龍は、解き放たれた
陸軍との密約が成立し、永田鉄山が部下と共に去った後も、東郷一成は一人、部屋に残っていた。壁にかけられた大きな地図。その満州から揚子江にかけて引かれた赤い線は、今や彼の構想の中では、はるか南の海へと伸びようとしていた。
彼は静かに立ち上がると、指先でその想像の線をなぞった。
上海から香港へ、そしてシンガポール、バタヴィア、サイゴンへと。
そこへ、彼の同期であり、艦隊派の南雲忠一が静かに入室した。
「東郷、陸軍の連中は…」
「うむ、帰ったよ。龍は、解き放たれた」
東郷は、地図から目を離さずに言った。その声は低く、言葉の一つ一つを噛みしめるようだった。
「……制度債とは、貨幣にあらず。これは未来史の“証拠物件”になるのだ。今、ここで我々が大陸に流していく紙切れ一枚一枚が、三十年後、五十年後の交渉のテーブルで、我々の権利を証明する、揺るぎない根拠となるのだ」
南雲は息を呑んだ。自分たちが扱っているものが、単なる便利な金融ツールではなく、歴史そのものを記述するための道具であるという事実に。
「貴様……それは、証券で国境を塗り替える、と?」
「そうだ」
東郷は、茶を飲み干した後に応えた。
「剣で築いた境界は、より強い剣によって容易く崩れる。だが信用で打った杭は、誰にも抜けぬ。なぜなら、それは取引の記録として残り、人々の記憶に刻まれ、積み重なり、やがて“歴史”と呼ばれる、動かしがたい事実となるからだ」
時:1927年(昭和二年)、シンガポールの夜
場所:ラッフルズホテルのスイートルーム、そのバルコニー
むせかえるような熱気の中に、ジャスミンと潮の香りが混じり合う。眼下には、ガス灯の光が真珠のように連なり、行き交う人力車の影が長く伸びていた。この部屋の主、東郷一成は、バルコニーの手すりに寄りかかり、遠くマラッカ海峡へと続く、暗い海の先を見つめていた。
その背中に、小さな影が寄り添う。養女の、幸である。今年で七つになる少女は、父の軍服の裾を、ぎゅっと握りしめていた。その瞳には、子供らしい無邪気さと、そして、この時代の誰もが持ち得ない、遥か未来の記憶からくる、深い憂いが同居していた。
「……お父様」
幸の声は、夜の空気に溶けるように、か細かった。
「これから、会う人たち……お父様の、敵に、なるかもしれない人たち、なのでしょうか…?」
東郷は振り返らず、ただ、娘の頭を優しく撫でた。
「敵ではないさ、幸。彼らは、新しい時代の、最初の『お客様』だ」
その声は、どこまでも穏やかだった。しかし幸には、その穏やかさの裏にある、鋼のような意志と、全てを見通すような冷徹さが、痛いほどに伝わっていた。
(……ううん。違うんです、お父様。私は、ただのお人形じゃない。あなたの『剣』にも、『盾』にも、ならなきゃいけないんです。あなたが地獄の道を歩むというのなら、その一番前を歩いて、あなたのための道を切り開くのが、私の……)
幸は、こくりと頷くと、父の裾から手を離し、きりりと背筋を伸ばした。
シンガポール・ラッフルズホテルの一室
福建省出身のゴム商であり、若い女だてらによく父の跡を継ぎ、シンガポールの華僑社会の顔役にまでのし上がった日本語も解する林文蘭は、目の前の日本人――東郷一成――の話に注意深く耳を傾けていた。
日本人が提示したのは、「非課税・銀兌換・日本国外限定流通」を謳う、新しいタイプの制度債だった。
「……なるほどね」
林はキセルを吸うのも忘れ、英語でゆっくりと言った。
「これは、貨幣ではない。“軍の任務遂行を証明する証”だと。ならば、英国の植民地条例には触れないでしょうね」
「その通りです」
東郷平八郎の息子だという日本人は、流暢な英語で答えた。
「そして、この証券で貴殿の一族が所有するゴム農園から日本への輸送船の決済を行えば、船賃も為替手数料も、一度で、しかも格安で済ませることができます」
