表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
TOGO 軍神の息子は、アナポリス帰りから軍縮した貧乏日本海軍の記録で稼ぐようです  作者: キユ
第二章

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

170/185

英国紳士の絶叫

 時:1930年(昭和五年)、2月

場所:ロンドン、ホワイトホール・海軍本部アドミラルティ


 第一海軍卿チャールズ・マッデン元帥の執務室は、葬儀場よりも静かだった。

 だがその静寂は、元帥の絶叫によって打ち砕かれた。


「……正気か!? デターディングは!!」


 マッデンは、手にした報告書をマホガニーの机に叩きつけた。あまりの勢いに、インク壺が跳ねて転がった。


「『フォボス』級、『メガラ』級……シェルの最新鋭ディーゼル・タンカー17隻を、日本海軍に売却!?

 しかも、向こう10年分の蘭印石油の優先供給契約付きだと!?」


 海軍情報部長が、蒼白な顔で直立不動のまま答える。


「は、はい……。契約総額は、約1億ドル。即金払いだそうです。

 スタンダード・オイルの敵対的買収を避けるための、緊急避難的措置であると……」


「馬鹿者ッ!!」


 マッデンは吠えた。


「これは『船』を売ったのではない! 『海』を売ったのだ!

 1億ドル……? たったそれだけの端金で、奴らは大英帝国の制海権の根幹に穴を開けたのだぞ!」


 マッデンは壁の世界地図に歩み寄り、指で太平洋を荒々しくなぞった。


「いいか、よく聞け。日本艦隊の弱点は何だ? 『足が短い』ことだ!

 彼らの主力艦は強力だが、燃料を大量に食う。だから彼らは日本近海で待ち伏せする『漸減邀撃』しかできなかった。


 我々ロイヤル・ネイビーや米海軍が遠征しても勝てると踏んでいたのは、我々には世界中に給油拠点があり、彼らにはそれがなかったからだ!」


 彼の指がロンドンからシンガポールへ、そして日本へと移動する。


「だが、どうだ。この17隻の高速タンカーがあれば……日本艦隊は、燃料の心配なく太平洋のど真ん中まで進出できる。

 いや、それどころかインド洋まで足を伸ばしてくるぞ!

 1隻で駆逐艦戦隊を数ヶ月養える『動く燃料基地』を、17個も手に入れたのだからな!」


 しかも、最悪なのはその中身だ。


「技術部からの報告はどうなっている! そのタンカーのエンジンだ!」


 技術部の将校がおずおずと進み出る。


「……はっ。シェルが開発した最新のヴェルクスプール式・過給機付きディーゼルエンジン……。

 燃費効率、出力ともに世界最高水準です。日本はこの技術情報の全てと、予備パーツのライセンス生産権も入手しました」


「……終わった」


 マッデンは椅子に崩れ落ちた。


「日本は、今までディーゼルエンジンの信頼性に悩んでいたはずだ。だがこれで、一気に十年分の時間を金で買ったことになる。

 ……潜水艦だ。彼らはこの技術を潜水艦に応用するぞ。

 航続距離1万カイリを超えるような怪物が、通商破壊を仕掛けてくる……!」


 窓の外では、軍縮会議の全権団を乗せた車列が通過していく。

 彼らは「軍艦のトン数」や「大砲の口径」を1インチ単位で削り合っている。

 マッデンには、もうそれが滑稽な茶番劇にしか見えなくなっていた。


「……我々が会議室で、巡洋艦を一隻減らすかどうかで顔を真っ赤にしている間に。

 裏口では山本五十六という男が、東郷マネーで『無制限の航続距離』と『未来の潜水艦技術』を買って帰ったのだ」


 マッデンは呻いた。

「止められんのか? 政府権限で、輸出を……」


「無理です、閣下」

 情報部長は首を振った。


「シェルは『民間取引』だと主張しています。

 それに、もしこれを止めれば……シェルは資金繰りに行き詰まり、アメリカのスタンダード・オイルに買収されます。

 そうなれば、蘭印の石油はすべてアメリカに握られます」


 マッデンは天を仰いだ。

 右も地獄(日本への技術流出)。左も地獄(アメリカへの資源流出)。

 大英帝国の喉元には、いつの間にか「NCPC債」と「ドル」という二本のナイフが突きつけられていたのだ。


「……くそっ。貧乏人は黙って死ねというのか」


 彼は知っていた。この取引の真の恐怖を。

 日本はたった1億ドル(日本のあぶく銭の数%)で、英米の対日戦略を根底から覆した。


 シンガポール要塞? 香港?

