記録される汗、されざる汗
時:1926年(大正15年/昭和元年)
場所:横須賀海軍工廠・第三ドック
巨大なクレーンが神の腕のように唸りを上げ、リベットを打ち込む甲高い金属音が、工廠の隅々にまで木霊していた。建造中の新型巡洋艦の巨大な肋骨が、灰色の空に向かって伸びている。その光景はあたかも、鋼鉄の巨獣が生まれ出でんとするかのような、荘厳ささえ漂わせていた。
その喧騒を眼下に見下ろす製図室の窓辺で、二人の男が腕を組んでいた。
一人はこの工廠の主、老練な技師長の田所徳兵衛。もう一人は視察に訪れた、海軍省経理局長の東郷一成であった。
「……東郷中佐」
田所がぶっきらぼうに、しかし、その声には隠しようのない敬意を滲ませて口火を切った。
「正直に申し上げて、最初に中佐殿が提唱された、この『制度債』の話を聞いた時は、何を馬鹿な、と。そう思いましただ」
「ほう。それは、なぜですかな?」
東郷が、穏やかに問い返す。
「決まってまさぁ」田所は、見事に蓄えられた口髭を、ぴくりと動かした。
「我々職人の世界は、腕一本、そして年季が全て。長く勤め上げた者が敬われ、給金もそれに応じて上がるのが当たり前。それが、任務の成果だの、効率だの、そんなハイカラな西洋の物差しで評価されるなんざ、現場が混乱するだけだ、と。若いのが功を焦ってしゃしゃり出て、ベテランを差し置いて手柄を立てようとすれば、我々の命であるチームワークも何も、あったもんじゃねえ、と」
「もっともなご懸念です。組織の秩序を、どう保つか。それは、いかなる改革においても、最も重要な課題ですからな」
東郷は、静かに頷いた。
「だが、違いましたな」
田所は、製図台の上に広げられた一枚の奇妙な帳簿を、太い指でとん、と叩いた。
「これを見せられて、ようやく、あんた様の本当の狙いが、腹の底から分かりやした」
その帳簿の表題は『横須賀工廠・第三期巡洋艦建造・工数信用記録』。
そこには、驚くほど詳細なデータが、美しいインクで几帳面に書き込まれていた。
鋼材加工班:総作業時間 2,500人時/リベット使用数 120,450本/加工精度誤差 平均0.5mm以内……
機関部据付班:総作業時間 1,800人時/ボイラー設置日数 25日/配管溶接箇所 3,120……
船殻組立班(信用基礎評価):勤続20年以上 15名/10年以上 30名/5年未満 50名……
「基本となる信用評価は、ここに書いてある通り、勤続年数。つまり、昔ながらの年功序列。これで、我々のような年寄りも、まずは一安心できる」
田所は、帳簿の「勤続年数」の項目を、誇らしげになぞった。
「だが、それだけじゃねえ。俺たちが汗水流して打ったリベットの一本一本、神経をすり減らして溶接したパイプの一筋一筋まで、その全てが“記録”され、それが、この工廠全体の“信用”という名の力になる。そしてその力で、次の新しい工作機械がドイツから買えるかもしれねえし、俺たちの昼飯の味噌汁に、たまには魚のアラが入るかもしれねえ」
彼の目が窓の外で汗まみれになって働く、若い職人たちの姿を捉えた。
「最初はこの帳簿を前に戸惑っていた若い衆も、今じゃ、どうすればもっと速く、もっと正確にリベットを打てるか、夜遅くまで残って研究してまさぁ。自分たちの汗が、ただの給金で消えてしまうのではなく、“記録”として残り、この工廠の未来を作るのだと分かったからでしょうな」
しかし、そこで田所はふと声を落とし、その顔に複雑な影を落とした。
「……だがな、中佐。物事には必ず光と影がある。この帳簿にも、映らねえ仕事ってものがあるんでさぁ」
「ほう?」
