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TOGO 軍神の息子は、アナポリス帰りから軍縮した貧乏日本海軍の記録で稼ぐようです  作者: キユ
第一章

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海軍、出兵

時:1928年(昭和三年)、春まだ浅き頃


場所:東京・永田町、首相官邸


官邸の廊下は、磨き上げられているにも関わらず、どこか埃っぽく、そして冷え切っていた。陸軍大将出身の総理大臣、田中義一は、執務室の窓から、曇天の空の下に広がる帝都の街並みを見下ろしながら、重い溜息をついた。


不人気内閣――新聞は、容赦なくそう書き立てる。金融恐慌の傷跡は深く、野党である民政党の浜口雄幸や、前外務大臣の幣原喜重郎は、「対中不干渉」と「金解禁による経済再建」という、耳障りの良い正論を武器に、連日のように政府を攻撃していた。


「……だから、幣原の言うことは理想論に過ぎんのだ!」


田中は、苛立ちを隠せない声で、陸軍大臣の白川義則に吐き捨てた。


「対中貿易黒字だと? それは、彼の言う『協調外交』の成果ではない。我が国の商社の、血の滲むような努力と、そして、いざという時には軍が背後にいるという、暗黙の圧力があってこそだ。それを忘れ、ただ『不干渉』を唱えれば、蒋介石の国民党は、必ずや増長する!漢口でも、南京でも、我が国の居留民が、国民党兵に陵辱され、惨殺されているのだぞ! 財産を奪われ、先祖の墓まで暴かれ、骨壺を叩き割られている! 」


その言葉通り、中国大陸の情勢は、日に日に緊迫の度を増していた。蒋介石率いる国民党は、「革命外交」を掲げ、北伐の進軍と共に、各地で日本の持つ権益や租界の回収を、半ば暴力的に進めていた。打倒帝国主義のスローガンは、扇動された民衆によって、日本人商店の打ち壊しや、排日運動へと、容易に転化していた。


「陸相、済南の状況は?」


「はっ。現地の張宗昌は、もはや風前の灯火。国民党軍が済南に到達するのは、時間の問題かと。そうなれば、二千名を超える我が国民の生命と財産は、極めて危険な状況に置かれます。……即刻、一個師団の派遣を、ご決断いただきたい」


白川の言葉は、熱を帯びていた。しかし、田中は、即座には頷けなかった。彼の脳裏には、もう一つの、そして、より手強い「敵」の顔が、ちらついていたからだ。


「参謀本部は、何と言っておる」


その問いに、白川は、苦々しげに顔を歪めた。


「……例によって、及び腰です。『シベリアの二の舞は、ごめんだ』と。尼港にこう事件の悪夢が、いまだに、あの連中の骨の髄まで染み付いております」


参謀本部――陸軍の作戦を司る、最高頭脳集団。彼らはシベリア出兵の際、政治家たちの、曖昧で、場当たり的な命令に振り回され、戦略的な目標もないまま、多くの将兵の血を凍てつく大地に流した、あの苦い経験を決して忘れてはいなかった。


彼らにとって、今回の山東出兵もまた「政略出兵」の、臭いがした。国民保護という大義名分。しかし、その実態は不人気な田中内閣が、国民の支持を取り付けるための政治的なパフォーマンスではないのか。明確な軍事目標も、撤退の条件も示されぬまま、再び政治の都合で、兵士の命を危険に晒すことへの、根深いアレルギーが参謀本部にはあった。


「……では、国民の引き揚げは、進んでいるのか」


「それもまた、困難を極めております」白川は、机に置かれた一通の電報を指で叩いた。「済南の日本人会からの、公式な回答です。『我々は、物見遊山でこの地に来たのではない。生活の全てを、ここに賭けている。今引き揚げても、不況の日本に、我々が帰る場所などない。土地も、財産も、全てを捨てて無一文で帰れというのか』と」


田中は目を閉じた。八方塞がりだった。出兵しようとすれば、参謀本部が抵抗する。引き揚げさせようとすれば、現地の国民が抵抗する。何もしなければ、野党と世論が、「軟弱外交」と突き上げてくる。そして、その間に済南の同胞たちは、刻一刻と危険に晒されていく。


その絶望的な膠着状態を、静かに見つめていた男がいた。海軍大臣、岡田啓介。清廉潔白な人格と、海軍一の記憶力で知られる常識人である。その能面のような感情を読み取らせない表情の下に、他の誰とも違う静かな自信が満ちているのを、田中は感じ取っていた。


