悲鳴と勘違い
時:1930年(昭和五年)、春
場所:東京・霞が関、海軍省・人事局長室
その日海軍省の人事局長室からは、砲撃戦の最中かのような怒号が響き渡っていた。
「……35隻だぞ!? いきなり35隻だッ!!」
松下元人事局長は、ワシントンから届いた電報を振り回しながら、部下の課長たちに吠えていた。
「駆逐艦や水雷艇じゃないんだぞ!
全部が1万トン越えの巨艦だ!
これに乗せる艦長(大佐・中佐級)が35人、機関長が35人、分隊長クラスが数百人、下士官兵に至っては数千人だぞ!
一体どこの畑から、そんな人員が生えてくると思ってるんだ、東郷も五十六も!」
課長の一人が、おずおずと進言する。
「……局長。予備役の招集と、兵学校の卒業生の繰り上げ任官でなんとか……」
「間に合うかッ!
いいか、この船団はただの輸送船じゃない。『最新鋭』なんだ!
アメリカから買ったハリス型や、まだ出来ていないフーバー型はともかく、シェルから買ったタンカーは、日本にまだない複動式ディーゼルだぞ? 蒸気船しか扱ったことのない機関兵を乗せたら、出港して5分でエンストだ!」
人事局はパニックだった。
本来、海軍の人事は「ポスト不足」が悩みの種だった。軍縮条約で艦が減り、優秀な士官でも艦長になれずに陸上勤務で腐っている者が大勢いた。制度債の台頭でポスト自体は増えたが、大半は陸上勤務だ。
だが今回東郷や五十六が送ってきたのは「35個の水上艦の特大ポスト」だった。
これは朗報のはずだが、中身が問題だった。
「……誰を艦長にするんです?」別の課長が頭を抱えた。
「砲術の連中は『輸送船の艦長なんて左遷だ! 俺は鉄砲屋だ、荷運びなんぞできるか!』とプライドばかり高くて使い物になりません」
「かといって、商船学校出の予備士官だけで固めるわけにもいかん。軍艦旗を掲げる以上、現役の佐官をトップに据えねば示しがつかん!どこから捻出するんだ!」
堀は、涼しい顔で茶を啜った。
「そう言われましても。船はもう太平洋を渡ってきています。無人船(幽霊船)として漂流させるわけにはいきますまい」
「分かっている! だがな、ワシントン条約で我々は人を減らしたんだ!
油の乗った中堅士官は予備役に回し、兵学校のクラスも縮小した。
今、海軍には『余っている士官』など一人もいないんだ!」
これこそが、軍縮の弊害だった。
船は金で買えるが、人は金だけでは育たない。特に艦長クラスの士官を育てるには20年かかる。
「……ご安心を、局長。手は打ってあります」
堀は、別のリストを差し出した。
それは、過去数年間に東郷一成が「制度債奨学金」を使って支援してきた、特選候補者としての准士官上がりの海軍特務士官、そして日本郵船や大阪商船に「予備役将校(予備員)」として登録されているベテラン船乗りたちの名簿だった。
「今回の35隻は、法的には『特務艦』および『運送艦』です。
艦長は正規の士官である必要がありますが、航海長や一般乗組員は、民間のベテランを『軍属』あるいは『召集』という形で高値で引き抜けば充当できます。
彼らはすでに、海軍の制度債で飯を食っている連中です。喜んで駆けつけますよ」
「……だとしてもだ!」
人事局長は食い下がった。
「機関科はどうする!
シェルから買ったタンカーは、最新鋭のディーゼルだろう?
蒸気タービンしか触ったことのない我々の機関兵に、あんな複雑な機械が扱えるか!」
堀は、ニヤリと笑った。
「いますよ。海軍の中に、ディーゼルと油の臭いにまみれて戦っている、変わり者たちが」
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時:1930年(昭和五年)、春
場所:東京・霞が関、海軍省・軍務局長室
その日海軍軍務局長・堀悌吉の元に、怒鳴り込んできた男がいた。
海軍軍令部次長、末次信正中将。
艦隊派の急先鋒であり、日本海軍における「潜水艦戦術」の第一人者である。
「堀! 貴様、いい加減にせんか!」
末次の怒声が轟く。
「輸送船だの客船だの、商売道具ばかり買い漁りおって!
その金があるなら、なぜ潜水艦の一隻も増やさん!
ロンドン条約で補助艦まで縛ろうとしている今、対米戦の切り札は潜水艦しかないのだぞ!」
堀は湯呑みを置いて静かに応じた。
「……末次閣下。その潜水艦ですが、エンジンの調子はいかがですかな?」
末次は言葉に詰まった。
「……うるさい。改良中だ」
痛いところを突かれたのだ。
当時の日本潜水艦はズルツァー式やMAN式のディーゼルを導入していたが、技術不足で故障が頻発し、黒煙を吐き、轟音を立て、カタログスペック通りの速力を出せないことが多かった。
潜水艦乗りたちは、油まみれになってエンジンの機嫌をとる日々を送っていた。
「そこで、相談です」
堀は一枚の図面を広げた。
シェルから購入した「フォボス級」タンカーの機関部詳細図だ。
「こいつを見てください。
ヴェルクスプール式、複動4サイクル・ディーゼル。
シェルが世界中の海で酷使しても壊れない、信頼性の塊のようなエンジンです」
末次の目が技術屋の目に変わった。図面を食い入るように見つめる。
「……複動式か。構造は複雑だが、出力重量比はいい。
……これが手に入るのか?」
「現物が17隻、すでに横須賀と佐世保に向かっています」
堀は悪魔の取引を持ちかけた。
「末次閣下。このタンカーの機関科員……すべて、貴方の手勢(潜水艦部隊)から出していただけませんか?」
「なっ……!?」
末次は色めき立った。
「俺の可愛い部下たちを、油運びのトラック運転手にしろと言うのか!
