飢えた獅子たちの宴
時:1930年(昭和五年)、1月末
場所:ニューヨーク、ウォール街23番地 JPモルガン・ライブラリー
大理石の暖炉の前で、トーマス・ラモントは最高級のブランデーを揺らしながら、目の前の男に微笑みかけた。
スタンダード・オイル・ニュージャージーの社長、ウォルター・C・ティーグルである。
外では雪が降っていた。失業者が溢れ、中小の銀行が毎日潰れていく「大不況」の只中である。
だが、この部屋だけは異様な熱気に満ちていた。
「……率直に言おう、ウォルター」
ラモントは、身を乗り出した。
「我々銀行団のバランスシートは、おかげさまでピカピカだ。資産の欄には『日本海軍長期債(AAA格付け)』が山のように積まれている。倒産の心配はない」
「それは重畳」ティーグルは皮肉な笑みを返した。
「だがな、ウォルター。銀行という生き物は『資産』を持っているだけでは死ぬんだよ。金は血液だ。回さなければ腐る。
FRBの馬鹿げた利上げ(6.5%!)のせいで、まともな企業への融資は全部止まった。手数料収入が干上がっているんだ」
ラモントは、両手を広げた。
「我々は飢えている。何かデカい仕事が欲しい。
……金はある。日本人がばら撒いてくれたドルと、日本人が保証してくれている信用が唸るほどあるんだ。
この『弾薬』を使って、何かド派手な戦争をしたくはないか?」
ティーグルはポケットから葉巻を取り出し、ゆっくりと火をつけた。紫煙の向こうで、彼の目は捕食者の色を帯びていた。
「……戦争、か。奇遇だなトム。
実は、気に食わない同業者がいてね」
ティーグルは一枚の書類をテーブルに置いた。
そこには、ロンドンに本拠を置く巨大企業の財務分析レポートがあった。
『ロイヤル・ダッチ・シェル:第4四半期、収益85%減。資金ショートの危機』
「シェルだ」ティーグルは言った。
「日本海軍がアジア市場から彼らを閉め出し、彼らの『NCPC経済圏』で石油を回し始めたおかげで、シェルは窒息寸前だ。株価は暴落している」
「……アクナキャリー協定は?」ラモントが形式的に問うた。「たしか一昨年、仲良く市場を分け合おうと握手したばかりだろう?」
「死んだよ、あんなものは」
ティーグルは笑い飛ばした。
「あれは『皆が貧しい時』の不可侵条約だ。
だが今、我々(スタンダード)には日本という金づるがいて、NCPC債のアービトラージで得た隠し資産がある。対してシェルは文無しだ。
……弱った獲物が目の前で倒れているのに、協定を守って餓死するライオンがいるかね?」
ラモントの脳内で歯車が回転し始めた。
シェルへの敵対的買収(TOB)、あるいは空売りによる徹底的な破壊工作。
動く金は最低数億ドル。手数料だけで数千万ドルが転がり込む。
「……問題は政府だ」
ラモントは慎重に言った。
「独占禁止法(シャーマン法)が立ちはだかる。国内シェアの独占は、世論が許さんぞ」
「心配無用だ」
ティーグルは自信満々に言った。
「買うのはシェルの『アメリカ法人』じゃない。『アジアと南米の資産』だ。
司法省にはこう言うさ。
『これは独占ではない。外国資本に支配されている資源を、アメリカ資本の下に取り戻す“愛国的な買収”だ』とな」
ラモントは、ブランデーを一気に飲み干した。
そこにあるのは、生き残るための論理だけ。
「……乗った」ラモントは手を差し出した。
「やろう、ウォルター。史上最大の乗っ取り劇だ。
ロンドンの紳士たちが、紅茶を吹く顔が見ものだな」
彼の狙いは明確だった。
シェルを株価暴落で追い込み、二束三文になったところで敵対的買収(TOB)を仕掛ける。
そしてシェルが持つ「蘭印・ベネズエラの油田」と「世界最大のタンカー艦隊」を、スタンダード・オイルが丸呑みするのだ。
そうすれば、世界の石油市場はスタンダードの独占となる。
日本海軍に対しても今はへつらっているが、独占さえしてしまえばこっちのものだ。
「油が欲しければ、俺の言い値で買え」と言えるようになる。
「……東郷大佐。貴方がくれた資金で、貴方の首輪を作る準備をさせてもらうよ」
ティーグルの野望は、大西洋を越えて牙を剥いた。
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時:1930年(昭和五年)、2月
場所:ワシントンD.C. 司法省・長官室
その日、ウィリアム・ミッチェル司法長官の元には二人の男が訪れていた。
財務長官アンドリュー・メロンと、スタンダード・オイルの法務担当副社長だ。
司法長官は提出された書類を見て、苦虫を噛み潰したような顔をしていた。
『ロイヤル・ダッチ・シェル(南米およびアジア部門)買収計画承認申請書』
「……正気かね、メロン長官」
ミッチェルは書類を弾いた。
「スタンダード・オイルが、最大のライバルであるシェルを飲み込む?
