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TOGO 軍神の息子は、アナポリス帰りから軍縮した貧乏日本海軍の記録で稼ぐようです  作者: キユ
第一章

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悪貨は良貨を駆逐せず

時:1927年(昭和二年)、夏


場所:上海・アメリカ租界


夜の上海は、欲望の坩堝だった。外灘バンドの壮麗なガス灯の光が届かぬ、入り組んだ路地裏。そこでは、昼間の秩序とは全く別のより本源的な法則が、人間の運命を支配していた。


その一角にある、薄暗い印刷工房。インクの酸っぱい匂いと、安物の酒の匂いが混じり合う中、数人の男たちが、息を殺して一枚の紙片を食い入るように見つめていた。


紙片には菊の紋章と、碇のマークが精巧に印刷されている。「帝国海軍制度信用証券」


「……どうだ、張さん。これなら、本物と見分けがつかんだろう」


男の一人、国民党系の金融ブローカーである李が、得意げに言った。彼の背後には、アメリカの情報機関から派遣された、民間人を装う男が表情を消して立っている。


「ふむ…」


張と呼ばれた、かつては軍閥の財政を担っていた老人は、指先で紙の質感を確かめ、光に透かして、菊の紋の透かしを睨んだ。


「……見事なもんだ。だが、李さんよ。形は真似できても、魂までは真似できまい。この『制度債』とかいう日本の紙切れは、本来、任務の記録とやらが、海軍の帳簿と繋がって、初めて意味をなすものだろう? 我々が、この偽札を市場に流したところで、すぐにバレるのがオチではないのか?」


李は、卑しい笑みを浮かべた。


「張さん、あんたは頭が固い。帳簿? 記録? そんなものは、役人の理屈だ。俺たち商売人や、この街の民草が、この紙切れに何を求めるか、知っているか?」


彼は、人差し指を立てた。


「“安心”だよ。日本の軍艦の影に怯える、この上海で、日本の軍艦の印がついたこの紙切れこそが、一番の“安心”の印なのさ。どうせ、本物の海軍の札だって、本当に帳簿と繋がっているかなんて、誰も確かめようがない。……なら、俺たちがもっと景気良く、この“安心”を市場にばら撒いてやったって、罰は当たるめえ」


アメリカ人の男がそこで初めて、片言の中国語で口を挟んだ。


「……そうだ。市場を、混乱させる。日本の、新しいシステムを、その根底から腐らせるのだ」


こうして、その夜から、上海、天津、そしてハルビンの闇市場に、精巧に偽造された制度債が洪水のように流れ込み始めた。


数週間後、上海・海軍基地


沢本頼雄の執務室に、血相を変えた経理主任が駆け込んできた。


「た、大佐! 大変です! 上海や北支の闇市場で、出所不明の制度債が、大量に流通しております! しかも、その多くが、我々の発行記録にない偽造券です!」


「……何だと?」


沢本は、机の上に広げられた、数枚の偽造債を、眉間に皺を寄せながら、検分した。その出来栄えは、プロの目から見ても、驚くほど精巧だった。


「……奴ら、制度をただの軍票と勘違いしおったか。面白い」


「面白い、では済みません、大佐! このままでは、制度そのものの信用が、暴落します! 市場は大パニックに…」


しかし、数日経っても部下が予測した「パニック」は起きなかった。それどころか、奇妙な現象が次々と報告され始めた。


闇市場で、いつの間にか「本物の制度債」と「偽物の制度債」を交換するための、非公式な「為替レート」が生まれていたのだ。


「本物一枚なら、偽物一枚半」

「いや、今日の相場は一枚と、銀貨二枚だ」


さらに奇妙なことに、日本人居留民や、海軍兵士の一部までもが、その利便性から偽造債を、闇レートで受け入れ始めていた。本来、「任務の記録」という、絶対的な価値を持つはずだった制度債が、敵対者の“誤用”によって、皮肉にも、日々価値が変動する、ただの「通貨」へと堕落し始めていたのだ。


