NCPC 後編
東郷は狩野に椅子と茶を勧めた。
「どうぞ。——商店街で札を見かけましたか」
「ええ。御蔭でして、支店のカウンターも静かでしてな。掛け売りの決済で並ぶ顔が、今日はさっぱり見えません。うちの“信用”の入り込む余地が、少し狭くなった気がしまして」
「それは民の利であり、街の利でもある」と東郷は穏やかに答えた。
「銀行も高い利鞘で辛い人から取るより、安い利で長く太く取る方が健全でしょう。われわれの川は、あなた方の川を枯らすためにあるのではない。合流するところを見つければよいのです」
狩野は目を細めた。「合流、ですか」
「加盟店への短期資金。こちらは“昨日の清算額”を明示できる。将来の入金が確定している商人への繋ぎ——あなた方が細い水路を作れば、街は喜ぶ。われわれのカードが、あなた方の貸付の担保の一部になり得る」
狩野は少しだけ沈思した。
(……なるほど。海軍の“お墨付き”があれば、これまで危なくて貸せなかった層にも融資できる。これはこれで、新しい商機か)
「……銀行に対し、敵ではなく、補完だと。そう受け取りましょう。ただ——ひとつだけ、意地の悪い質問をしてよろしいか」
「どうぞ」
「この“札”が庶民の財布に入る影のように広がり、やがて街全体が海軍の『内側』になってしまうのではないか。——そういう不安は、私のような古い銀行屋だけの杞憂でしょうか」
東郷は椅子の背にもたれ、しばし窓外の桜の花弁を追った。桜は、風に吹かれてゆっくり落ちる。落ちた花弁は、見えない水の筋に流れ側溝へ溶けていく。
「影は、光が強いところに濃く落ちます」と静かに言った。
「われわれは光の届く場所に、影をわざと置くこともある。だがそれは、街の影を奪うためではない。影は形を映す。形は、やがて人の習いになる。……狩野さん、街が便利を覚えれば、誰も面倒に戻りません。ならば、その便利の“経路”をだれが握るか、です」
狩野はゆっくり頷いた。
「なるほど。——お見事ですな、中佐。私も合流点を探しましょう」
狩野が退室し、主計中尉が電鍵に戻る。東郷は立ち上がり、清算所を出た。廊下の先、窓から海が小さく見える。アスファルトではない軍港の道が、靄の向こうに薄く延びていた。
夕方の商店街は、朝とは違う匂いがする。揚げ油の甘い香り、焼き鳥の焦げ、桶の水に沈めた胡瓜の青臭さ。幸はラムネの瓶を空にし、ビー玉を眺めながら歩いた。瓶の首のガラスには、店の看板が上下逆さに映っている。
「嬢ちゃん」と声がかかった。飴屋の隣の古本屋の店主が、厚い指で眼鏡の位置を直す。
「その札、今日ずいぶん見たよ。便利なもんだね」
幸は、にこりと笑って、しかし心の中では別の言葉を嚙みしめていた。
(……便利って、人を甘やかすだけじゃなくて……支えてくれるんだ。みんなが笑顔になれるなら、それはもう“習慣”じゃなく、“絆”なんだと思う。……お父さまはきっと、そう信じてる)
そのとき、通りの端で小さな騒ぎが起きた。汗ばんだ中年男が、カードを握りしめて八百屋の女将に食ってかかっている。
「同僚の借りだ、いいだろうが!」
女将は首を横に振る。
「だめだよ、あんたの顔は帳面にない」
幸は一歩前に出かけたが、すぐに足を止めた。
(わたしなんかが出ても、役に立たないかもしれない……でも……女将さんが困ってる顔を見るのは、もっと辛い……)
その一瞬の迷いの後、父の随行が割って入った。幸は胸に手を当てて安堵した。
(……強くならなきゃ。せめて隣で、支えられるように……お父さまは“通貨じゃない”って言う。わたしには難しくて分からないけど……でも、今日ラムネをくれたおばあちゃんの笑顔は本物だった。もしそれが“通貨そのもの”だとしても……わたしは、その笑顔の方を信じたい)
「中佐さん、こういうのはどうしやす」
「すぐ“巡回査閲”を強化する」と随行が答え、東郷は女将に軽く会釈した。
「——慣れるまでの不具合は、こちらが責を負う。店は、いつもどおり商いを」
女将は深く頷いた。
「海軍さんの顔を潰すもんかね。うちも家族、食わせにゃなんない。——便利なら、なおさらね」
日が落ちるにつれ、「NCPC加盟店」の札は白さを増し、提灯の赤い光に縁取られて浮かび上がった。札はどれも同じ書体で書かれているのに、不思議と店ごとに違う表情を持って見えた。洗濯屋の札はせっかち。菓子屋の札は愛想がいい。魚屋の札は潮に濡れている。
翌朝。清算所の電鍵は、昨日よりも早いテンポで鳴った。加盟店の控えが次々と集まり、主計たちは孔の位置の異常を拾い上げ、小さな赤鉛筆で丸をつけ、加盟店へ確認の電信を打つ。
「昨日の清算額」が各店へ通達されると、店の裏口の桶の水が一段冷たくなるような、きりりとした空気が流れた。八百屋の女将は木箱の隅に溜まった土を払いながら、「海軍さんの札は速いねぇ」と独りごちた。
そのころ東郷は汐入の坂を登り、海を見た。港は銅色に沈み、クレーンの影が長く伸び、海面に黒い線を引いている。彼の胸ポケットの内側で、一枚の紙が微かに擦れた。清算所から上がってきた一日の集計。数字の列は冷たく、しかし、その奥に魚の脂の匂いも、ラムネの甘さも、風呂の湯気も、微かに宿しているように見えた。
——制度は、人の世界に降りて初めて血が通う。血が通えば、痛みも伴う。痛みは陰影を作る。陰影は形を浮かび上がらせる。形はやがて、「常識」と呼ばれる。
夜、東郷家の客間。
夕食後の幸は父の机の端に腰かけ、小さな声で今日の買い物の話をした。
「どうだった。街は」
父の問いかけに、幸は少し考えてから答えた。
「みんな、便利だって、喜んでいました。でも……少しだけ、怖い顔をしている人もいました」
「そうか」
東郷はそれ以上、何も聞かなかった。
幸の声は震えていたが、真剣だった。
(お父さま……あなたはきっと、これからもっとたくさんのものを背負うんだろう。
だから、私も強くならなきゃ。小さくても……あなたの力になれるように)
彼女は両手を膝に重ね、姿勢を正した。
「おやすみなさい、お父さま」
「おやすみ」
障子が軽く鳴り、廊下の板が小さく鳴り、春の虫が外でひとつだけ鳴いた。




