提督たちの反乱
時:1930年(昭和五年)、2月
場所:バージニア州、ノーフォーク海軍基地
「総員、退艦ッ!!」
艦内放送が、悲痛な響きを帯びて冬の空に吸い込まれた。
戦艦『テキサス』の甲板では、ダッフルバッグを背負った水兵たちが、葬列のように静かにタラップを降りていく。
彼らは除隊になったわけではない。
「無期限の待機命令」が出たのだ。
動かす予算がないから、家に帰れという命令だ。
機関室では、機関長がボイラーの火が落とされるのを、油にまみれた顔で涙を流して見守っていた。
火を落とせば、配管は冷え、錆びつき、パッキンは劣化する。再稼働(Re-activation)には数ヶ月と莫大な費用を要する。
それは事実上の「死」、すなわち「モスボール(保存封印)」措置だった。
「……戦争もしていないのに。負けてもいないのに。
我々は、自ら艦を殺すのか……」
港を見渡せば、数十隻の駆逐艦と巡洋艦が、墓標のように静まり返って並んでいた。
煙突から煙は出ていない。錆び始めた船体に、色あせた星条旗だけが寒風に虚しくはためいている。
その死んだ港の横を、一つの「生きた船」が、黒煙を上げて悠々と通り過ぎていく。
船尾に海軍の旭日旗を掲げた、日本郵船にリースされた大型運送艦『対馬』(元・米船プレジデント・ハリソン)だ。
その喫水線は、極限まで下がっている。
積荷は、ロンドンから積んできた「英国戦艦の装甲板」。
そして今、このノーフォークにも寄港し、さらに積み込んだ「米国鉄道の廃レール」と「自動車のスクラップ」だ。
日本の船は、アメリカの港で腹一杯に鉄を食い、アメリカの労働者にチップをばら撒き、そしてアメリカの海軍基地を横目に、高々と汽笛を鳴らして出港していく。
「……見ろよ。日本は動いている」
下船した水兵が、埠頭で吸いたくもないタバコを吹かしながら呟いた。
「俺たちの艦隊は、カネがないから動けない。
日本の艦隊は、俺たちの国から巻き上げたカネで、腹一杯食って、地球の裏側まで走り回ってる」
彼は錆びついた『テキサス』と、水平線の彼方へ消えていく『対馬』を見比べた。
「……これ、どっちが『一等国』なんだ?」
その問いに答えられる者は、誰もいなかった。
ただ寒風だけが、かつての最強海軍の基地を吹き抜けていった。
⸻
時:1930年(昭和五年)、2月
場所:ロンドン、テムズ川沿いのホテル・サヴォイ(日本代表団宿舎付近)
ロンドン海軍軍縮会議の合間、ヘンリー・スティムソン米国務長官は、気晴らしのためにテムズ川の畔を散策していた。隣には、次期米海軍作戦部長のウィリアム・プラット大将がいる。
川霧の向こうから、巨大な船影が現れた。
その船を見て、プラット大将が足を止めた。
「……見ろ、ヘンリー。あれを知っているか?」
プラットが指差した先には、160メートルを超える巨船が、吃水線を深く沈めて遡上してくる。
かつて『プレジデント・タフト』と呼ばれた、米国生まれの535型貨客船だ。
だが今その艦名は『津軽』と改められ、船尾には日本海軍の鮮やかな旭日旗が翻っている。
「……我々が、二束三文で日本に売り払った船だ」
スティムソンは呻いた。
「何をしに来たんだ。観光か?」
「いいえ。……葬儀屋ですよ」
プラットは、双眼鏡を渡した。
「積荷を見てください」
スティムソンが覗くと、甲板には山のような「鉄の塊」が積まれていた。
赤錆びた鎖、切断された砲身、ひしゃげた装甲板。
それは英国が軍縮条約の先取りで廃棄処分にした、ライオン級戦艦の解体くずだった。
「……なんてことだ」
元・アメリカの輸送船が、イギリスの戦艦の死骸を積み込み、日本の製鉄所へと運んでいく。
その購入資金は、アメリカ国民がパニックで日本に預けたドルだ。
「ヘンリー」プラットは静かに言った。