「……大佐。もはや、統制不可能です。市場は、我々の手を離れてしまいました」


経理主任の悲痛な報告を聞きながら、沢本は、ただ、静かに目を閉じていた。


その時、執務室の扉が開き、一人の男が入ってきた。済南から、全ての報告を受け上海までやってきた東郷一成、その人であった。


「や、沢本。面白いことになっているそうじゃないか」


東郷の声は、いつもと変わらず、穏やかだった。


「東郷! 笑い事ではないぞ! 貴様が作り上げた美しい制度が、チンピラどもの手で、汚されているんだぞ!」


「そうかな?」


東郷は一枚の偽造債を指先で弾くと、窓の外の猥雑な港の景色を見やった。


「私は、そうは思わん。……沢本、君は、グレシャムの法則を知っているか? 『悪貨は、良貨を駆逐する』

だが、今の上海で起きていることはその逆だ」


「……逆、だと?」


「そうだ。人々は、価値の当てにならない軍閥の紙幣や、いつ紙切れになるか分からぬ国民党の札よりも、たとえ偽物であっても、日本の軍事力を背景にした、この“菊の紋の紙切れ”の方を、信用し始めている。……結果として、我々の“良貨(本物の制度債)”が、市場から“悪貨”を駆逐しつつあるのだよ」


彼は、沢本に向き直った。その瞳には、小悪魔のような、しかし楽しげな光が宿っていた。


「……敵は、我々の制度を汚染しようとして、逆に、その信用を、アジアの隅々にまで、宣伝してくれた。そして、市場に、非公式ながら、円や銀と交換できる『為替レート』まで、作ってくれた。……ならば、我々がすべきことは、一つしかない」


「……まさか、東郷」


「そうだ」


東郷は、静かに、しかしはっきり言った。


「便乗するのだよ。この、混沌に」


東郷は、にこやかに頷いた。

「公式には、制度債は通貨ではない。しかし、非公式に市場がそれを求めている。ならば、その需要に応えるのが、我々の“任務”だ」


---


数ヶ月後、ニューヨーク州知事公邸


フランクリン・デラノ・ルーズベルトは、彼の私的な情報分析チーム「ユニット・R」が提出した、最新の報告書を机に叩きつけた。


「……馬鹿野郎!!」


彼の、怒りに満ちた声が、書斎に響き渡った。


報告書には、信じがたい事実が記されていた。


上海で、アメリカの情報機関が支援した、偽造制度債の流通工作は、完全に失敗した。いや、失敗どころか、それは日本海軍に、アジアにおける独自の「為替市場」をプレゼントする最悪の結果に終わったのだ、と。


「……奴らは、我々が掘った落とし穴を、自分たちの『金庫』に作り替えやがったのか…!」


ハリー・ホプキンスが、青ざめた顔で言った。


「……フランク。問題は、それだけじゃない。東郷は、この一件で、制度債を日本国外の特定の港湾でのみ、限定的にドルやポンドと兌換できる、全く新しい『国際決済ツール』へと、進化させてしまった。……もはや、これは、アジアだけの問題ではない。世界の基軸通貨である、ドルとポンドの、強力な競争相手が、今、この瞬間に誕生してしまったんだ」


もはや、言葉にならなかった。


東郷一成。アメリカを知るあの男は、この結末すら、読んでいたのかもしれない。敵が、最も愚かな、そして、最も効果的な「援護射撃」をしてくれることを。


「……ハリー」


FDRは、顔を上げた。


「この『偽札作戦』を立案し、承認した、全ての者のリストを、作成して民主党本部に送付しろ。国務省、陸軍、そして、あの忌々しい諜報部の連中、一人残らずだ。…彼らのキャリアは、今日、この瞬間終わった」

いつもお読みいただきありがとうございます。


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― 新着の感想 ―
前にブロックチェーンの話が出てきたときには、今一意味が分かってなかったのですが、ここで腑に落ちました。 昭和初期のビットコインだったのか!
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