「例えば、事故を防ぐために、一日かけて、ただただ点検に徹する作業。あるいは、若い衆の未熟な手つきを見かねて、自分の手を止め『こうやるんだ』と技を教える、あの一言。そういう地道で、目に見えねえ貢献は、この立派な帳簿には決して残らねえ」
彼は、一度言葉を切った。
「数字を稼ぐことばかりに目がくらみ、競い合い、時に無茶な工程を組んで、ヒヤリとするような事故を呼びかけた若造もおりやした。記録に残る“成果”を意識しすぎるあまり、誰も新しい困難な方法を試そうとせず、“減点を恐れて守りに入る”という、臆病な空気も生まれ始めている」
「このままでは、作業時間を短縮して“時短”という名の与信を得ようと、安全確認の手順を一つ飛ばすような不心得者が、常態化してもおかしくありやせん」
東郷は、しばし黙考した。彼の脳裏で、巨大なシステムの中に生まれた、予期せぬ歪みが、明確な形を結んでいく。
「……なるほど。制度の数字は、真実を映す鏡であると同時に、影をも生む、と。貴重なご指摘です」
田所は、深く頷いた。
「ええ。だからこそ私は、思うんです。数字に残らねえ“職人の勘”や“受け継がれるべき伝統の技”を守り、それを正当に評価する仕組みがどうしても要る、と。長年の経験で、帳簿には現れない事故を未然に防いだ者。手取り足取り、根気強く後輩を育て上げた者。班全体の和を保ち、誰かの失敗を黙って庇った者……そういう、数字にはならねえ功績をこそ称える、別の物差しが」
その言葉を聞いた瞬間、東郷の目が、細く、鋭く光った。
(……そうだ。記録に残る汗と、残らぬ汗。この二つを、矛盾ではなく、両輪として回すこと。それこそが、我が国の、本当の強さになる。単純な“合理主義”だけを信奉する、アメリカには、決して真似のできない、我々だけの、武器に……)
東郷は田所の方に、ゆっくりと向き直った。
「……田所さん。『名人位』……そういう称号を設けるのは、どうでしょう」
「名人位……?」
「ええ。数値化された評価とは別に、現場の長たちが推薦し、工廠長が、その技と徳を認めて認定する。この称号は、直接金銭的な与信には換えられぬかもしれません。しかし、その名はこの制度台帳の余白に、金文字で永遠に記録される。その技と、その精神をこの工廠に受け渡すための、最高の証として。
そして「工廠の技術は名人に依存する」という公式見解を制度に盛り込み、工廠が生み出す与信(制度債)の一部を 「名人位報酬」 として割り当て可能にする」
田所の皺だらけの顔に、深い深い笑みが浮かんだ。
「……へっ。そいつは、いい。実に、いいですな、中佐殿」
「それなら、年寄りの口うるさいだけの勘も、若いののがむしゃらな努力も、どっちも無駄にならねえ。記録に残る汗と、記録にならぬ汗。その両方があって初めて、この工廠は、いや帝国海軍は、本当に回っていくんでしょうな」
その時、工廠のサイレンが昼休みを告げて高らかに鳴り響いた。職人たちが、一斉に工具を置き、汗を拭いながら、食堂へと向かっていく。その顔には、過酷な労働の疲れと共に、不思議な充実感と誇りが浮かんでいた。
彼らは理解していたのだ。
自分たちの仕事は、単なる労働ではない。
それは、連合艦隊の、いや日本海軍と自分たちの未来を築くための、具体的な「信用創造活動」であると。
そしてその汗の記録こそが、自分たちの存在が、この巨大な組織の歴史の中に、確かに刻まれた証になるのだということを。
東郷一成が設計したのは、単なる経済システムではなかった。
それは、帝国海軍に奉公するすべての人々の労働に「意味」と「物語」を与え、その魂を、静かに、しかし、確実に掌握するための壮大な仕掛けだったのである。
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