「我々の国には、銀行預金を保証する制度(後のFDIC)がない。株の不正を取り締まる役所(後のSEC)もない。
だから国民は、自分の身を守るために『日本海軍の無限責任』という言葉にすがった。
その結果がこれだ。
我々の国民の金で、我々の船を使って、同盟国の戦艦の装甲板を、仮想敵国が持ち去っていく。
……これほど効率的な『資源回収システム』が、かつてあったかね?」
スティムソンは、テムズ川の濁った水面を見つめた。
会議室で「比率がどうだ」と議論しているのが、あまりにも虚しく思えた。
「……帰ろう」
スティムソンは背を向けた。
「これ以上見ていると、私が日本に『宣戦布告』をするか、あるいは『亡命』をしたくなってしまう」
⸻
場所:ロンドン、リッツ・ホテル(米国代表団宿舎)
ロンドンの霧深い夜。アメリカ代表団のスイートルームは、怒鳴り合いの場と化していた。
帰ったばかりのスティムソンは、目の前に座る男に、もはや懇願に近い口調で語りかけていた。
ヒラリー・ジョーンズ提督。米国海軍の長老であり、代表団の海軍顧問。
彼は史実でも対日妥協に頑強に反対した「タカ派」だが、この世界線では、さらに強烈な「意地」を持っていた。
「……提督、頼む。サインしてくれ。『日本の要求』を受け入れると」
スティムソンは、ワシントンからの悲鳴のような電文を握りしめていた。
「本国の財政は限界だ。万一軍縮会議が破綻すれば、ドルの信用に関わる。我々は『金本位制を守り抜いている』という一点だけで、かろうじて大国の体面を保っているのだ。ここで決裂して建艦競争になれば、ドルは紙くずになる!」
だがジョーンズ提督は、石像のように動かなかった。
彼は静かに、一枚の写真をテーブルに置いた。ワシントンの給食所で、日本海軍のスープを啜る米国民の写真だ。
「……長官。我々は、すでに魂を売った。今度は、剣まで売れと言うのか」
提督の声は老人のそれとは思えぬほど低く、ドスが効いていた。
「日本は今、我が国の首都で慈善事業を行っている。結構なことだ。だが、それは奴らに『金がある』というだけの話だ。
金があるからといって、奴らの好き放題に軍艦を持たせていい理由にはならん」
「だが、金がなければ我々は対抗できない!」
「ならば、造らなければいい!」
ジョーンズは机を叩いた。
「条約を結ばず、何も造らなければいいのだ!
『アメリカは日本の不当な要求を拒否した』と言って席を立てばいい!
そうすれば、少なくとも『海軍の誇り』と『将来の自由』は守られる!」
それは、典型的な「艦隊派」の論理だった。
「貧乏で負ける」ことは許されるが、「条約で負けを認める」ことは許されない。
「もし貴官が、独断で日本の要求を飲むなら……」
ジョーンズは、懐から一通の封筒を取り出した。
「私は即刻帰国し、上院外交委員会で証言する。
『スティムソン国務長官は、国家の安全保障を売り渡した。これはDereliction of Duty(職務放棄)であり、事実上のTreason(反逆)である』とな」
⸻
時:数日後
場所:ワシントンD.C.
その日の朝刊は、全米を震撼させた。
新聞王ウィリアム・ランドルフ・ハースト傘下の新聞が一斉に、扇情的な見出しを掲げたのだ。
『STIMSON SURRENDERS!(スティムソン、降伏!)』
『Our Navy Sold for a Bowl of Soup!(我らが海軍、スープ一杯で売られる!)』
記事には、ジョーンズ提督からのリークと思われる「専門家の見解」が掲載されていた。
「日本の要求を認めれば、フィリピン防衛は不可能」
「国務省は、日本の『制度債』という怪しげなカネに屈服した」
「政府は国民の胃袋だけでなく、国の安全まで日本に委ねるつもりか!」
ラジオでは、愛国的なコメンテーターが絶叫する。
「金がない? それは政府が無能だからだ!
