救済者の顔をして
時:1930年(昭和五年)、2月
場所:ロンドン、リッツ・ホテル(米国代表団宿舎)
ロンドンの朝は、憂鬱な霧と共に訪れた。
国務長官ヘンリー・スティムソンは、冷めたコーヒーを前に、こめかみの血管が破裂しそうなほどの頭痛に耐えていた。
彼の目の前には、朝食のトーストよりも先に、一人の男が座っていた。
トーマス・ラモント。JPモルガン商会の代表であり、ウォール街の意志を体現する男。彼は極上のスマイルを浮かべながら、一枚のメモを差し出している。
「……ヘンリー。素晴らしいニュースだ。
スタンダード・オイルによるロイヤル・ダッチ・シェルの公開買い付け(TOB)、いよいよ王手だ。市場は熱狂しているよ」
「……トーム(トーマス)。君たちは、ここがどこだか分かっているのか?」
スティムソンは、絞り出すように言った。
「ここは軍縮会議の場だ! 米英日、そしてオランダも含めた列強が、平和のために話し合っているんだぞ!
その最中に、アメリカの企業がオランダとイギリスの国策企業を乗っ取ろうとする? これは外交的な自殺行為だ!」
「いいや、違うね」ラモントは、トーストにバターを塗りながら軽やかに否定した。
「これは『ビジネス』だ。そして『自由貿易』だ。
シェルは経営危機にある。それをスタンダードが救済し、より効率的な経営を行う。……資本主義の鑑じゃないか。
もし君がこれを止めるというなら……ウォール街はどう反応するかな?
ただでさえ不安定な株価が、政府の『不当な介入』で大暴落したら、君はフーヴァー大統領にどう説明するんだ?」
スティムソンは絶句した。
脅迫だ。
「スタンダードにシェルを食わせろ。さもなくばアメリカ経済を道連れにするぞ」という。
しかもラモントは続ける。
「それにね、ヘンリー。これは国益にも叶う。
イギリスとオランダが独占していたアジアや南米の石油利権が、アメリカ企業のものになるんだ。
君が常々言っていた『門戸開放』が、民間の力で実現するんだよ」
詭弁だ。
スタンダードが勝てば、門戸が開くのではない。看板が「英蘭」から「米」に掛け替わるだけだ。しかもその裏には「日本の資金」が流れている。
その時、ドアが激しくノックされた。
返事を待たずに飛び込んできたのは、オランダ外相ベールエルツと、イギリス外相ヘンダーソンだった。二人の顔は、ラモントの笑顔とは対照的に、怒りで真紅に染まっていた。
「ミスター・スティムソン!!」
オランダ外相が叫んだ。外交儀礼など吹き飛んでいた。
「説明していただきたい!
貴国のスタンダード・オイルが、我が国のシェルに対し、破壊的な空売りと破廉恥な買収を仕掛けている件についてだ!
貴国は我々を友好国だと言ったな!? だがやっていることは、海賊以下だ!」
イギリス外相ヘンダーソンも、氷のように冷たい声で続いた。
「アメリカ政府はこの買収を黙認するのかね?
もしシェルがアメリカ資本になれば、ロイヤルネイビーの燃料供給は不安定になる。
……はっきり言おう。もしスタンダードを止めないなら、我々は今回の軍縮条約において、アメリカのいかなる提案にも同意しない」
スティムソンは左右を見回した。
右には、「止めれば経済が死ぬぞ」と脅すアメリカ資本主義の権化。
左には、「止めなきゃ会議は決裂だ」と迫る外交の盟友たち。
板挟みだ。地獄だ。
「……ま、待ってくれ。
これは民間企業の活動で……政府には法的な権限が……」
スティムソンが苦しい言い訳を口にした瞬間、オランダ外相が机を叩いた。
「民間だと!?
スタンダードが使っている資金の出どころを知らんとは言わせんぞ!
日本だ! 日本海軍の『制度債』で儲けたアブク銭と、日本からの石油購入の前払い金だ!
貴国は日本から金をもらい、その金で我々を殴っているのだ!