彼らはエリートだぞ! 商船など乗れるか!」
「運転手ではありません。『技術研修』です」
堀は断言した。
「世界最高峰のディーゼルエンジンを毎日運転し、分解し、整備する。
そのノウハウを体に叩き込んで帰ってくれば……日本の潜水艦用ディーゼルは、飛躍的に進化します。
それに……」
堀は声を潜めた。
「潜水艦乗りたちは、狭くて臭くて暑い艦内で、過酷な任務に耐えています。
このタンカーは天国ですよ。個室はある、風呂はある、飯はうまい。
……ローテーションで彼らを休ませつつ、最新技術を学ばせる。
悪い話ではないと思いますが?」
末次は唸った。
潜水艦隊の強化。技術の獲得。そして部下の福利厚生。
……反論の余地がなかった。
「……分かった」
末次は不承不承頷いた。
「若手の機関科士官と、ベテランの准士官を選抜して送り込む。
……ただし! 技術を盗み尽くしたら、すぐに戻すぞ!
あんな快適な船に慣れて、ドン亀(潜水艦)に乗れなくなったら困るからな!」
⸻
時:数週間後
場所:横須賀港、元シェル・タンカー「速吸(元メガラ)」機関室
「……信じられん」
伊号潜水艦から転属してきた機関兵曹長は、唸りを上げる巨大なディーゼルエンジンを見上げて、呆然としていた。
静かだ。
いや、音はするのだが、あの潜水艦特有の「今にも壊れそうな悲鳴」や「骨を揺さぶる振動」がない。
ピストンが滑らかに動き、シャフトが力強く回転している。
「兵曹長。油圧計、安定してます」
「排気温度、正常。黒煙、出てません」
部下の報告に、兵曹長は油まみれの手で涙を拭った。
「……これが、世界の技術か。
俺たちが、あんなに苦労して調整しても動かなかったディーゼルが……ここでは、こんなに当たり前に回っていやがる」
彼らはまるで神殿に仕える神官のように、エンジンを磨き上げた。
分解整備のたびに、彼らは驚喜した。
「ここのパッキンはこうなっていたのか!」
「この燃料噴射弁の形状、艦本式とは違うぞ!」
彼らはノートを取り、スケッチを描き、その全てを艦政本部へと送り続けた。
それは単なる輸送任務ではなかった。
日本の機関技術を、一気に世界水準へと引き上げるための「実地留学」だった。
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時:同日
場所:横浜・伊勢佐木町、居酒屋
港町の夜は、噂話で満ちていた。
酒を酌み交わしているのは、沖仲仕(港湾労働者)と、近所の商店主だ。
「……おい、聞いたか? 海軍さんがまたデカい船を買ったらしいぞ」
「ああ、新聞で見たよ。アメリカの大統領の名前がついた客船だろ?
あと、イギリスの石油会社のタンカーもごっそり買ったってな」
商店主が、首をかしげながら言った。
「でもよぉ、おかしくねえか?
海軍ってのは、大砲がいっぱい付いた『軍艦』を持つのが仕事だろ?
なんで客船とか油槽船ばっかり集めてるんだ?
……ひょっとして海軍さん、戦争やめて『運送屋』でも始める気なのかね?」
沖仲仕が、ニヤリと笑って答えた。
「あながち間違いじゃねえかもな。
最近、岸壁で見かける海軍の荷物、すげえぞ。
大砲の弾なんてほとんどねえ。
アメリカの缶詰、ブラジルのコーヒー、南米の銅、ドイツの機械……。
まるで『動く百貨店』だ」
「へえぇ……。まあ、俺たちにとっちゃありがたい話だがな。
軍艦が来ても俺たちの商売にはならねえが、荷物を積んだ船が来れば、荷下ろしで仕事が増える。
……それにあの『海軍コンビーフ』、安くてうまいしな」
「違げえねえ。
『護衛』だの『シーレーン』だの、難しいことは分からねえが……
大砲撃って威張ってるだけの軍隊より、肉と油を運んでくる軍隊の方が、俺は好きだねぇ」
一般庶民にとって、「海上護衛(シーレーン防衛)」という概念はまだ存在しなかった。
彼らの目には、日本海軍が「強そうな軍隊」から、「やたらと羽振りのいい、巨大な貿易会社」へと変貌しつつあるように映っていた。
だがその「勘違い」こそが、東郷の狙いでもあった。
国民が「海軍=生活を豊かにしてくれる存在」と認識すれば、制度債への支持は盤石になるからだ。
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