 日本艦隊が高速タンカーを連れて、そのはるか外洋を迂回してインド洋に入り込めば、そんな拠点はただの「孤立した石ころ」になる。


「……マクドナルド首相に伝えろ」


 マッデンは、死人のような声で言った。


「『日本とは、喧嘩をするな』と。

 ……彼らはもう、我々の裏庭(燃料供給網)の合鍵を持っている」


 その日、海軍本部の戦略マップからは「対日封鎖作戦」の文字が静かに消された。



 時:同日

場所:ダウニング街10番地、首相官邸


 労働党のラムゼイ・マクドナルド首相は、財務大臣フィリップ・スノーデンと向き合っていた。

 スノーデンは、頑迷なまでの「健全財政」信奉者だった。


「……スノーデン君。海軍とチャーチルが発狂しているよ。

 『たった5,000万ドル(約1,000万ポンド)が出せなかったせいで、帝国の安全保障が崩壊した』とな」


 スノーデンは、冷ややかに答えた。

「首相。人は持っていないものは与えられません。

 アメリカへの戦債返済、ポンド防衛のための金利引き上げ……。

 民間企業一社の救済に1,000万ポンドも使う余裕など、どこにもありません」


「だが、相手は日本だぞ? ドイツ帝国なき今、仮想敵だった国だ」


「だからこそです」

 スノーデンは、奇妙な論理を展開した。


「日本が買ったのなら、安心ではありませんか。

 その仮想敵とやらはシェルを潰さず、金を出して助けてくれた。

 スタンダード・オイルに乗っ取られて完全に市場を独占されるよりは、日本に船を数隻譲る方がよほどマシな『痛み分け』です」


 それはあまりにも悲しい合理化だった。

 「アメリカに全て奪われるくらいなら、日本に一部を切り売りしてバランスを取ろう」という、弱者の論理。


 マクドナルドは、窓の外の霧を見た。

「……我々は、いつから『二流国』になったんだ?」


「……金本位制に復帰したあの日からです、首相」



 時:同日 夜

場所:ロンドン、サヴォイ・ホテル。日本代表団宿舎


 山本五十六少将は、テラスでウィンストン・チャーチル(非公式訪問)と対峙していた。

 チャーチルの手には葉巻、山本の好物は水饅頭だが、ここにはないので代わりの菓子をつまんでいる。


「……山本提督。君たちは悪魔か」

 チャーチルが唸った。

「我々の喉元シェルを買い叩くとは」


「人聞きが悪いですな、ミスター・チャーチル」

 山本は悪戯っぽく笑った。


「我々は『英国の技術』に正当な対価をお支払いしただけです。

 貴国政府が『金がないから要らん』と捨てたものを、我々が拾った。

 ……リサイクルですよ」


「……そのディーゼル・エンジンで、何をする気だ」

 チャーチルは鋭く問うた。

「ただの輸送船にはオーバースペックだぞ。

 あれをバラして、潜水艦に積む気だろう? あるいは、空母の補助艦か?」


「さあ、どうでしょう」

 山本ははぐらかした。


「ですが一つだけ言えます。

 今回我々が手に入れた『フォボス』級タンカー。

 ……あれは、貴国海軍にとっても『救いの神』になりますよ」


「なに?」


「我々の契約には『有事の際、英蘭政府は入港を拒否しない』とあります。

 逆に言えば、我々は『有事であっても、貴国に石油を運び続ける』と約束したのです」


 山本は、ロンドンの夜景を指差した。


「アメリカが貴国を見捨て、石油を止めたらどうします?

 ……その時貴国の港に油を届けられるのは、我々日本海軍のタンカーだけです。

 敵対するより、お得意様でいた方が得策だと思いますがね」


 チャーチルは、葉巻を噛み砕いた。

 反論できなかった。

 アメリカという「粗暴な金持ち」に首を絞められている今、日本という「計算高い成金」の手を借りなければ、大英帝国は窒息する。


「……覚えておけ、山本」

 チャーチルは、立ち上がった。


「金で買える友情は脆い。だが、金でしか維持できない平和もある。

 ……今回のロンドン会議、我々はアメリカの味方はせん。

 せいぜい、スティムソン長官を虐めてやりたまえ」



場所:ロンドン、セント・ヘレンズ ロイヤル・ダッチ・シェル本社


 その日のロンドン株式市場は、開場前から異様な殺気に包まれていた。

 ウォール街のハゲタカたち(JPモルガンとスタンダード・オイルの別働隊)は、今日こそシェルにとどめを刺すつもりでいた。株価をさらに暴落させ、二束三文で経営権を奪い取る――それが彼らのシナリオだった。


