法の札に変わる。この一枚で、ビールが飲める。腹一杯の飯が食える。そして、故郷の家族に仕送りをすることもできる。
酒場の女将が、陽気な声をかけてきた。
「あら、陸戦隊のお帰りかい。ご苦労さんだったね。お代はいつもの“お札”でいいよ。海軍さんの札なら、銀行の円や国民党の紙幣よりよっぽど信用できるからねえ」
その言葉に、飯島の胸に、熱いものがこみ上げてきた。彼は済南での喉の渇きと、今この手にある青島ビールの冷たさを思った。その二つの間にある、目に見えない「距離」。その距離を繋いでいたのが、この紙切れだったのだと、彼は、ようやく理解した。
彼らが笑い合っている、その背後の壁には、古びた新聞が、数枚、貼られていた。その中の一枚、隅の方に追いやられた、小さな囲み記事の見出しが、酒場の薄暗い電灯の光に、ぼんやりと浮かび上がっていた。
『米国、海軍の新制度に、強い懸念を表明』
その小さな文字に、兵士たちは、まだ気づいていなかった。
翌日、横須賀鎮守府
あわただしい居室のランプの光が、机の上に広げられた一通の報告書を照らしていた。それは青島の沢本から送られてきた、済南での一連の顛末を記した詳細なレポートだった。
東郷一成は、その報告書を静かに読んでいた。済南での兵士たちの不満。若い中尉の決断。そして、沢本と航空隊司令との、あの緊迫したやり取り。その全てが、彼の脳裏に映像のように浮かび上がった。
彼はゆっくりと報告書を閉じると、椅子に深く身を沈めた。そして、窓の外の闇を見つめながら、ほとんど聞こえないような声で静かに呟いた。制度の自立を確信した声だった。
「そうだ。それでいいのだ」
いつもお読みいただきありがとうございます。
もし少しでも「面白い」「続きが気になる」と思っていただけましたら、ブックマークや感想、ページ下の【★★★★★】で評価をいただけますと、執筆の大きな励みになります。




