国家のはらわた 後編
昭和二年、冬。東京株式市場では、銀行株が不穏な動きを見せ始めていた。
「……制度債に依存する漁村融資の焦げ付きリスク」
「制度債ファンドが制度港に集中し、地方銀行の預金が流出」
「“国家内国家”の動きに財政審査が追いつかない」
そんな見出しが金融紙の一面を飾り始めていた。
だが、制度債農地ローンの現場では、変わらず静かな雪解けが進んでいた。冬が明けた頃、茂吉の畑では、制度債で導入した耕耘機が動き出していた。
それは赤く塗られた、見たこともない大型の“洋式”農具だった。英語の刻印があり、海軍の管理番号がついていた。隣の家では、制度債で冷蔵庫が導入されていた。
「これが“海軍制度農具”か」
隣村から見物に来た農夫が呟く。
「オラがこれを借りるのに、担保は要らなかった。ただ、過去の記録と、今後の訓練参加を約束しただけだ」
制度点は、過去の海軍への協力とみなされた行為と未来の誓約で構成される。
「制度農場」では、制度債信用に応じて水田整備、灌漑、冷蔵倉庫建設が進んでいった。各農場は制度債で導入した機材を“共有”し、収穫物は制度港経由で日本全国へ流れた。
それは、かつての農会や農協とも異なる。
「海軍からもたらされた信用で繋がる農業共同体」
それこそが、制度債がもたらした新たな“土の上の戦略拠点”であった。
「……信用は畑を耕す、か」
そうつぶやいた茂吉は、制度債で得た最後の支援で、子どもを東京の学校に送り出していた。
手には、制度倉庫で受け取った制度進学券が握られていた。
同じころ、全国の港町では新たな看板が次々に掲げられていた。
「帝国海軍制度信用銀行」――通称、海軍銀行。
水交社の酒保から始まり、将兵向け給与調整制度から進化したこの組織は、今や制度債の発行・精算・換金業務を担う金融中核となっていた。呉、佐世保、横須賀、大湊、舞鶴、さらには釜山・基隆・青島にまで支店が拡大し、制度点による信用評価を基に、農業融資や造船投資、零細商人の設備資本まで流す体制が整いつつあった。
銀行券の代わりに、海軍将兵の名入り制度点が貼付された手書きの伝票が現場で回る。農協、製材所、漁協、機械商……制度ネットワークに組み込まれた町の事業者たちは、徐々に海軍銀行の制度圏に吸い寄せられていった。
「貨幣は信用の上に成り立つ。ならば“軍功”が信用となる時代に、貨幣と制度は入れ替わるのです」
海軍経理局長・東郷一成の講話は、霞ヶ関で耳を塞がれるほどに広がりつつあった。
しかし財閥は黙っていなかった。
昭和恐慌の足音が聞こえ始める1927年。金融系の財閥はそれぞれ系列銀行に対し通達を出した。
「制度債による預金受け入れを禁止する」
「制度債担保貸付を拒否せよ」
「制度債は“国家内国家”を生む」との論調が、系列新聞で展開される。
「制度進学券は軍国主義教育への洗脳装置」「海軍銀行は政府通貨制度への挑戦」――制度そのものを“思想”として攻撃する形で世論戦が始まった。
だが、三菱と古河は反応が違った。両者はすでに制度債を通じて艦艇建造・航空機部品の受注資金を得ており、制度圏との結びつきが深い。三菱銀行は限定的ながら制度債の割引を認め、古河は鉱山町で制度債農協を支援する動きを見せていた。
「制度に乗った者は、もう“貨幣”には戻れない」――これは制度債を導入した岩手の農協理事長の言葉である。
そして――物語は東京へ。
東郷の養子、東郷幸は横須賀の小学校に通っていた。ある日、彼女のクラスに、東北からの転入生がやってくる。茂吉の末娘、庄司梅である。
制度進学券により学費・寮費が免除された彼女は、寒村の記憶と海軍への感謝を胸に、都会の教室に立った。クラスでは当初「制度の子」「制度債娘」と揶揄されたが、幸は彼女とすぐに打ち解ける。夜の寮で、手帳にこっそりと記す。
『梅ちゃんのお父さんは制度債で田んぼを借りてる。兵隊さんのご飯になるお米を作ってるって』
『東京では、制度って言うと怖がる人もいる。だけど梅ちゃんは、制度のことを「希望」って言った』
やがて「制度生の会」が発足する。制度進学券で上京した生徒たちが、各地の制度経験を語り合い、手紙を書き、記録を残しだす。
それは、父が東京で戦う「制度債の正当性」とは別に、民衆の生活と日常から立ち上る“制度の体温”だった。
翌年、ある作文がきっかけとなる。
制度生の一人が書いた「お米と兵隊さん」という文章が、全国作文コンクールで入賞し、新聞に掲載されたのだ。
「ぼくのお米が、海軍さんの人たちのごはんになると聞いて、うれしくなった。もっとがんばって耕そうと思った」
これが財閥系の新聞で「軍国少年を養成する制度債制度」と批判され、逆に制度寄りの新聞では「制度がつなぐ民と軍」と賛美された。プロパガンダ戦の最前線に、いつしか「制度生の会」が据えられていたのだ。
幸の小さなノートも、その報道によりのちに議員たちの目に触れることになる。
東郷は苦笑しながら、娘の手帳を読む。
『梅ちゃんは“制度債娘”って呼ばれて悔しかった。でも、梅ちゃんのお父さまは言った。「恥ずかしいことじゃない。制度で救われたのだから、堂々としてなさい」って。私も、堂々としていたい』
その夜、東郷は窓辺に立ち、星の光を眺めながら呟いた。
「……この国の未来は、数字でも、法でもなく、こういう声の上に成り立っていくのだろうな」
昭和の恐慌は本格化し、貨幣は信用を失い、失業と倒産が続く中で、制度債は「現場の信用」として流通を拡大していた。
海軍銀行の支店網は地方の拠点都市にまで拡がり、制度債の割引・流通・認証が定着するにつれて、国税庁は「制度債は課税不能」という立場を明文化せざるを得なかった。
海軍は「国家の外」に、新たな生存回路を築きつつあった。
金融系財閥は制度券の“換金禁止”を堅持し続けたが、それはもはや地方経済にとって「制度債が使えない銀行」という烙印になりつつあった。
逆に、三菱と古河、そして新興の地方商業銀行の中には、「制度債対応」バナーを掲げる店も出てきた。
東京・神田のある書店には、こんな貼り紙があった。
「制度債、お使いになれます。書籍と交換可能(制度スコア提出が条件)」
昭和恐慌は、じわじわと地方を蝕み始めていた。
だが海軍制度圏――大湊・呉・舞鶴・神戸・長崎・横須賀・佐世保の鎮守府や警備府、そしてその港に繋がる農村だけは、いまだ安定を保っていた。
そこには、一つの真実があった。
「軍隊は戦争をする前に、信用のために制度を築く」
制度債とは何か?
貨幣か、統治か、記録か。
それはまだ定まらない。ただひとつ言えるのは――
これは国家の腸である。静かに、だが確実に、世界を呑み込む内臓のようだった。
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