535フィートの渡り鳥
時:1930年(昭和五年)、2月
場所:ニューヨーク、ブロードウェイ45番地 ユナイテッド・ステーツ・ラインズ本社
かつて大西洋航路の覇者を目指した海運会社、ユナイテッド・ステーツ・ラインズ(USL)の社長室には、死臭にも似た淀んだ空気が漂っていた。
社長のポール・W・チャップマンは、窓からハドソン川を見下ろし、ため息をついた。
川面には、彼が政府から払い下げを受けた巨大な貨客船の群れが、買い手もなく、乗客もなく、ただの鋼鉄の浮き島となって係留されている。
「535型」貨客船――通称、ハリスクラス。
全長163メートル。排水量1万トン超。アメリカ緊急船舶公社(EFC)が「ヨーロッパ戦線へ兵士と物資を高速で送り込む」ために設計した軍用輸送艦であり、その船体は頑丈無比で、速力も17.5ノットを誇る。全長が535フィート(163.06m)のため、535型と呼ばれた。
だが今の不況下では、その大きさこそが呪いだった。
船を動かす重油代が出ない。港に置いておくだけで維持費がかかる。そして米国海事委員会(USSB)からは、購入時の借入金300万ドルの返済を毎日督促されている。
「……スクラップにするしかないのか」
チャップマンが弱音を吐いた時、秘書が来客を告げた。
「社長。日本のお客様です。……現金をお持ちだそうで」
現れたのは、日本海軍の駐米武官、東郷一成大佐。今、ウォール街で最も有名な「現金の運び手」だ。
そしてその隣には、護衛の橘小百合が秘書を装い静かに控えていた。
「ミスター・チャップマン。単刀直入に申し上げましょう」
東郷は、係留されている船団を指さした。
「あの『535型』全16隻。……我々が買い取ります」
「……全部、だと?」
チャップマンは耳を疑った。
「日本の商船隊にそこまでの需要があるのか?」
「ええ。ご存知のように、我々は南米との貿易を拡大させていますからね。移民輸送と鉱石・資材の運搬に、大型で足の速い船が必要なのです」
東郷は、もっともらしい理由を述べた。
だが、彼は躊躇した。
「……しかし、これらは元々、有事には軍隊輸送艦に戻すことを前提とした『予備商船隊』だ。政府や海軍が、外国への売却を許すだろうか?」
東郷はコーヒーカップを置き、静かに微笑んだ。
そして、あらかじめ用意していた殺し文句を放った。
「ご心配には及びませんよ、ミスター・チャップマン。
それに……先日、貴国の陸軍省とも良い取引をさせていただきました」
「陸軍?」
「ええ。マッカーサー将軍は、倉庫で眠っていた旧式戦車を我々に売却し、見事に予算危機を乗り切られました。
……公的機関である陸軍が、『不用品の現金化』によって組織を守ったのです。
民間企業である御社が、陸軍に遅れをとる法はありませんな?」
チャップマンの脳裏に電流が走った。
陸軍がやったなら、非国民だと罵られることはない。
これは「愛国的リサイクル」だ。国の借金(USSBへの負債)を、日本の金で返済してやるのだ。
「……価格は?」
「一隻あたり、110万ドル。……しめて、約1,800万ドル。
予備部品や保守機材を含めて、キリよく総額2,000万ドル(約4000万円)でいかがですかな」
チャップマンはのけぞった。
市場価格は暴落している。スクラップにすれば二束三文だ。
それを、ほぼ新造時に近い価格で買い取るというのか。
「……東郷さん。貴方は正気か?」
「正気ですよ。貴社は借金を完済し、手元に巨額の運転資金が残る。
我が軍(日本)は、船を手に入れる。
……悪い話ではないでしょう?」
「……売ろう。持って行ってくれ、東郷大佐。
プレジデント・タフトも、プレジデント・ジャクソンも、みんな貴国で新しい職を見つけてくれ」
