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TOGO 軍神の息子は、アナポリス帰りから軍縮した貧乏日本海軍の記録で稼ぐようです  作者: キユ
第一章

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呉越同舟、銀の奔流

時:1926年(大正15年/昭和元年)

場所:築地・料亭「松葉」の一室

その部屋は、静寂に包まれていた。障子の向こうから聞こえる微かな水音だけが、二人の男の間に横たわる、重い緊張を和らげているかのようだった。


一人は、海軍省経理局長、東郷一成中佐。もう一人は、陸軍省の中枢で「将来の陸相」とまで目される、永田鉄山中佐であった。永田は、陸軍きっての合理主義者であり、ドイツ仕込みの国家総力戦理論の専門家でもあった。彼は、海軍、特にその中でも異端の財政家として名を馳せる東郷一成に対し、強い警戒心と、そして、かすかな知的好奇心を抱いていた。


「本日はお越しいただき、感謝に堪えません。陸軍におかれましては、昨今の国家財政の逼迫により、ご苦労が絶えぬことと拝察いたします」


東郷の丁寧な挨拶に、永田は、表情を変えずに応じた。


「……海軍さんにはわかるまい。貴殿らは、制度債なる打ち出の小槌を手に、軍縮の痛みなど、とうに無縁なのであろうな」


棘のある言葉。陸軍が去年宇垣軍縮により四個師団を廃止し、数千の将校が路頭に迷った苦しみが、その一言に凝縮されていた。

東郷はその棘を意に介さず、静かに茶を一口すすった。


「その制度債のお話でございます。……単刀直入に申し上げましょう。この仕組み、陸軍でもお使いになってみては、いかがですかな?」


永田の眉がぴくりと動いた。完璧なポーカーフェイスがわずかに崩れる。警戒が、純粋な驚きへと変わった。


「……貴様、何を企んでおる。海軍が、我ら陸軍に塩を送るなどと……にわかには信じられんな」

「これは、呉越同舟。帝国国軍のためであります」


東郷は、そこで一度言葉を切り、永田の目をまっすぐに見た。


「それに、こちらにも利はございます。我が海軍は、制度債の仕組みは作りましたが、これを全国、ましてや外地にまで広げるには、いささか人的資源が足りませぬ。特に、金の流れを管理し、信用の根幹を維持するためには、高度な軍事知識と、鉄の規律を兼ね備えた人材が不可欠なのです」


そして東郷は、決定的なカードを切った。


「宇垣軍縮により、やむなく予備役に編入された、優秀な将校殿、下士官殿が大勢おられると聞き及ぶ。彼らを、制度債を管理する『業務監査官』として、我々が雇用したい。もちろん、身分は海軍軍属とし、相応の待遇をお約束いたします。貴軍にとっては、人員整理の受け皿となり、我々にとっては、制度債の信用を磐石にする人材が得られる。……悪い話ではありますまい?」


永田は絶句した。

これは、悪魔の囁きか、それとも天の助けか。

予算不足と、巷に溢れる予備役将校たちの不満。陸軍が抱える二つのアキレス腱を、同時に癒す妙案。海軍への根深い反発心と、組織を救うという冷徹な実利が、彼の頭の中で激しくせめぎ合った。


この男、東郷一成は、陸軍の窮状を完璧に見抜いた上で、この交渉の場に臨んでいる。永田は、瞼の裏に、職を失い酒に溺れる元同僚たちの顔と、満州の広大な地図を同時に思い浮かべていた。天秤は、もはや動かしようもなかった。


「……見返りは、制度債のノウハウ、か」


永田がようやく絞り出した声は、かすかに嗄れていた。


「左様。特に、貴軍が力を注いでおられる満州などの外地で、この仕組みは絶大な効果を発揮するはずです。大陸におけるインフラ整備、資源開発、そして治安維持。その全てを国家予算に全部頼らずとも、自律的に遂行することが可能になりましょう」


それは、永田自身が夢想してきた「国家総力戦体制」の構築に、不可欠なピースだった。政府の財政に縛られず、軍が主導して大陸経営を行う。そのための、魔法のような資金源。

しばらくの沈黙の後、永田は静かに頷いた。


「……よかろう、その話、乗った。だが一つだけ条件がある。監査官の席次や待遇において、決して陸軍出身者が不当な扱いを受けぬよう、一筆差し入れてもらおう。これは組織の面子だ」


この密約は、驚くべきスピードで実行に移された。数週間後、東京駅や大阪駅のプラットホームには、真新しい背広を着た、背筋の伸びた男たちが無言で列車を待っていた。彼らの手には『海軍省』と書かれた辞令。行き先は満州だけでなくさまざまだ。彼らの表情は、希望と屈辱が奇妙に混ざり合ったような複雑な色をしていた。


陸軍は海軍の制度債とヘッジする形で「関東軍功績債」「朝鮮派遣軍債」といった独自の制度債を発行。満州の広大な大地で、鉄道建設や製鉄所の拡張、さらには軍の駐留経費の一部までも、東京の大蔵省の顔色を窺うことなく、自前で賄い始めたのである。


そして、その事務局には、軍服を脱いだ陸軍の元将校たちが、「海軍軍属・制度債業務監査官」という奇妙な肩書で着任した。彼らは、かつてのライバル組織の軍属となることに一抹の屈辱を感じながらも、再び国家に奉職できる誇りを胸に、黙々と、しかし極めて有能に、その任務をこなした。


これにより、歴史の記録に、新たな一ページが刻まれる。

満州や上海の国際都市で、海軍と陸軍、二つの制度債が、公然と、そして競い合うように流通し始めたのだ。それは、日本の商社や満鉄の間だけでなく、やがては、その高い信用力から、現地の中国人商人や欧米の銀行家たちの間にも、「円」よりも安定した通貨代替物として浸透していく。


そして、東郷が呉越同舟の先に見ていた真の目的が、大陸の地で静かにその姿を現し始めた。

1920年代の中国は、銀本位制の国である。そして当時の日本は、中国に対し貿易黒字であった。制度債が中国経済に深く食い込めば食い込むほど、その取引の対価として、大陸の奥深くから掘り出された、あるいは欧米との貿易で蓄積された、膨大な量の「銀」が、制度債の発行元、すなわち海軍と陸軍の「見えざる金庫」に、奔流となって流れ込み始めたのである。


しかも、制度債は非課税。この銀の流入もまた、大蔵省の全く関知しないところで、日本の国力を、特に軍部の購買力を、静かに、しかし爆発的に増強させていった。

東郷一成は、陸軍のプライドと窮状を巧みに利用し、自らの構想を海から大陸へと飛躍させた。それは、来るべき総力戦の時代を予期し、国家の公式な財政とは別の次元で、戦争そのものを継続するための「血」を、静かに、そして大量に蓄え始めるという、恐るべき布石であった。


日本という国家は、今や二つの心臓を持つ怪物へとその変貌を遂げつつあった。

いつもお読みいただきありがとうございます。

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