日本は金を持っている? それは我々から奪った金だ!
奪われた金で造られる軍艦を、条約で認めるなど……これは自殺行為だ!」
議会は蜂の巣をつついたような騒ぎになった。
特に共和党内の強硬派は、フーヴァー大統領とスティムソンを「弱腰」「売国奴」と罵り、条約の批准拒否をちらつかせた。
⸻
場所:ワシントン州タコマ港・空母『レキシントン』艦長室
窓の外は冷たい雨が降りしきっていた。
全長270メートルの巨体を持つ空母『レキシントン』は、今や「動く航空基地」ではなかった。岸壁に太い送電ケーブルを何本も繋がれ、干ばつで水力発電が止まったタコマ市に電気を送るだけの、巨大な「浮き発電所」に成り下がっていた。
艦長アーネスト・キング大佐は、その屈辱的な光景を背に、ワシントンD.C.から届いた新聞をデスクに投げ捨てた。
「……馬鹿どもが」
紙面には、海軍将官会議(General Board)の重鎮たちが、議会で声を荒らげている様子が報じられていた。
『我々は強い!』
『フィリピン沖で決戦を行えば、必ず勝てる!』
『だから予算をくれ! 条約の枠一杯まで艦を作らせろ!』
副長が、ためらいがちに口を開いた。
「……艦長。ワシントンの提督たちも必死なのでしょう。
今の議会は『勝てない軍隊にカネはやらん』という雰囲気です。
ここで『日本には勝てません』などと弱音を吐けば、海軍そのものが解体されかねません」
「ああ、分かっている」
キングは、葉巻を噛み砕かんばかりの力で噛んだ。
「奴らの叫びは、戦鬨ではない。
予算という餌を減らされそうになった老犬の、哀れな遠吠えだ。
『俺はまだ番犬の役に立つんだ! 飯をくれ!』と叫んでいるだけだ」
⸻
時:同日
場所:ロンドン、日本代表団宿舎
その騒ぎを聞いた山本五十六は、苦笑いを浮かべていた。
目の前には、ワシントンの東郷からの暗号電文がある。
『……米海軍、およびハースト系メディア、発狂ス。
彼ラハ「時間稼ギ」ニ出ル模様。
「条約不成立」ヲ以テ、国内ノ排日感情ヲ煽リ、政権ヲ揺サブル算段ナリ』
「……どこかで聞いたことのある話だ」
山本は呟いた。
金がないのにプライドだけが高い軍部が、メディアと結託して政府の足を引っ張る。
「だが、東郷。奴らは一つ勘違いをしているな」
山本は、窓の外のロンドンの雨を見上げた。
「時間を稼げば稼ぐほど、有利になるのは我々の方だということに」
アメリカが条約論争で空転している間にも、
日本の工場は、アメリカの技術でフル稼働し、
南米の資源やイギリスのスクラップは、日本の船で運ばれ続ける。
スティムソンは、今や「国内の敵(海軍・議会)」と「国外の敵(日本)」の板挟みになり、死に体だった。
彼が唯一すがれるのは「金本位制を維持している」という、実体のないドルの信用だけ。
山本は、若槻全権に伝えた。
「全権。焦ることはありません。
アメリカさんが気が済むまで、議論させてあげましょう。
……スープが冷めるまで、待てばよいのです」
いつもお読みいただきありがとうございます。
もし少しでも「面白い」「続きが気になる」と思っていただけましたら、ブックマークや感想、ページ下の【★★★★★】で評価をいただけますと、執筆の大きな励みになります。