商談は、コーヒーが冷める前に成立した。
チャップマンは2,000万ドルの小切手を手に入れ、会社を倒産から救った救世主として取締役会に報告できることに安堵した。
だが彼は知らなかった。
彼が売ったその「ハリスクラス」の本当の価値を。
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時:数週間後
場所:サンフランシスコ港
16隻の船団が、長い汽笛を残して出港していく。
岸壁で見送るアメリカの港湾労働者たちは、複雑な表情を浮かべていた。
「……あんな立派な船が、全部ジャップのものになっちまった」
「まあいいさ。船長の日本人は、俺たちにたっぷりチップをくれたしな」
一方、監視塔で双眼鏡を覗いていたアメリカ海軍の情報将校は、背筋に寒いものを感じていた。
「……あの船体。……あの速度。
あれに大砲を積めば、優秀な特設巡洋艦になる。
平らな甲板を張れば、空母になる。
我々は、商船を売ったんじゃない。
……将来の太平洋における『制空権』を売り渡してしまったのではないか?」
報告書を書こうとして、彼はペンを止めた。
今更だ。
ホワイトハウスも、財務省も、この売却益(2,000万ドル)を「不況対策の成功」として発表してしまっている。
今さら「脅威だ」などと書き送れば、自分の首が飛ぶだけだ。
法律上は『老朽化した商船』だ。ジョーンズ法(1920年商船法)により、一度外国に売れば二度と米国籍には戻れないが、その代わり船主は負債を整理でき、また米国人のライバル船主に渡ることもない。
将校は溜息をつき、日誌に一行だけ記した。
『民間取引により、余剰船舶16隻、日本へ移籍』
太平洋の波間を進む16隻の船。
その船倉には、すでに日本海軍がサムライ・プットで株を購入した米企業からの機械部品と、スタンダード・オイルのロゴが入ったドラム缶、コンビーフ工場からの缶詰が満載されていた。
「鉄の渡り鳥」たちは、日本の空を埋め尽くすための餌を腹一杯に詰め込んで、巣(日本)へと帰っていった。
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時:1930年(昭和五年)、春
場所:横須賀・東郷邸、縁側
春の柔らかな日差しが、横須賀の海をキラキラと照らしていた。
東郷邸の縁側で、一成の義娘、幸は父・一成から届いたばかりの分厚い封書を膝に置き、呆然と海を見つめていた。
隣には、親友の会田まさ江が静かに座り、幸の横顔を心配そうに覗き込んでいる。
「……幸さん? 東郷様から、なんと?」
まさ江の声に、幸はハッと我に返った。
彼女の瞳――普段は怯えたような色を宿しているその瞳が、今は全く別の、恐ろしいほど冷徹な分析者の光を帯びていた。
「……まさ江さん。お父様が、また『買い物』をしたの」
幸は、震える指で同封されていた写真を指した。
そこに写っていたのは、アメリカの星条旗を降ろし、日章旗を掲げようとしている巨大な客船の群れだった。
『米国海事委員会より、535型貨客船16隻およびロイヤル・ダッチ・シェルより高速タンカー17隻を購入。……全船、日本へ回航中』
幸は、息を呑んだ。
前世の歴史では、この船たちはアメリカ軍に徴用され、日本軍を追い詰めるための「攻撃輸送艦(APA)」として使われたはずだ。
ガダルカナルで、サイパンで、フィリピンで。日本軍が飢えと弾薬不足に苦しむ一方で、アメリカ軍はこの船で物資を山のように陸揚げし、冷たいコーラとアイスクリームを兵士に配った。
その「敵の兵站の象徴」が、16隻も。
開戦の10年以上前に、日本海軍の手に渡った?