 だが、会長室のアンリ・デターディングは、窓の外の霧を睨みながら、受話器を握りしめていた。彼のデスクの上には、たった今届いたばかりの決済通知書がある。


『日本海軍ヨリ、タンカー17隻分ノ代金、入金確認。

 金額:5,100万ドル』


 それは帝国の手足をもがれた痛みと引き換えに手に入れた、乾坤一擲の弾薬だった。


「……ティーグルめ。私がただで死ぬと思ったか?」


 デターディングの目は血走っていた。

 ベネズエラは奪われた。アメリカ市場も失った。

 だが、この「ロイヤル・ダッチ・シェル」という看板だけは、ヤンキーには渡さない。


「……やれ」

 デターディングは、証券部への直通回線で吼えた。


「自社株買いだ!

 日本から入った金を、1ペニー残らずぶち込むつもりでいけ!

 成行で買い上げろ! アメリカの空売りショートを全員焼き殺せ!!」



 午前10時、ロンドン証券取引所。


 「売りだ! シェルを売れ!」と叫んでいたアメリカ系ブローカーたちの顔色が、一瞬にして青から白、そして土気色へと変わった。


 底なし沼のように下がっていたシェルの株価が、突如として巨大な力に押し上げられたのだ。

 £2.5……£3.0……£3.5!


「ば、馬鹿な! 誰が買っている!?」

「シェルだ! 本社が直接介入している!」

「資金源は!? 奴らは無一文のはずだ!」


 情報が駆け巡る。

『日本海軍、シェルからタンカーを大量獲得! 売却益が即時投入された模様!』


 その瞬間、狩る側と狩られる側が逆転した。

 空売りをしていたアメリカの投機筋は、株価が上がれば上がるほど、損失が無限大に膨れ上がる。彼らはパニックになって「買い戻し」に走った。


 自社株買いと空売りの買い戻し。

 シェルの株価は垂直に跳ね上がった。


「ぎゃああああ!」

 この日、ロンドン市場で数人のアメリカ人投資家が破産し、スタンダード・オイルの乗っ取り工作部隊は、巨額の損失を出して撤退を余儀なくされた。



 時:同日 夜

場所:ニューヨーク、スタンダード・オイル本社


 ウォルター・ティーグル社長は、報告を受けて葉巻の煙を深く吸い込んだ。


「……なるほど。日本海軍め、やるな」

 彼は、シェルのベネズエラ資産の買収契約書を指で弾いた。


「我々にベネズエラを寄越す代わりに、シェルにとどめを刺すのは止めろ、ということか。

 ……アジアの石油市場を独占させないための『重石』として、シェルを生かしておく気だな」


 ティーグルはニヤリと笑った。


「いいだろう。今回は引き分けだ。

 我々も、南米の支配権を固めるのに忙しい。アジアでの戦争は先送りにしてやる」


 彼は知っていた。

 日本が買った17隻のタンカー。それが将来、太平洋で自分たちに向かってくることを。

 だが今は、そのタンカーが運ぶ石油の代金(NCPC債)が、スタンダードの利益になることの方が重要だった。


 資本の論理と、軍事の論理。

 その狭間で世界地図は静かに、しかし劇的に書き換えられていた。


いつもお読みいただきありがとうございます。


もし少しでも「面白い」「続きが気になる」と思っていただけましたら、ブックマークや感想、ページ下の【★★★★★】で評価をいただけますと、執筆の大きな励みになります。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
スタンダード・オイルは等閑視していますが、仮に日米戦が起きますとこのままだとアメリカ敗北の可能性がかなり高いわけで。 そして敗北した場合、確実に海外権益は持ってかれるし下手するとテキサスの油田まで抑え…
英国海軍にとっては日本が脚を長くするのもだけど自分たちが使う脚が減ってしまうのも ネックだろうな。流石にいくつか代替はあるだろうけど痛いのは痛い
アメリカはベネズエラの権益を得た代わりに信頼を失ったわけですか。対日本のABCD包囲網は難しくなりアメリカは嫌われた結果逆に包囲されそうですね。それに資源も南米がありますし。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