「総理。済南の件、海軍にお任せいただけませぬか」


岡田の、その一言に、田中も、白川も、我が耳を疑った。


「……海軍が? 岡田閣下、済南は内陸だ。貴官らの自慢の軍艦では、どうすることもできんはずだが」


白川の、皮肉めいた言葉に、岡田は、静かに首を横に振った。


「船は行きませぬ。人を送ります」


「……人、だと?」


「目的は居留民の保護。ただ、それだけであります」


岡田は、淡々と続けた。


「陸軍のように、大部隊を送り、国民党軍と事を構えるのではない。あくまで、限定的な防衛任務。そしてそのための資金は、大蔵省には一銭も頼みません」


その言葉に、部屋の空気が再び変わった。


岡田は、静かに続けた。

「済南における、国民保護という『任務』。それは国家の威信を守る、極めて価値の高い任務であります。その任務遂行能力を信用として、我々海軍は、独自の兵站と人員を動かすことができる」


彼は懐から、一枚の報告書を取り出した。それは、横須賀と呉の海軍機関学校に設立された、「制度債業務監査官・養成所」の、最新の卒業者名簿だった。そこには、宇垣軍縮で、涙をのんで軍服を脱いだ、元陸軍の、優秀な下士官たちの名前もびっしりと並んでいた。


「彼らは、陸軍の戦い方を知り尽くしております。そして、今は、我々海軍の、カネの動かし方も、完璧に習熟しつつある。彼らが、先遣隊として、済南へ向かう陸路の補給線上に、無数の『制度債加盟店』という名の兵站拠点を、すでに築き始めております」


「……なんだと?……つまり」田中は、ゴクリと、喉を鳴らした。

「政府の金を使わず、海軍が自前の金で出兵すると、そう言うのか」


「左様。そして、国民の引き揚げについても、腹案がございます」


岡田は、もう一枚の書類を、机に置いた。


「済南の国民の方々には、失われた資産の補填として、制度債による『生活再建任務債』を提供いたします。彼らは、仮に手ぶらで帰国しても、この制度債を使い、横須賀や、呉をはじめとした、我々の制度圏の港町で、新しい生活を始めることができる。住居も、仕事も、我々が斡旋する。……これならば、彼らも納得いたしましょう」


田中と白川は、絶句した。


それはもはや、単なる軍事作戦ではなかった。出兵の財源、兵站の確保、そして事後の難民救済まで。その全てを、自己完結した一つのパッケージとして提示されたのだ。史実より遥かに巨大な資金力と、そして、軍縮で余剰となった豊富な人材を抱える、この世界の海軍だからこそ、可能な離れ業。


「……なぜ、そこまでして、火中の栗を拾う」


白川が、絞り出すように言った。


「陸軍の失態を、笑うためか」


「まさか」岡田は、静かに言った。

「これは、我々の『制度』の試金石だからです。そして何より、内務・司法の両大臣からも、ご内意をいただいております」


その言葉に田中は、はっとした。内務大臣の鈴木、司法大臣の原。その両名の背後には、あの国本社の平沼騏一郎の影がある。平沼は、この制度債の最初の、そして最強の後見人であった。これはもはや、海軍単独の動きではない。日本のもう一つの「政府」が、動き出したに等しいのだ。


「……よろしい」


田中は、深く、頷いた。


「済南の僑民保護は、海軍に一任する。……ただし、陸戦隊の行動は、あくまで居留民保護に限定する。これは、総理命令である」


「御意」


岡田は静かに頭を下げ、執務室を後にした。


その背中を見送りながら、白川は、奥歯を噛み締めていた。


「……怪物め。奴らはカネの力で、戦争のやり方そのものを、変えようとしている…」


その呟きは田中の耳にも届いていた。しかし、彼にはもはや海軍が突出しないよう、同数の陸軍の青島出兵により海軍の後方を固めさせるのが精いっぱいであった。


こうして歴史の歯車は、史実とはわずかに、しかし決定的に違う方向へと軋みながら回り始めた。


陸軍が政治の板挟みと、過去のトラウマに足を取られている間に。


海軍はその潤沢な資金力と、揺るぎない兵站計画を武器に、静かに、そして、迅速に大陸へとその一歩を踏み出したのである。

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金本位性はなしになったし中国からの攻撃、今後幣原喜重郎はどうなるのやら
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