プロテウス
時:1930年(昭和五年)、2月
場所:ワシントンD.C. 海軍省・作戦部長執務室
その日のチャールズ・ヒューズ海軍作戦部長は、財務局から突きつけられた「予備役艦艇維持費の削減命令」を前に、頭を抱えていた。
不況で予算がない。戦艦や巡洋艦を維持するだけで精一杯だ。役立たずの補助艦艇に回す金など、1セントもない。
そこへ東郷一成が現れた。
もはやヒューズにとって、この男は「死神」か「悪魔のサンタクロース」にしか見えなくなっていた。
「……また来たのか、東郷大佐。今度は何を買いに来た?
戦艦か? 空母か? それともホワイトハウスのシャンデリアか?」
ヒューズの皮肉に、東郷は涼しい顔で答えた。
「いえいえ。今日はもっと地味な、しかし貴軍にとっては『粗大ゴミ』の処分のお手伝いに参りました」
東郷は、一枚のリストを差し出した。
そこに記されていたのは、かつてアメリカ海軍の威信を支えた、しかし今は忘れ去られた船たちの名前だった。
『プロテウス(Proteus)』
『ネレウス(Nereus)』
『ネプチューン(Neptune)』
『オリオン(Orion)』
『ジェイソン(Jason)』……。
これらは全て、「給炭艦(Collier)」である。
排水量1万9000トン。かつて石炭焚きの戦艦たちに燃料を供給するために建造された、巨大な輸送船だ。
「……給炭艦だと? 何の冗談だ」
ヒューズは眉をひそめた。
「我が軍はすでに重油専焼だ。あんな石炭船、スクラップにする予定だぞ」
「ええ、存じております。
ですが、それらの船には特徴がある。
『大量のバラ積み貨物』を積載でき、自前の強力なデリック(クレーン)を持っていることです」
東郷は、リストを指先で叩いた。
「我々は今、イギリスから大量のスクラップを、南米からは硝石や銅鉱石を運ばねばなりません。
しかし、通常の貨物船では積み下ろしに時間がかかる。
……そこで、貴軍の給炭艦です。あれは元々、石炭という『鉱石』を扱うための船だ。鉄くずや鉱石を運ぶにはうってつけでしょう?」
ヒューズは呆気にとられた。
軍艦を、鉱石運搬船として使うだと?
「……スクラップ価格にリスクプレミアムを考え、色をつけましょう。
一隻あたり100万ドル。即金です。
貴軍にとっては、維持費が浮き、解体費用もかからず、現金が入る。……悪い話ではないはずです」
断れるはずがなかった。
港で錆びつかせておくだけの鉄の塊が、燃料を買える現金の山に変わるのだ。
「……持って行け」
ヒューズは、吐き捨てるように言った。
「ただし、軍艦としての武装や通信設備は全て撤去するぞ」
「構いません。欲しいのは『船倉』だけですから」
⸻
時:数週間後
場所:ノーフォーク海軍軍港
かつて米艦隊の「母」として親しまれた巨大な給炭艦たちが星条旗を降ろし、旭日旗を掲げて出港していく。
その船体は黒く塗られ、どこか葬列の霊柩車を思わせた。
桟橋で見送っていたレイモンド・スプルーアンス中佐は、隣に立つマーク・ミッチャー中佐に、低い声で言った。
「……マーク。あれが何に見える?」
「ただのボロ船だろ。石炭の粉にまみれた」
「違うな」
スプルーアンスは首を振った。
「あれは、『アメリカの過去』が『日本の未来』を運んでいく姿だ」
彼は、遠ざかる船影を見つめた。
「かつて、あの船たちは我々の戦艦に石炭を食わせていた。
そして今、あの船たちは日本の製鉄所に鉄を食わせ、工廠に銅を食わせるために働くのだ。
……プロテウス(ギリシャ神話の海神)か。皮肉な名前だ。
姿を変えて、今度は敵の国力を太らせるのか」
東郷の買い付けた給炭艦群は、その広大な船倉と強力な荷役能力を活かし、南米のチリ硝石や銅鉱石、そしてイギリスのスクラップを、恐ろしい効率で日本へと運び続けた。
それらは見た目こそ無骨で薄汚れていたが、その腹の中には、近代戦を遂行するために不可欠な「資源」が、はち切れんばかりに詰め込まれていたのである。
⸻
場所:ニューヨーク州ハイドパーク、ルーズベルト邸・書斎
その部屋は、少年の夢と大人の野心が同居する場所だった。
壁一面には海図。棚には無数の帆船模型や、海軍の記念品が並んでいる。ニューヨーク州知事フランクリン・デラノ・ルーズベルト(FDR)は、車椅子を暖炉に寄せ、手の中にある一つの小さな模型を愛おしげに撫でていた。
