清濁の合流点
時:1927年(昭和二年)、冬の気配が漂う上海
場所:黄浦江を見下ろす、上海海軍特別陸戦隊司令部・補給部事務所
海軍煙草「ゴールデンバット」の紫煙が、部屋の薄暗い電灯の光の中で、複雑な渦を描いては消えていく。書類のインクと、黄浦江から流れ込む湿った潮の匂いが混じり合う執務室。
当初予定されていた巡洋艦の艦長ではなく、上海における帝国海軍の兵站、すなわちカネとモノの流れを全て握る男となった、補給部長にして東郷の同期・沢本頼雄大佐は、分厚い報告書の頁を、無言でめくっていた。
彼の向かいには、経理主任である森中少佐が、背筋を伸ばし緊張した面持ちで座っている。
「大佐。こちらが、先月度における制度債の回収状況であります。……奇妙な数字が、いよいよ顕著になってまいりました」
森中は、新しい報告書の束を、恭しく机に置いた。
沢本は、書類から目を離さないまま、低い声で応じた。
「……奇妙、とは?はっきり言え」
「はっ。当補給部が正規の取引先、すなわち日本の大商社や御用商人から回収した制度債が、全体の約七割。これは、想定の範囲内であります。しかし、残りの三割が、全くの“出所不明”なのです。租界内の名も知らぬ両替商や、これまで一切取引のなかった小規模な貿易商社から、まるで湧いて出るように、突如持ち込まれております」
沢本の頁をめくる手がぴたりと止まった。彼はようやく顔を上げると、その鋭い目で若い部下を射抜いた。
「出所不明、か。それで?」
「問題は、その内容であります。この不明分、そのほとんどが額面通り、あるいは僅かな手数料を上乗せしただけで決済されており、その対価として持ち込まれる現物の純度が極めて高い銀の比率が、異常なまでに高いのであります」
沢本は、報告書から一枚の集計表を抜き出し、無骨な指でその数字をゆっくりとなぞった。やがてその口元に、虎が獲物を見つけた時のようにかすかな、しかし、獰猛な笑みが浮かんだ。
「……つまり、こういうことか、森中。我々が知らぬ間に、どこかの誰かが、我々の代わりに、大陸中から極上の銀をかき集め、ご丁寧に『制度債』という名の、我々専用の“容器”に入れて、この金庫まで届けてくれている、と」
「…はっ」森中は、息を呑んだ。
「恐らくは、福建や広東の華僑ブローカーが、我々の制度債を闇手形として彼らのネットワークに流通させ、香港やバタヴィア、サイゴンで現地の富を銀として吸い上げているものと推察されます。そして、その銀で再び制度債を買い戻し、莫大な差益を抜きながら、ここ上海に持ち込んでいる…これは、厳しく取り締まるべきでは…」
沢本は、椅子に深くもたれかかり、天井に向かって、溜めていた煙をゆっくりと吐き出した。
「…面白い。実に、面白い。奴らは、税関の分厚い網も、銀行の厳重な帳簿もすり抜ける、『銀の道』を、我々のために勝手に作り上げてくれたというわけだ」
彼は、紫煙の向こう側で、目を細めた。
「森中。これを“取り締まる”のは、ド三流の役人の仕事だ。我々軍人がすべきは、“誘導”だ」
「誘導、でありますか?」
「そうだ。この裏ルートの取引量を、我々は静かに監視する。正確でなくてもよい。信用の流れがつかめていれば、な。そして、市場の銀が不足していると見れば、我々の手持ちの制度債を、そっと闇市場に放出する。銀が我々の元へ奔流となって還流してくれば、それをそのまま横須賀などの鎮守府経理局へ送り、帝国の“公式な”外貨準備として積み上げる。“知らなければ”、この世に存在しないのと同じことだ」
それは黙認どころか、闇のルートを積極的に利用し、制度の内部に戦略的に組み込むという、恐ろしくも大胆な発想の転換であった。
森中は、全身に鳥肌が立つのを感じていた。
「で、 では、この上海海軍補給部の任務は、単なる兵站の維持に加えて、大陸の銀を吸引し続ける、巨大な“金融ポンプ”の役割を担うと…」
「左様。華僑どもには大陸から我が国が吸った銀を返させてやるがよい。そして我々は、国家百年の計たる、銀を取引の流れから得る。誰も損はせぬ、完璧な循環だ。そして何より──この清濁併せ呑む循環が長く続けば続くほど、制度債は単なる紙切れではない、『海軍銀券』としての絶対的な信用を、アジアの隅々にまで確立することになるのだ」
沢本は立ち上がると、窓の外に広がる、猥雑で、活気に満ちた上海の街並みを見やった。彼の目には、その先に広がる満州の荒野と、そこに眠るという黒い黄金――石油の幻影が、はっきりと見えていた。
「この銀があれば……」彼は、独り言のようにつぶやいた。
「あの奉天の張作霖も、南満州鉄道も、我々の意のままに動かせるかもしれん。満州の油田開発も、もはや夢ではあるまい。アメリカのスタンダード石油を、この銀で丸ごと雇えば、済む話だ。少なくとも、上海でも噂に上がっている満州や北支の陸軍のような危ない橋を渡る必要はない」
こうして上海の補給部オフィスで下された、一人の実務家にして東郷の同期の男の静かなる決断により、闇の血流は、公式な制度の静脈へと完全に接続された。
銀は上海から日本へ。日本の工業製品や制度債は、東南アジアへ。そしてアジアの富を吸い上げた銀は、再び上海へ還流する。
その巨大なループは、海軍の、そして日本の、最強の戦略的資金源として確立され、制度債は「通貨ではないのに、通貨以上の力を持つ究極の証券」としての地位を不動のものとしていく。
横須賀の書斎で描かれた東郷一成の美しい設計図は、上海の現場のリアリズムによって、よりしたたかで、より強力な、生きた怪物へとその進化を遂げたのである。
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