(……ありえない。これは、チートなんてレベルじゃないわ)
幸の思考が加速する。彼女は「東郷一成」という人物の思考に、深く、深く潜っていく。
(お父様は、ただの輸送船として買ったんじゃない。
この船、甲板が広くて平らだわ。……上を少し削れば、すぐに『護衛空母』になる。
船倉が広いから、戦車も積める。『強襲揚陸艦』にもなる。
そして何より……速い。17.5ノットなら、潜水艦を振り切れる)
前世の日本海軍が戦争中喉から手が出るほど欲しがり、ついに手に入らなかった「高速・重防御の輸送船団」。
それが、シェルから買った17隻の高速タンカーとセットで、計33隻。
太平洋の物流を支配する「キメラ船団」が、ここに誕生してしまったのだ。
「……幸さん、怖い顔をしてるわ」
まさ江が、そっと幸の手を握った。
「……ごめんなさい、まさ江さん」
幸はふっと憑き物が落ちたように、いつもの儚げな表情に戻った。
だが、その口調には確信があった。
「私、ずっと考えていたの。……どうして『お父様(東郷一成)』は、こんなことができるんだろうって」
幸は知っている。前世の歴史教科書に「東郷平八郎の息子、一成」という名の人物はいなかった。
彼は、この世界線に突然変異のように現れた「特異点」だ。
「お父様は、アナポリス(米海軍兵学校)を出ているわ。
そして若い頃、セオドア・ルーズベルト大統領の『グレート・ホワイト・フリート(大白色艦隊)』に乗って、世界を一周したの」
幸は、海軍の制帽をかぶった若き日の父の写真を思い浮かべた。
白く輝く16隻の戦艦が、補給部隊を従えて七つの海を渡る威容。
それは「戦闘」のデモンストレーションではなく、「兵站」のデモンストレーションだった。
(……そうか。分かったわ)
幸の中で、全てのピースが繋がった。
「お父様は、見ちゃったんだわ。
アメリカという国が、軍艦そのものよりも、それを動かす『石炭船』や『補給船』の列にこそ、本当の国力を隠しているのを。
……地球の裏側まで艦隊を動かせるのは、大砲が強いからじゃない。補給が続くからだ、って」
だからこそ義父は戦艦よりも先に、この「ハリス・クラス」を買ったのだ。
アメリカ人が「不況で維持費が高いから手放そう」と考えたその隙を突いて。
「……まさ江さん。この船たちが日本に来たら、きっと日本の海は変わるわ」
幸は、遠くアメリカの方角を見つめた。
「お父様は、日本版の『グレート・ホワイト・フリート』を作ろうとしているのよ。
でもそれは、大砲で脅す白い艦隊じゃなくて……
物資と、豊かさと、そして安心を運ぶ、見えない『黄金の艦隊』なの」
その時、庭の奥から祖父・平八郎が現れた。
老元帥は孫娘の言葉を聞いていたのか、満足げに髭をさすった。
「……ほう。黄金の艦隊か。
一成の奴、わしには『あれはただの買い物かごです』と言っておったがな」
「お爺様!」
「だが、幸の言う通りかもしれん」
平八郎は空を見上げた。
「あやつは、アナポリスで『アメリカの強さ』を骨の髄まで見てきた。
そして今、そのアメリカの強さの源(商船とタンカー)を、根こそぎ日本へ移植しておる。
……恐ろしい息子を持ったものだ」
幸は、手紙を胸に抱いた。
ハリス・クラス16隻。シェル・タンカー17隻。
その33隻の船団は、前世の記憶にある「戦時標準船」という名の鉄の棺桶に乗せられて死んでいった無数の魂を、今度こそ救うための「方舟」になるはずだ。
(……お父様。あなたは歴史を変えているんじゃありません)
幸は、心の中で呟いた。
(あなたは、歴史が置き忘れていった『一番大切なもの(兵站)』を、必死で拾い集めているんですね。……誰にも、気づかれないように)
横須賀の風が、優しく吹き抜けた。
その風の向こうから、33隻の巨大な船団が、黒煙を上げて近づいてくる幻影が見えた気がした。
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