外灘(バンド)の黄昏
時:1927年(昭和二年)、初夏の午後
場所:上海国際租界、外灘に聳え立つ、香港上海銀行(HSBC)上海支店・重役応接室
黄浦江の濁った流れと、行き交う蒸気船やジャンクの喧騒。それら全てが、分厚いマホガニーの扉と、磨き上げられた窓ガラスの向こう側で、音のない映像のように動いていた。室内は世界の中心であるかのような、重々しい静寂に満ちている。
部屋の主、サー・アロイシャス・グレイは、その静寂の支配者だった。香港上海銀行の上海支店長として、この国際都市の金融界を牛耳る彼は、銀のペーパーナイフの先で、目の前のテーブルに置かれた一枚の奇妙な証券を、弄んでいた。
「……それで、林さん。あなたが今日、わざわざ私の貴重な時間を割いてまで見せたかった『新しいおもちゃ』というのが、これかね?
"Imperial Japanese Navy Institutional Credit Security" 随分と、大袈裟な名前が付いているもんだ」
彼の前に座る若い女、林文蘭は、よくしつらえられたスーツを着た南洋華僑の大物でありながら、その物腰は常に穏やかだった。
「グレイ様。これは、おもちゃではございません。これは、我々商売人にとっての『未来』かもしれませんわ」
「フン、未来かね」グレイは、鼻で笑った。
「私の目には、東京の海軍省の役人が考え出した、ただの約束手形にしか見えんがな。日本円で壱萬圓? 馬鹿馬鹿しい。日本の円など、ロンドンのシティの気まぐれ一つで、明日には価値が半分になるかもしれんのだぞ」
「どうか、裏面をご覧くださいませ。そこにこの『証』の、本当の価値が記されておりますので」
グレイは、億劫そうに証券を裏返した。そこに記された英語と漢字の一文を読み、彼の眉間に、深い皺が刻まれた。
「本証券は、所有者の要求に応じ、上海に於ける指定交換所にて、額面相当の純銀、或いは現行レートの英ポンド・米ドルと交換することを、大日本帝国海軍の名において保証する」
「……純銀だと?」グレイは、色付きの眼鏡の奥で、目を細めた。「しかも、ポンドかドルとも交換できる、と? 正気か、日本海軍は。これは、事実上の金本位制ならぬ『軍本位制』ではないか。自分たちの軍事力を、直接通貨の価値に結びつけるというのか。前代未聞だ」
「私も、最初はそう思いました」林は、穏やかな笑みを崩さない。「ですが、よくお考えください。グレイ様、我々華僑が、なぜ貴行のような欧米の銀行に、高い手数料を払ってまで送金や決済を頼むのか。それは、貴行の後ろに、世界を支配する大英帝国の『信用』があるからに他なりません」
「当然のことだ」
「では、お尋ねしますが」林の声のトーンが、わずかに鋭くなった。「このアジアの海において、大英帝国の東洋艦隊と、大日本帝国の聯合艦隊、どちらの力が、より確かでございますかな?」
グレイは、林の不躾な問いに、カチンときた表情を浮かべたが、即座には反論できなかった。アジアにおける近年の日本の軍事的台頭は、彼ら英国人にとって、最も不愉快な、しかし、認めざるを得ない現実だったからだ。
「この証券は、通貨ではございません」林は、畳み掛ける。「日本海軍が、ある『任務』を完了したという『記録』だそうで。例えば、私のゴムを積んだ船を、マラッカ海峡の海賊から護衛するという任務。その完了の証として、これを受け取る。これは、課税の対象にはなりません。英国政庁も、オランダ政庁も、これを通貨として取り締まることはできませぬ」
「……つまり、これは脱税のための道具だと、そう言いたいのかね」
「いいえ。『信用の運び手』でございます」
林は、静かに言った。「私は、この紙をスマトラの鉱山主に送り錫の代金とする。彼は、この紙をサイゴンの米商人に送り米を買い付ける。そして、その米商人は、この紙を上海の私の工場に送り、綿糸の代金とする。銀も、ポンドも、ギルダーも、一切動いておりません。動いたのは、この一枚の『記録』だけでございます」
グレイは、ようやく事の重大さを理解し始めた。これは、彼らが二世紀かけて築き上げてきた国際金融の秩序に対する、静かな、しかし、あまりにも根本的な挑戦であった。
「……分かった。君たちの狙いは分かった。だが、最終的に、この紙切れは誰が銀に換えるのだ? 最後には、誰かがリスクを負わねばならんはずだ」
「もちろん、日本海軍でございます」林は、こともなげに言った。
「ですが、彼らは我々が銀との交換を求めることを、むしろ歓迎しております」
「なぜだ?」
「彼らは、この仕組みを使って、中国大陸の各地に眠る銀を、合法的に、そして静かに集められるからでございます。我々華僑のネットワークは、彼らにとって、大陸中から銀を吸い上げ、さらに大陸に返すための、最高のパイプラインなのです。そして、その銀で、また新たな『任務』を遂行し、この『証』を発行する…」
グレイは、椅子に深く身を沈め、目を閉じた。彼の頭の中には、アジア全域を覆う、新しい金融の血流が、はっきりと見えはじめていた。中国大陸で生まれ、日本の軍事力という心臓を経て、東南アジアの隅々まで流れ、そして再び大陸へと還流する、銀のループ。そのループは、香港上海銀行の分厚い金庫の壁を、いとも容易くすり抜けていく。
「林さん。貴方は、実に恐ろしいものを持ってきた」
グレイは、ゆっくりと目を開けた。
「これは、阿片よりも、もっと静かに、そして深くこの大陸を蝕むかもしれんな。……それで君はこの『証』を、私にどうしろと?」
林はその日初めて、穏やかな仮面を脱ぎ捨て、商売人の鋭い目をした。
「グレイ様。貴行も、この新しいゲームに参加なさるおつもりはございませんか? この『海軍制度債』の、公式な銀兌換窓口として。手数料は、弾ませていただきますわ」
応接室に、再び沈黙が訪れた。黄浦江を渡る汽船の物悲しい汽笛の音だけが、遠くから響いていた。
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