林の目が、鋭く光った。
隣に座っていた、スマトラで錫鉱山を経営する広東出身の陳嘉庚が、口を挟んだ。
「つまり、我々が香港の家族に銀を送る代わりに、この“紙”を送れば、受け取った家族は、上海の正金銀行で、これを銀に換えられると。…これならば、欧米の銀行に支払う、あの馬鹿げた送金手数料を半分に減らせるかもしれん」
バタヴィアで米穀商を営む潮州出身の男も、興奮したように言った。
「それに、日本海軍の船が輸送を護衛するならば、マラッカ海峡の海賊も手を出すまい。輸送の“安全”まで付いてくる通貨など、今まで見たことも聞いたこともない!」
そこに林が、何かに気づいたように叫んだ。「待って、陳先生。これは…我々がこの紙を使えば使うほど、大陸の銀が東南アジアに還流し、我々の商いを潤す仕組みではないの!?」
彼らは、顔を見合わせた。
欧米列強の植民地支配の下で、彼ら華僑商人が長年探し求めてきたもの――欧米の金融支配をすり抜け、安全かつ低コストで、自分たちの富を動かす手段。それが今、目の前に差し出されている。
発行元が、かつてロシアのバルチック艦隊を打ち破った、あの日本の海軍であるという事実も、彼らの心を強く惹きつけた。だが日本帝国の海軍をどこまで信用できるのか、という声もある。
部屋の中は、高級な葉巻の香りと、極上の鉄観音の香りで満たされた。シンガポールの華僑社会を牛耳る商人たちが、東郷一成を、品定めするような目で値踏みしている。彼らの間を飛び交うのは、銀の相場、輸送コスト、そして英国植民地政庁の法律の抜け道。それは、一切の感傷を排した、冷徹なビジネスの交渉だった。
東郷が「制度債」の利点を流暢な英語で説き終わり、部屋に重い沈黙が落ちた。商人たちは互いに目配せをし、最後の決断をためらっている。この日本の海軍軍人が本当に信用に足る男なのか。彼の差し出す「未来」は甘い蜜なのか、それとも毒杯なのか。林文蘭の厳しい視線が、値踏みするように東郷の顔を射抜いていた。
その張り詰めた空気を破ったのは、控えめなノックの音だった。
コン、コン。
全員の視線が、重厚なマホガニーの扉に集まる。東郷の随行員が、訝しげな顔で扉を少しだけ開けた。
「……どうした?」
「申し訳ありません、中佐」随行員は、困惑した声で言った。「お嬢様がどうしても、と…」
その声と共に、扉の隙間から小さな影が、おずおずと顔を覗かせた。幸である。彼女は、部屋の重々しい雰囲気に気圧されたように、小さな体を縮こまらせ、不安げに父の姿を探していた。その手には、古びた布製の人形が、固く握りしめられている。
東郷は、一瞬だけ眉をひそめたが、すぐに穏やかな表情に戻り、手招きをした。
「……すまない、諸君。娘だ。少しだけ、失礼する」
幸は、部屋の隅々から注がれる、鋭い視線に怯えるように、小走りで父の元へ駆け寄った。そして、その大きな背中の後ろに、隠れるようにして、商人たちから顔を背けた。
その子供らしい仕草に、部屋の緊張が、ふっとわずかに緩んだ。
「お父様…」幸は、父にだけ聞こえるような、小さな声で囁いた。
「お人形の、リボンが、取れそうになってしまって……結んで、いただけますか…?」
それはあまりにも場違いな、あまりにも子供らしいお願いだった。
東郷は、何も言わず、娘の手から人形を受け取った。そしてその小さな人形の、ほつれかけたリボンを、軍人らしい、しかし、驚くほど器用な指つきで、丁寧に結び直していく。その大きな節くれだった手が、小さな人形を扱う様はどこかちぐはぐで、しかし、深い父性を感じさせた。
その光景を商人たちは、黙って見ていた。
林文蘭の厳しい商売人の目が、わずかに和らいだ。
陳嘉庚の野心に満ちた顔から、ふと力が抜けた。