……これを『裏切り』と言わずして、何と言うのだ!」
スティムソンは崩れ落ちそうになった。
(……東郷)
彼の脳裏に、あの日本大使館の執務室に座る微笑をたたえた男の顔が浮かんだ。
東郷一成は、今回何もしなかった。
ただアメリカ企業に「儲かる機会」を与え、アメリカ政府に「手を出せない法制度(最高裁判決)」を作らせただけだ。
その結果勝手に同盟国を殴りつけ、勝手に孤立していく。
「……私は」
スティムソンは呻いた。
「私は国務長官だ……。ウォール街の掃除人じゃない……」
だが、ラモントはコーヒーを飲み干して立ち上がった。
「じゃあ、頼んだよヘンリー。政府は『静観』だ。それが自由の国のルールだ」
オランダとイギリスの大臣たちが、蔑みの視線をスティムソンに向けたまま、無言で部屋を出ていく。
残されたのは冷え切ったトーストと、完全に信頼を失ったアメリカ外交の死骸だけだった。
⸻
時:1930年(昭和五年)、2月
場所:東京・霞が関、外務大臣執務室(総理大臣官邸内)
その部屋には、外交官特有の洗練された香水や紅茶の香りはなかった。あるのは最高級の葉巻の煙と、軍人が放つ無骨な革の匂いだけだった。
内閣総理大臣兼外務大臣、田中義一男爵は、ロンドンから届いた電報の束を、まるで作戦地図を見るように広げていた。
「……おい、森。見たか」
田中は、愉快そうに鼻を鳴らした。
「ロンドンのマクドナルド首相も、オランダの女王陛下も、顔面蒼白だそうだ。
『金がない』……。
かつて七つの海を支配した大英帝国が、まるで補給線を断たれた旅順要塞のようではないか」
傍らに控える森恪外務次官も、獰猛な笑みを浮かべた。彼は田中外交の推進役であり、強硬な自立外交論者だ。
「ええ、閣下。
幣原(前外相)がいれば『英米との協調が第一』などと寝言を言って、八方美人に走ったでしょうな。
ですが、今の外務省の主は閣下です」
田中は、万年筆を指で回した。
彼は経済の専門家ではない。だが、軍人として「補給の途絶えた敵」がどうなるかは、骨の髄まで知っている。
「東郷の小僧が作った状況は、要するに『包囲戦』だ。
イギリスは今、喉が渇いている。
そこに、我々だけが水筒を持っている」
田中は一枚の白紙を取り出し、ロンドンへの訓令を書きなぐった。
それは外交文書というより、前線司令官への「突撃命令」に近かった。
「若槻(全権)に打電せよ。
『イギリスの窮状に、同情の要なし』
『彼らがカネを欲しがるなら、対価を払わせろ』と」
⸻
時:1930年(昭和五年)、2月
場所:ロンドン、サヴォイ・ホテル。日本全権団控え室
ロンドンの霧に包まれたサヴォイ・ホテルのスイートルームは、表の会議場の喧騒とは無縁の、不気味なほどの静けさに支配されていた。
だがその空気は重いものではなく、まるで獲物を追い詰めた猟犬たちが、最後の噛みつき時を見極めているような、張り詰めた殺気に満ちていた。
ソファには首席全権・若槻禮次郎。普段は柔和なこの政治家の顔から、今は「リベラル」の仮面が剥がれ落ちていた。
彼は本国の田中首相から届いたばかりの、「突撃命令」とも取れる強硬な訓令電報を、じっと見つめていた。
『……英国ノ窮状、我ニ有利ナリ。断ジテ安請ケ合イスルナカレ。相手ガ血ヲ流ス程ニ、我ラノ要求ヲ飲マセヨ』
「……総理もお人が悪い」若槻は苦笑した。「相手が溺れているところに、浮き輪の値段を吊り上げろと言うのだから」
「溺れているのではありませんよ、若槻全権」
窓辺で、テムズ川の霧を眺めていた男が振り返った。
海軍軍事参議官として随行していた山本五十六少将だ。
彼の顔には、この場の誰よりも生き生きとした、勝負師特有の笑みが浮かんでいた。
「彼らは今、サメ(アメリカ)に噛まれて足を失おうとしているのです」
テーブルの上には、シティ(金融街)からかき集められた最新の市場レポートがあった。
ロイヤル・ダッチ・シェル株、今日もストップ安。
モルガンとスタンダード・オイルの連合軍による空売り攻勢は、止まるところを知らない。
山本は、地図の上に赤い駒を置いた。
「アメリカ資本はシェルを殺して、その死体(資源と市場)を奪おうとしている。
イギリス政府には、それを止めるカネがない。
……彼らは今、喉から手が出るほど『即金』を欲しがっています」
山本は懐から一枚のリストを取り出した。東郷一成から送られてきた、シェルの資産目録だ。
「そこで我々が出向くのです。救済者の顔をして」
山本は、悪戯っぽく言った。
「ただし、救済するのはシェルの『全て』ではない。我々にとって美味しいところ……すなわち『最新鋭タンカー』と『ディーゼル技術』だけをつまみ食いする」
若槻は眉をひそめた。
「……しかし山本君。相手は誇り高きジョン・ブル(英国人)だ。
自国の財産を、極東の海軍に切り売りするなどという屈辱的な取引に応じるかな?」
「応じますとも」
山本は断言した。
「彼らが一番恐れているのは、船を売ることではありません。
『燃料を握られること』です。
スタンダード・オイルに買収されれば、イギリス海軍はアメリカの機嫌を損ねるたびに、艦隊が動かせなくなる。
……それに比べれば、日本に船を数隻売って、その金で会社を存続させる方が、よほどマシな『痛み』だとは思いませんか?」
山本はスーツのポケットから手袋を取り出し、ゆっくりと嵌めた。
「毒(アメリカ資本)を飲んで死ぬか。
腕を切り落として生き延びるか。
……我々はその執刀医になりに行くのです」
「……良かろう」
若槻は頷いた。
「行ってきたまえ。政治の責任は私が取る。
ただし……スティムソン国務長官が発狂しない程度に、上手くやってくれよ」
「ご心配なく。……スティムソンには『民間取引への不干渉』という、彼ら自身の言葉をお返しするだけですから。いくぞ、山口君」
山本は敬礼を残し、随員の山口多聞とともに部屋を出た。
その足取りは軽く、これから歴史的な買い物に行くとは思えないほどだった。
廊下で待機していた通訳官と法務官が、緊張した面持ちで後に続く。
彼らが向かうのは、シェル本社ビル。
(レイズ……と言ったところだな)
ロンドンの霧の中へ、山本五十六の乗った車が消えていく。
それは大英帝国の没落と、日本の台頭が交錯する、静かなる転換点であった。
いつもお読みいただきありがとうございます。
もし少しでも「面白い」「続きが気になる」と思っていただけましたら、ブックマークや感想、ページ下の【★★★★★】で評価をいただけますと、執筆の大きな励みになります。




