蘇州河のささやき
1927年、昭和二年の夏。むせかえるような熱気が上海の夜を覆い尽くす中、共同租界の外れ、蘇州河に注ぐ薄汚れたクリーク沿いの裏通りは、闇の息吹に満ちていた。
外灘の華やかなガス灯の輝きは、ここまで届かず、代わりに香辛料の刺激的な甘さと阿片窟から漏れ出る媚薬のような匂い、石炭の煤煙が絡みつく湿った土の臭いが、ねっとりとした空気を淀ませていた。
路地の石畳は昼間の雨でぬめり、足音一つで水音が響き渡る。遠くで船の汽笛が低く唸り、まるでこの街の貪欲な脈動を象徴するかのようだった。
倉庫の剥げ落ちた壁に寄りかかるように、一組の男女が立っていた。一人は南洋華僑の大物、林文蘭。昼間は香港上海銀行で英国人銀行家たちと渡り合い、洗練されたスーツ姿で微笑みを浮かべた女だが、今はネクタイを緩め、額に汗を浮かべて素の福建語を吐き出す。
もう一人は梁と呼ばれる瘦せた男。ずる賢そうな目が闇の中で鋭く光り、痩せこけた体躯はまるで路地鼠のように敏捷だ。彼はこの上海の裏社会で、あらゆる「モノ」と「情報」を右から左へ流すことで生計を立てる、腕利きの仲買人。指先は常に油ぎった札束を数えるように動き、息遣いは獲物を狙う蛇のそれだった。
林文蘭が、昼間の淑女然とした態度は微塵もなく、素早く囁いた。
「梁、これよ。今夜日本の海軍陸戦隊の少佐殿から、直接受け取ってきた」
彼女は懐から一枚の紙を取り出し、月明かりと遠くの店の提灯の淡い光が鈍く反射するそれを差し出した。それは昼間と同じ「制度信用証券」――菊の紋章が透かしのように浮かび、裏面に刻まれた『海軍任務番号 聯合艦隊 丙第七号』の文字が、闇の中で不気味に息づいていた。
梁はそれを指先で弾き、乾いた音を確かめ、光にかざして透かしを睨み、鼻を寄せて紙の独特な匂いを嗅いだ。まるで生き物を鑑定する獣医のように、目を細め、舌なめずりをした。
「……銀の匂いはしねえな。だが、この菊の紋の透かしと、裏面の刻印……旦那、どこからこんな上等な官物を手に入れたんだ?」
林文蘭の唇が、満足げに歪んだ。汗が首筋を伝い、シャツの襟を湿らせる。「官物じゃないのよ。梁、よく聞け。これは『任務の証』だ。この紙切れ一枚あれば、俺の積荷は、海軍の航路を使って、銀を動かさずに厦門の実家まで届く。税関も、海賊も、素通りだ。まるで幽霊船のように、影を潜めて進む」
梁の顔に、卑しい笑みが広がった。金歯が月光をきらりと跳ね返し、目は貪欲に輝く。「へっ……なるほどな。旦那の言いたいことが分かってきたぜ。つまり、これを俺が銀に替えてやりさえすれば、俺の懐にも甘い汁が滴るって寸法だろう? この街の闇は、そんな匂いに敏感だからな」
「話が早くて助かるわ」林文蘭は声を潜め、周囲の闇を窺った。クリークの水音が、二人の秘密を飲み込むように響く。
「いい、この証券、上海での『裏の市価』は額面の二割引きで出す。お前はこれを、満州や香港にいるお前の仲間たちに売ればいい。向こうの商会は、実際に海軍の輸送便で荷を受け取るんだ。連中は額面通りの価値でこれを買うだろう。まるで闇の泉から湧き出る金脈さね」
梁は指を折りながら、素早く計算を巡らせた。瘦せた指が震えるほど興奮が込み上げ、息が荒くなる。
「……ほう、その差額がまるまる俺の儲けか。こいつはいい稼ぎになりそうだ。だが、問題はどうやってこれを本物の銀に換えるかだ。俺には、日本海軍の旦那方に直接会うようなコネはねえぞ。租界の壁は厚いんだ」
林文蘭の目が、狡猾に細められた。汗が額を伝い、闇に溶け込む。
「方法は三つある。よく覚えておきなさい。一つ。一番堅実なのは、この証券をそのまま、海軍に石炭や食料を納入している御用商人に売ることだ。彼らは喜んで買う。裏の約束で、荷物を引き受けてくれる」
梁の眉がピクリと動いたが、林は続けた。
「二つ。満州にいる仲間なら、これを南満州鉄道が発行している『貨物運送券』に両替できる。満鉄と関東軍は、裏では繋がっているからな。列車の汽笛が、秘密の合図になるのさ」
「そして三つ目。お前のような男に一番向いているやり方だ」林の声が、低く響く。クリークの水面に、提灯の光と林の長髪が揺らめき、二人の影を長く伸ばす。
「租界の外れにある、英領インドの商人――パーシーたちが経営する貿易商館へ行け。彼らは、これを『無記名の為替手形』として扱い、香港銀圓(当時の香港の法的通貨)に化けさせてくれる。まるで蜥蜴が色を変えるように、姿を隠すのよ」
梁の目がらんらんと輝き、瘦せた体が前かがみになった。興奮が喉を震わせ、声が上擦る。
「……なら、俺は迷わず『三つ目』だ。一度香港銀圓に化けさせちまえば、こっちのもんだ。その金で銀を買い、そこから東南アジアの華僑市場に流してやる。バタビアの港からシンガポールの闇市まで、いくらでも捌けるぜ……この匂い、たまらねえ」
梁は、まるで稀代の宝物を手に入れたかのように、制度債を慎重に懐の奥深くへと滑り込ませた。指先が紙の端を撫でる感触に、満足の吐息を漏らす。
そして猫のようにしなやかな足取りで闇に溶け込み、英国商館の微かな灯りが漏れる方へと消えていった。路地の空気が、彼の去った後も甘く淀み、蘇州河のささやきが、新たな陰謀の予感を運んでくる。
かくして、この上海の湿った裏通りで、制度債を巡る第二の道が生まれた。
公式ルート――海軍補給部を通じた正規取引――
地下ルート――華僑ブローカーによる非正規流通――
二つの血流は、時に交わらず、時に絡み合いながら、同時に走り出した。
制度債は、表の銀行を経由すれば「銀を動かさない、安全な航路証券」として機能し、裏の路地を流れれば「あらゆる国際課税を回避する、即時換金可能な闇手形」としての顔を持つ。
この二重構造こそが、東郷一成の計算をも超え、アジアの富を凄まじい速度で吸い上げる巨大なポンプとなっていく。その流れは、やがて上海、満州、香港、そして遥かバタビアやシンガポールまでを結ぶ、巨大な「銀還流ループ」へと発展していくのである。クリークの水面に映る月が、揺らめきながらその秘密を嘲笑うかのように、静かに輝いていた。
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