銀色の艦隊
時:1930年(昭和五年)、2月
場所:オランダ・ハーグ、ノールデインデ宮殿
オランダの冬は暗く、重い。だが、宮殿の執務室に漂う空気は、外の天気よりも遥かに陰鬱だった。
オランダ女王ウィルヘルミナは、目の前に置かれた報告書を、震える手で握りしめていた。彼女はビジネスに明るく、世界で最も裕福な女性君主の一人として知られていたが、今の彼女の顔には、ただの破産寸前の投資家の恐怖が張り付いていた。
「……配当が、ゼロ?」
女王の声が裏返った。
「はい、陛下」
侍従長が、首を垂れたまま答えた。
「ロイヤル・ダッチ・シェル・グループの株価は、ニューヨークからの空売り攻勢により、先月の十分の一まで暴落しました。
さらに日米市場の喪失による在庫評価損で……今期の配当は、見送られる公算が大です」
ウィルヘルミナ女王は、目眩を覚えた。
王室の維持費、慈善事業への寄付、そして宮殿の暖房費に至るまで、その多くがシェルからの莫大な配当金に依存していた。
本国経済はドイツ恐慌のあおりで死に体。頼みの綱の植民地からの上がりも消えた。
「アメリカ人め……。よくも我々の至宝を、おもちゃにしてくれたものだ」
女王の怒りは、大西洋の向こうの「強欲な成り上がり者」に向けられた。
そこへ首相が謁見を求めて入ってきた。彼の表情は、さらに深刻だった。
「陛下。……事態は一刻を争います。蘭印政府(植民地政府)から、給与の遅配による暴動の懸念が伝えられています」
「金がないのでしょう? どうしろと言うのです」
「……日本です」
首相は、一枚の書簡を差し出した。首相が差し出した書簡には、菊の御紋の透かしが入っていた。
それは日本政府からの親書ではなく、現在ロンドンで開催中の海軍軍縮会議に出席している日本全権団――その実務を取り仕切る某海軍関係者からの「非公式な提案書」だった。
『……米国市場の混乱による貴国の窮状、拝察いたします。
ついては、ロイヤル・ダッチ・シェル・グループが保有する某資産について、その価値を正当に評価し、“即時現金”にて流動性を供給する用意があります……』
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時:1930年(昭和五年)、2月
場所:ロンドン、シェル本社・会長室
アンリ・デターディング会長は、執務室の窓からテムズ川を見下ろしていた。
彼の背中にはスタンダード・オイルによる敵対的買収の刃が突き刺さり、足元には資金枯渇という底なし沼が口を開けている。
プライドも、帝国の威信も、もはや何の役にも立たない。必要なのは、今すぐ支払える「現金」だけだ。
そこへオランダ王室の仲介状を携えた日本海軍の特使――山本五十六少将と山口多聞中佐が、涼しい顔で入ってきた。
「……ミスター・デターディング」
山口は、流暢な英語で切り出した。彼はかつてプリンストン大学に学び、米国の合理性を知る男だった。
「我々日本海軍は、貴社の苦境に深い同情を寄せております。アメリカの強欲な独占資本に、名門企業が食い物にされるのをただ見ているのは忍びない」
デターディングは、皮肉な笑いを漏らした。
「……よく言う。スタンダードの背後で糸を引いているのは、貴君らの『制度債』ではないか」
「まあまあ」山本は軽くかわした。
「今日は商談に来たのです。……我々は、貴社に現金を提供できる数少ない友人でありますよ」
山口は淡々と話し出した。
「我々も、スタンダード・オイルのティーグル社長が増長しすぎるのは好ましくないと考えています。彼が世界の石油を独占すれば、次は我々に高い値をふっかけてくるでしょうからな」
「ならば! 蘭印の石油を買ってくれるのか!?」
「条件があります」
山口が、低く太い声で遮った。
「石油を買うだけでは、貴社は救えない。貴社に必要なのは、今すぐの『巨額の現金』だ。違うか?」
デターディングは黙って頷いた。図星だった。売上が立ったとしても、金が入るのは数ヶ月先だ。それでは明日の手形の決済に間に合わない。
山口は、一枚のリストをテーブルに置いた。
それは、シェルの自慢である最新鋭ディーゼル・タンカー船団のリストだった。
『フォボス(Phobos)級』――複動式エンジンの先駆者。
『メガラ(Megara)級』――過給機付き高速船。
「この17隻、全て我々が買い取りましょう」
山本は、こともなげに言った。
「……何だと?」デターディングは絶句した。
「これらは我々の虎の子だ! 最新鋭のヴェルクスプール・ディーゼルを積んだ、世界最高のタンカーだぞ! これを売れば、シェルの輸送能力は半減する!」
「ですが、会長。
このままスタンダードに買収されれば、この船団ごと全て奪われますよ?」
山本は、冷徹な事実を突きつけた。
「それに、今の貴社にはそれを動かす金がない。
……宝の持ち腐れですな」
山本は、鞄から小切手帳を取り出した。
「条件は3つ」
「一、売却するタンカー17隻のディーゼル機関に関する全技術資料と、予備部品の譲渡。
二、17隻のうち8隻を、そのままシェルがチャーターする形で『蘭印航路』に充当する。今後10年間の石油購入代金を含めて、このチャーター料と船体代金を先払いする。
三、……有事の際、これら日本船籍となったタンカーがどの港に入港しようとも、シェル(および英蘭政府)はこれを拒否せず、便宜を図ること」
デターディングは、条件の「二」でピクリと反応した。
「……10年契約? 日本は蘭印の油は『要らない』と言ったはずだが」
「ええ。平時の民需備蓄としては過剰ですからね」
山口はニヤリとした。
「ですが、将来の……例えば航空戦力の増強を見据えれば、高品質な蘭印原油は先物として確保しておきたい。
我々がこのタンカーを買えば、その船で貴社の石油を軍需用として運び、代金も先に払うと言っているのです。
