国家、変質ス
時:1927年(昭和二年)、5月
場所:大蔵大臣官邸・高橋是清の私室
夜は更けていた。卓上のランプだけが、堆く積まれた報告書の山と、老いた財政家の深い皺を刻んだ横顔を静かに照らしている。空電による為替報告、ロンドンの銀相場、そして、東北など地方の農村から送られてきた、奇妙なほどに活気のある経済指標。田中義一内閣の大蔵大臣に就任した高橋是清は、その数字の森の中で一人孤独な思索に沈んでいた。
3月に始まった金融恐慌を沈静化させたばかりの彼の傍には、使い込まれた算盤が置かれている。指先で弾けば、国家の財政を瞬時に計算し尽くすその道具も、今夜ばかりは沈黙を守っていた。なぜなら、彼が格闘している問題は、もはや算盤で弾き出せる次元のものではなかったからだ。
(…おかしい。何かが、根本的におかしい…)
報告書が示す現実は、矛盾に満ちていた。現在の田中首相を攻撃する野党の濱口雄幸や井上準之助、幣原喜重郎らは、来たるべき「金解禁」――すなわち、日本円を再び国際的な金本位制に復帰させるという、悲願であり、同時に地獄への一本道でもある政策――の断行に向けて、緊縮財政の鞭を、国民の背中に容赦なく打ち下ろそうとしている。デフレの嵐が吹き荒れ、都市では失業者が溢れ、地方の経済は冷え込み、凍死寸前となるはずだった。
だが、報告書の片隅に記された海軍の息のかかった港町や農村の数字だけが、まるで別の国の出来事のように、穏やかな成長を示している。米の作付面積は増え、肥料の購入量は伸び、子供たちの就学率さえ、わずかに上向いている。
(大量の紙幣を増発したとはいえ、不況であることには変わりない。円は、市場から消えつつある。だというのに、この局地的な好景気は、一体何に支えられているのだ…?)
最初は、海軍の「闇予算」だと、そう高を括っていた。軍が、統帥権を盾に、どこかからか資金を捻出し、身内にばらまいているのだろう、と。だが、数字を追えば追うほど、その単純な構図では説明がつかないことに気づく。なぜなら、市場に、インフレの兆候が見られないのだ。制度債が単純な闇予算であるならば、必ず物価に跳ね返る。しかし、制度債が流通する地域では、むしろ物価は安定さえしていた。
是清は重い溜息をつき、冷めた茶をすすった。そして、机の引き出しの奥から、一枚の報告書を取り出した。それは、梅という名の少女が書いたとされる、子供の作文や手帳の写しだった。東郷一成が、どのような意図でこの資料を自分に届けさせたのかは分からぬ。だが、そのたどたどしい文字の中にこそ、この怪物の本質が隠されているような気がふとしたのである。
『お米と兵隊さん』
『制度の国と、税金の国』
子供の純粋な言葉が、老財政家の脳裏で算盤の珠よりも速く、そして正確に、真実を弾き出す。
(…そうか。二つの国…。あの小娘の言う通りだ…)
是清は、目を見開いた。
(東郷の小僧が作ったのは、円と並行して存在する、もう一つの通貨圏などではない。あれは、円とは全く別の次元で動く、通貨を必要としない経済圏そのものなのだ……!)
農夫の汗が、肥料になる。兵士の訓練が、電気になる。任務が、信用になる。信用が、現物になる。そこには円も、ドルも、そして「金」も介在しない。国家の活動そのものが、価値の源泉となる自己完結した循環システム。
その事実に思い至った瞬間、是清の背筋を冷たいものが走った。
(…まさか。奴の本当の狙いはこれか…?)
彼は、算盤をかなぐり捨てるように、立ち上がった。部屋の中を、獣のようにゆっくりと歩き始める。
(金解禁……。日本経済の上層部が、この国の経済を、再び世界のルールに繋ぎ留めるために、血を流して断行しようとしている、この政策。その最大の目的は、円の国際的な“信用”を取り戻すことにある。そのために、国民に不景気とデフレの地獄を見せてでも、円の価値を、金という絶対的な価値に裏打ちさせねばならんと考えているのだ…)
(だが、東郷は…? 奴は、その“信用”の源泉を、金塊ではなく、国家の総力そのものに置き換えてしまった。国民の任務の総和という、無限に湧き出る泉に…!)
その意味するところを理解し、是清はわなわなと震え始めた。それは、憂慮や警戒といった生易しい感情ではなかった。自らが信じてきた近代経済学の、その根底を覆されたことへの、巨大な畏怖だった。
「……やるではないか…」
絞り出した声は、誰に聞かせるでもなく、部屋の闇に吸い込まれた。
「この国が、百年間必死で追い求めてきた、欧米列強と同じ土俵に上がるための、ただ一つの道……金本位制という、あの忌々しくも輝かしい『金の軛』を……あの小僧はその軛を、内側から、全く別の理屈で破壊してしまったというのか!」
彼は窓辺に立ち、月明かりに照らされた庭を見下ろした。
そうだ。これが、東郷の狙いではないのか。
「任務国家」は、国内経済を、制度債という独自の血流で完全に自己循環させることができる。つまり、金本位制の国際ルールに、国内経済を人質に取られることがなくなるのだ。
緊縮財政で国内を疲弊させずとも、国民の生活は制度債が支える。そして、政府が保有する貴重な金と外貨は、純粋に、海外からの戦略物資(石油や工作機械など)の購入のために温存し、使うことができる。
国内向けの「任務の経済」と、国外向けの「金の経済」。
この二重構造を確立すれば、日本は、金解禁によってデフレ地獄を味わうことなく、国際社会における購買力だけを維持するという、世界のどの国も成し得なかった、究極の錬金術を手にすることになる。
(……儂が、この国の財政を守るために、軍の予算を一銭、一厘と削り続けてきた、あの苦闘は何だったのだ……)
是清の胸に、絶望とも、あるいは、歪んだ歓喜ともつかぬ複雑な感情が込み上げてきた。
(東郷は、財政の“規律”を破壊した。だが、その代わりにこの国を“金の軛”から解き放つ、悪魔の鍵を手に入れてしまった…)
彼は机に戻ると、震える手で筆を取った。そして、白紙の紙にただ一言こう書き記した。
「国家、変質ス」
その文字は、まるで自らが守り続けてきた国家への、弔辞のようにも見えた。
そして同時に、この国が世界の誰も知らない、恐ろしくも強靭な怪物へと変貌を遂げることへの予言のようにも見えたのである。
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