彼らは、目の前で繰り広げられる、静かな父娘の姿の中に、これまで見えなかったものを見ていた。国家の代理人でも、冷徹な交渉相手でもない。ただ、一人の父親としての、東郷一成の素顔を。
やがてリボンを結び終えた東郷は、人形を幸の手に返した。
「……もう、大丈夫だ」
幸はこくりと頷くと、父の顔を見上げた。そしてその背後から、心配そうにこちらを見ていた林文蘭の姿に気づき、はっとしたように小さな声で言った。
「……あっ。お姉さんは、きれいな着物を着ていますね。私の死んだお母様も、そういう着物を、お写真で着ていました」
その一言は、部屋の空気を、完全に変えてしまった。
ビジネスの交渉の場に、ふわりと抗いがたい、個人的な、感傷的な空気が流れ込んだ。
林文蘭は、息を呑んだ。彼女の商売人の仮面がぽろっと剥がれ落ちた。
「……そう。あなた、お母様を…」
「はい。日本で、スペイン風邪で…。お父様が、ワシントンでお仕事をしていた時に。私は会ったことがないのですけど…」
幸の声は震えていた。それは完璧な真実であり、そしてこの場においては、最強の武器でもあった。
東郷は、何も言わなかった。
陳嘉庚が、思わず、広東語で呟いた。
「……東郷中佐も、苦労人なのだな」
バタヴィアの米商人も、深く頷いた。
林文蘭は、立ち上がると、幸の前に屈み、その目線に合わせた。
「……お嬢ちゃん。あなたのお父様は、強い方ね」
そして、彼女は、東郷に向き直った。その目にはもはや、品定めするような光はなかった。ある種の共感と、そして覚悟を決めた者の、静かな光が宿っていた。
「東郷中佐。あなたのお話、乗りましょう。我々華僑も、家族のために、伝統を守るために、異国の地で戦っております。あなたの『任務の証』が、我々の戦いを助けてくれるというのなら、喜んで、この手を取らせていただきますわ」
その一言で、全てが決まった。
スイートルームに戻る廊下で、東郷は幸の小さな手を、固く握った。
「……幸。お前の、おかげだ」
「いいえ」幸は、首を横に振った。
「私はただ、お人形のリボンを結んでもらいに行っただけ、です」
彼女は、父の手をぎゅっと握り返した。この小さな手が、いつかこの大きすぎる父の背中を、支えることができるのだろうか。その不安と、そして揺るぎない決意を胸に、少女は、異国のホテルの長い廊下を、父と共に歩いていった。
その夜から、東南アジアの華僑ネットワークの中に、新しい血が流れ始めた。
それは、東郷一成が大陸で吸い上げた膨大な「銀」を裏付けとして発行された、「制度債」という名の、見えざる金融の奔流だった。シンガポールだけでなく、東南アジアの各所に宇垣軍縮で職を失ったが、東郷に拾われた元陸軍将校が派遣され、現地の有力華僑商人に接触。「非課税・銀兌換・国外限定流通」という、彼らのニーズに完璧に合わせた新型制度債を提示する。
まだ、欧米が築き上げたアジアの植民地経済の、分厚い壁の、ほんの小さな亀裂にすぎなかったかもしれない。しかし、その亀裂から流れ込んだ水はやがて、その壁そのものを内側から静かに、しかし、確実に、崩壊させていくことになるのを、まだ誰も知らなかった。
そして、東南アジアの華僑が中国本国への送金に制度債を使用することで、日本・中国・東南アジアの三点における銀のループ構造が成立していく。すなわち、大陸で日本が得た銀を担保に東南アジアで制度債券が売られ、その債券が中国本国への送金ルートとなり、再び銀に換えられる。
この循環こそが、欧米の銀行を介さない、アジア人によるアジア人のための金融ハイウェイであった。そして、この流れに当時関東軍で張作霖の排除・満州事変の計画を練っていた石原莞爾が真っ先に着目した。満州で動く前に、東郷という男に、いずれ一度会わねばなるまい。
龍は、ついに南の海へと解き放たれたのである。
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