……どうです? シェルにとっては、不良資産(余剰タンカー)が現金化でき、さらに大口顧客(日本海軍)が戻ってくる。
スタンダードの買収圧力に対抗する『兵糧』が手に入るのではありませんか?」
デターディングは、震える手でリストを握りしめた。
これは救済ではない。略奪だ。
日本はシェルの最新鋭船団を手に入れるだけでなく、その心臓部である「ディーゼル技術」までも吸い上げようとしている。
だが、「条件の二」が悪魔的なまでに魅力的だった。
日本は「船を買う」だけでなく、「その船を使って、蘭印の石油を買い続けてやる」と言っているのだ。
つまり死にかけていた蘭印の油田に、再び血(資金)が通い始める。
「……金額は?」
「市場価格の1.5倍。合計1億ドル。即金で払いましょう」
1億ドル。即金。
この一言が、デターディングの理性を粉砕した。
この金があれば、スタンダードの空売り攻勢を跳ね返し、買収防衛ができるかもしれない。会社を守れるかもしれない。
「……ベネズエラはどうする?」
「諦めなさい」
山本は非情に告げた。
「南米(西半球)は、スタンダードと我々(ガルフ旧権益)で手一杯だ。貴社がそこで戦う体力はもうない。
……ベネズエラの権益はスタンダードに売却して、手切れ金にしなさい。
その代わり、貴社はアジア(蘭印)と中東で生き残る。日本という太客をバックにつけて、な」
それは「帝国の分割」の提案だった。
西はアメリカ(スタンダード)。東は英蘭。
そしてその両方から、日本は資源を吸い上げる。
「……売ろう」
デターディングは、絞り出すように言った。
「背に腹は代えられん。……スタンダードの軍門に下るよりは、日本と組む方がマシだ。
……だが覚えておけ。この船団は『赤い獅子』の誇りだったのだ」
「感謝します。今後は『旭日』の誇りとして、大切に使わせていただきます」
山本は不敵に笑った。
その数週間後。
日本の各軍港には、かつてシェルのマークをつけていた銀色のタンカーたちが、日の丸を掲げて次々と入港してきた。
そしてその機関室では日本の技術者たちが、ヴェルクスプール・エンジンの複動式ピストンと過給機システムを、目を皿のようにしてスケッチし、分解し、学び取っていた。
この技術移転こそが、後に日本海軍の潜水艦や補助艦艇のディーゼル技術を飛躍的に向上させ、太平洋における「足の長さ」を決定づける要因となるのだが、それはまた別の話である。
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【参考資料:1930年時点におけるシェル最新鋭タンカー船団】
(以下、海軍艦政本部調査要約)
1930年時点でシェルの「誇る」最新鋭船団の中核を成していたのは、1926年から1927年にかけて建造された「フォボス(Phobos)」級(Pクラス)と、1929年に登場した「メガラ(Megara)」級(Mクラス)である。
過給機付きの6気筒ヴェルクスプール・エンジンが採用され、巡航速度は13-14ノットに達した。従来の標準的な蒸気タンカーの速度が10-11ノットであったことを考慮すると、これは大幅な輸送効率の向上を意味した。
フォボス(Phobos)級:複動式ディーゼルの先駆者(12隻)
このクラスは、シェルがヴェルクスプール製複動式エンジンの信頼性を世界に知らしめた記念碑的なシリーズである。これらの船舶は、主に貝類の学名(属名)から命名されている。
【フォボス級 12隻のリスト】
MV Phobos: 1926年竣工。ネームシップ。アムステルダムで建造。オランダ領東インド(NIT)船籍。
MV Trocas: 複動式エンジンの先駆として特筆される。
MV Pecten: 1927年、ハーランド&ウルフ(ゴーヴァン)建造。
MV Patella: 1927年、ハーランド&ウルフ建造。
MV Pleiodon
MV Bullmouth: 1927年、ホーソン・レスリー建造。
MV Bulysses: 1927年、ホーソン・レスリー建造。
MV Clam: このグループの中核船の一つ。
MV Elax: 1927年建造。
MV Goldmouth: 1927年建造。
MV Marpessa: 1927年建造。
MV Spondilus: 1927年建造。
MV Telena: 1927年建造。
技術仕様
総トン数: 約7,000 GRT
載貨重量トン(DWT): 約10,600トン
エンジン: ヴェルクスプール式 6気筒 4サイクル 複動式 ディーゼルエンジン
特徴: 従来の単動式エンジンと同等のスペースで高出力を実現。
メガラ(Megara)級: 過給機付き高速タンカー(5隻)
フォボス級の成功を受け、1929年に投入されたのが「メガラ」級である。このクラスは「トリプル・トゥエルブ(Triple Twelve)」とも称され、載貨重量、馬力などのスペックが向上している。
【メガラ級 主要船舶リスト】
MV Megara: 1929年竣工。フランスにて建造。
MV Mirza: 1929年竣工。スワン・ハンター(英国)建造。
MV Miralda: 1929年竣工。スワン・ハンター建造。
MV Macoma: メガラと姉妹船の関係にある。
MV Murex
技術仕様
総トン数: 7,931 GRT
載貨重量トン(DWT): 10,920トン
全長: 128.2m
エンジン: 2基 × 6気筒 ヴェルクスプール 過給機付き ディーゼルエンジン(ツインスクリュー)
巡航速力: 13ノット(当時の標準を上回る高速性能)
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