鈴木商店と台湾銀行
1927年(昭和二年)、神戸。
かつて「東洋一の総合商社」と呼ばれた鈴木商店の本館は、まだ外見だけは堂々と立っていた。だが内部には、焦げ臭いようなタバコの匂いと、帳簿に押し寄せる赤字の波しかなかった。大蔵大臣の失言で東京渡辺銀行が破綻し、他行にも取り付け騒ぎが波及。鈴木商店も新規融資の打ち切りを台湾銀行に通告され、事実上資金調達が不能となっていた。
若手社員の村田は、汗ばむ手で伝票を束ねながら、机の上の電話機を睨んでいた。朝から各地の支店から矢継ぎ早に飛び込む報告は、どれも「決済不能」「為替不足」「取り付け騒ぎ」の三語で埋め尽くされていた。
「……終わったのか、我が社は」
思わず口をついた呟きに、隣の先輩は沈黙で応えた。机の下では、誰もが靴の爪先で床を小刻みに叩き、不安を掻き消そうとしていた。
その午後、社長室に一人の来客が現れた。海軍の主計士官を名乗る壮年の男だった。無骨な軍服に、しかし眼だけは商人のような鋭さがあった。
「諸君、海軍からの提案だ」
彼は簡潔に告げた。
「鈴木商店の抱える在庫、砂糖、石炭、鉄材。そのすべてを制度債で引き取る。我々は制度債を“任務証券”として発行し、これを国内の農村、海外の華商ネットワークへ流す。諸君は、それを円貨や外貨に換えたいなら、我らの経理局を通せばよい」
役員たちは一様に顔をしかめた。
「……軍が商売にまで口を出すのか」
「制度債など、所詮は紙切れにすぎん」
だが村田は違った。数ヶ月前、東北の米穀商の友人から手紙を受け取っていた。
――「銀行が米を担保に金を貸してくれなかった。だが海軍の制度債は、米俵をそのまま価値に変えてくれた」
海軍の証券は、既に民の間で命綱になりつつあった。
村田は、震える声を抑えながら言った。
「……社長。私たちはもう、銀行の信用で動けません。しかし、海軍は“任務”で発行する。もしあれにすがらなければ、在庫は腐り、社員は路頭に迷います」
沈黙。やがて社長は、深く息を吐き、机を叩いた。
「……分かった。鈴木商店は、海軍の制度網に身を委ねる」
その夜、村田は神戸港の倉庫に立ち、砂糖俵に押されるように積み込まれていく木箱を見つめていた。艀の上では、海軍の兵士たちが笑いながら制度債の帳簿に判を押していた。
「軍が、俺たちの荷を価値に変えていく……」
彼は、胸の奥が焼け付くように熱くなるのを覚えた。
鈴木商店という名前は、やがて帳簿から消えるだろう。しかし、彼らの汗と汗で築いた物流の道筋は、制度債の網に組み込まれ、さらに大きな流れとなって生き延びるのだ。
帰り道、村田はふと空を仰いだ。神戸の夜空には、鈍い光を帯びた月が浮かんでいた。
「……我々は滅んだのではない。制度に吸われ、姿を変えて残るのだ」
その言葉は、誰に言うでもなく、夜風に紛れて消えていった。
1927年(昭和二年)、台北。
南国の陽は眩しかったが、銀行の帳簿には陰しかなかった。台湾銀行の会議室には、焦燥の匂いがこもっていた。昭和金融恐慌の余波で、為替相場は乱れ、清算不能の手形が積み上がる一方。鈴木商店の破綻は、彼らの胸を直撃した。
若手行員の林は、窓際で額に汗を浮かべながら、古びた伝票の束を見つめていた。彼の故郷は台南の農村で、幼なじみの家も不況にあえいでいる。
「このままでは、銀行も農村も、共に沈む……」
胸の奥で呟いたとき、重い扉が開いた。
入ってきたのは、高雄の海軍経理局から派遣された制度債監理官の主計中佐だった。痩せた体躯に似合わず、声はよく通った。
「台湾銀行の諸君。我々は諸君を潰すつもりはない。むしろ、ここを“制度債清算拠点”に作り替えたいのだ」
役員たちは驚きに目を見張った。
「清算拠点……?」
佐伯は頷き、机に新しい様式の帳票を並べた。
「鈴木商店の在庫は、すでに制度債で引き受けた。その決済は主に上海、神戸を経由して流通している。しかし、真の要はここ台湾だ。銀の流れも、米の流れも、ここを通る。我々は台湾銀行を“制度債の港”とし、発行と回収、そして円・ドル・銀との切り替えを担わせたい」
役員たちの一人が顔をしかめた。
「……つまり我々は、政府ではなく、海軍の“子銀行”になると?」
佐伯は静かに答えた。
「政府の金解禁は机上の空論だ。金などただの飾りにすぎない。いま動いているのは、制度債と銀だ。台湾銀行は、沈むのではなく、新しい潮流の中で“港湾”となるのだ」
林は、その言葉に胸が震えた。彼の頭に浮かんだのは、故郷の農村で見た光景だった。制度債で配られた肥料で稲は青々と育ち、子供たちは飢えから解放されていた。あれを動かしているのは、確かに海軍の網だった。
「……もし我々が“清算港”となれば、農民も商人も、ここに流れ着く。ならば、銀行は生き残れる」
林は小さく、しかしはっきりと口にした。役員たちは互いに顔を見合わせた。もはや選択肢はなかった。
その夜、林は遅くまで帳簿に灯をともし、新しい清算記録の書式に慣れようと必死に筆を走らせた。紙面の上には、円、ドル、銀の欄のほかに、新たに「制度債」の欄が加わっていた。
やがて、台湾銀行は「制度債清算拠点」として再編される。華南から流れ込む銀、東南アジアの商人が持ち込むドル、それらはすべて台北で制度債に結び付けられ、再び日本本土と世界市場へと循環していった。
林は、自らの筆跡が新しい時代の流れの一部になっているのを感じながら、深く息を吐いた。
「……我々の戦いは、まだ終わっていない」
南国の夜、街灯に照らされた台湾銀行の玄関は、まるで新しい“灯台”のように、闇の中に光を放っていた。そして、林がその夜から扱い始めた膨大な“銀”の流れこそが、数年後、太平洋の向こう側で、世界最強の超大国の大統領を絶叫させることになる、巨大な砲弾の、最初の火薬となることを、まだ誰も知らなかった。
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