それは、給炭艦『プロテウス』の木製模型だった。彼が海軍次官補になったばかりの頃、相次いで就役した思い出の船だ。
「……ハリー。見てくれ、こいつを」
FDRは、模型を腹心のハリー・ホプキンスに見せた。
「不格好だろう? 煙突ばかりデカくて、甲板はクレーンの骨組みだらけだ。スピードも遅い。戦艦のような華やかさは微塵もない」
「ええ、まあ……正直、ただの作業船に見えます」
「その通りだ。だがな、ハリー。こいつがいなければ、大西洋艦隊は一歩も動けなかったんだ。
石炭という黒いダイヤを腹一杯に詰め込んで、戦艦のあとをついて回る。まさに艦隊の乳母だよ」
FDRは、模型をテーブルの上に置いた。
そこには、ONI(海軍情報局)から届いたばかりの、売却艦艇のリストが広げられていた。
『ハリス・クラス(535型)』 16隻。
『フーバー・クラス』 2隻)。
『給炭艦(プロテウス級ほか)』 5隻。
『シェル・タンカー』 17隻。
「……壮観だな」
FDRは、乾いた笑いを漏らした。
「東郷大佐は、私が次官補時代に苦労して整備した『海軍の足腰』を、根こそぎ買い取る形で整備していったよ。
ハリス級で兵隊と物資を運び、フーバー級で航空機を運び、タンカーで油を運び、給炭艦で鉱石を運ぶ。
……完璧だ。これほど美しい『兵站のストレートフラッシュ』は見たことがない」
ホプキンスが首を傾げた。
「しかしフランク。給炭艦なんて、今の時代に何に使うんです? 日本海軍も重油専焼でしょう?」
「想像力の欠如だ、ハリー」
FDRは、葉巻に火をつけた。
「東郷は、イギリスから何を輸入している?」
「……戦艦のスクラップと、鉄くずです」
「南米からは?」
「チリの硝石と、銅鉱石です」
「そうだ。それらは全部、重くてかさばる『粉と塊』だ。
普通の貨物船じゃ、積み下ろしに何日もかかる。だが、給炭艦なら?
あの船は、巨大な石炭の山を戦艦の腹に流し込むために作られたんだ。強力なデリックと、広い開口部を持っている。
鉄くずだろうが鉱石だろうが、ものの数時間で飲み込んで、次の港へ走れる」
FDRは煙を吐き出し、天井を仰いだ。
「東郷は、ただ船を買ったんじゃない。
彼は『ベルトコンベア』を作ったんだ。
南米と、イギリスと、日本を結ぶ、資源を吸い上げるための高速ベルトコンベアをな。
そしてそのコンベアの動力源(船)は……皮肉なことに、全て我々アメリカとイギリスが、過去の戦争のために建造し、今やお払い箱となった遺産だ」
FDRは、プロテウスの模型を指先で弾いた。
「ヒューズ作戦部長は、これを『粗大ゴミの処分』だと言って喜んでいるそうだな?」
「ええ。維持費が浮いたと」
「……馬鹿め」
FDRの声が、低く冷たくなった。
「彼は『過去』しか見ていない。この船が石炭を運ぶ船だと思っている。
だが東郷は『未来』を見ている。この船が、日本の工業力を支える血管になることを見抜いている。
……ハリー、海軍というのはな、大砲の数で決まるんじゃない。
『どれだけ遠くへ行き、どれだけ長くそこに留まれるか』で決まるんだ」
ホプキンスは何も言えなかった。
FDRは苦々しげに笑った。
「私が次官補になったばかりの頃に出来上がり、主力艦隊の補助をきっちり勤め上げた船たちだ。
それが今、たった数百万ドル――ウォール街の連中がランチで使うような端金で、東郷の手に渡った。
……アメリカ合衆国海軍は、自らの手足を切り売りして、その日暮らしの銭を得る『乞食』に成り下がったのか」
彼は、模型をそっと棚に戻した。
そこは「過去の栄光」を飾る場所ではない。「奪われた未来」を祀る祭壇のように見えた。
「……東郷君。君は私に、とてつもない宿題を残してくれたな」
FDRは窓の外、ハドソン川の流れを見つめた。
川面を行く船は少ない。不況で物流が止まっているからだ。
「私が大統領になった時……最初にやらねばならんことは、銀行の再建ではないかもしれん。
『船』を作ることだ。
君に奪われた商船隊を、一から作り直すことだ。
……そうでなければ、我々はハワイに物資を送ることすらできなくなる」
その夜元海軍次官補は、かつての愛しい子供たち(船)が、東洋の島国へ嫁いでいくのを、苦い酒と共に祝った。
それはアメリカ合衆国が「海洋国家」としての魂を一時的に売り渡した、歴史的な夜だった。
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