これは明白な『シャーマン反トラスト法』違反だ。1911年の解体判決を白紙に戻すようなものだぞ。
ロックフェラーの帝国を復活させる気か?」
メロンは疲れ切った目で答えた。
「……ウィリアム。今、この国で法人税をまともに払えている企業が、いくつあると思う?」
「……え?」
「ゼロに近い。唯一の例外が、スタンダード・オイルだ」
メロンは財務省の歳入データを指し示した。
「彼らは日本海軍との『NCPCアービトラージ』と、石油取引で莫大なドルを稼いでいる。
彼らからの税収がなければ、来月の連邦職員の給料は払えない。
……彼らは今や、この国の『乳牛』なのだ。殺すわけにはいかん」
スタンダードの副社長が、すかさず補足した。
「それに長官。この買収は『銀行救済』でもあります。
シェルにお金を貸していたシティバンクやチェース銀行は、シェルの経営危機で共倒れ寸前です。
我々がシェルを買収し、その代金としてキャッシュ(ドル)を銀行団に支払うことで、金融システムに輸血を行うのです。
……これを止めれば、また銀行が潰れますよ?」
「税金」と「金融システム」。
この二つの人質を取られては、司法省も沈黙せざるを得なかった。
「……だが、独占の懸念は?」
「ご安心を」副社長は一枚の地図を広げた。
「我々が買うのは『海外資産』だけです。国内のガソリンスタンド網は買いません。ですから国内法には触れません。
それに……もし我々が買わなければ、誰が買うと思います?」
彼はチラリと財務長官を見てから、地図の太平洋の向こう側を指差した。
「日本です。
すでに彼らは、ガルフのベネズエラ権益と、スリナムのボーキサイトを持って行きました。
この上、シェルの蘭印の油田まで日本に取られたら……西半球とアジアのエネルギーは、完全に日本の独占となります」
「……つまり」ミッチェルは唸った。
「君たちは、日本の魔手から資源を守る防波堤になると?」
「その通りです。これはビジネスではありません。愛国的な防衛措置です」
「……分かった」
司法長官は承認印を押した。
「特例だ。……国家安全保障と財政維持のための、苦渋の決断だ」
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時:1930年(昭和五年)、2月
場所:ロンドン、ロンドン証券取引所
その日のロンドンは、いつも以上に陰鬱な霧に包まれていた。
だが、シティの紳士たちを震え上がらせたのは寒さではない。大西洋の向こう側、ニューヨークから届いた「宣戦布告なき奇襲」だった。
午前中の取引開始直後、ロイヤル・ダッチ・シェルの株価が、何の前触れもなく垂直落下を始めたのだ。通常の暴落ではない。何者かが意図的に、そして無制限に売り浴びせている。
「……何が起きている!? 原油安は織り込み済みのはずだ!」
ブローカーが悲鳴を上げる。
そこに冷徹な情報が駆け巡った。
「噂だ! 『シェルは蘭印での油井を閉鎖した』らしいぞ!」
「『日本海軍がシェルの資産差し押さえを検討中』だそうだ!」
スタンダード・オイルが流した精巧なデマが、恐怖を加速させた。
機関投資家たちは追証に耐えきれず、投げ売りに走った。
世界中に広がるシェルの巨大な帝国が、血液(資金)を止められ壊死を始めた。
それはただの株価操作ではなかった。
金融と実業が一体となった、完全なる「殲滅戦」だった。
株価は垂直に落下した。
£5……£4……£3。
半値になっても止まらない。
ブローカーたちは叫んだ。
「買い手がいない! 誰か買ってくれ!」
「アムステルダム(ロイヤル・ダッチ本社)からの連絡は?」
「ダメだ! 向こうもパニックだ! 誰も電話に出ない!」
その混乱の最中、一人の老練なブローカーが震える手で電信室からの一報を読み上げていた。
「……ニューヨークだ。ウォール街からの空売りだ。
規模は……推定2億ドル。
レバレッジがかかっている。JPモルガンがバックについているぞ!」
フロアに絶望が走った。
2億ドル。
大恐慌で資金が枯渇している今のロンドン市場に、それに対抗できる買い手など存在しない。
これは投機ではない。処刑だ。
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時:同日
場所:ロンドン、シェル本社
「石油のナポレオン」アンリ・デターディングは、受話器を壁に叩きつけて粉砕した。
彼の顔は怒りで赤黒く変色し、額には青筋が浮き上がっている。
「……ティーグルめ! ウォルター・ティーグルめッ!!
アクナキャリーで杯を交わした仲だろうが! それを、貴様……!」
女秘書が震える声で報告を読み上げる。
「会長……ニューヨークからの通信です。スタンダード側はこう主張しています。
『これは敵対的行為ではない。経営危機に陥った友好的企業の資産を、アメリカ資本が保護するための“救済合併”の提案である』と……」
「救済だと!? 強盗だ!!」
デターディングは、窓の外を睨んだ。
日本市場とアメリカ市場を締め出され窒息寸前だったところへ、今度はアメリカの同業者が「介錯」しに来たのだ。
秘書が涙声で報告する。
「会長……資金繰りが持ちません。
日本・アメリカ向けの輸出が止まったせいで、蘭印の倉庫は在庫で溢れています。保管料だけで毎日数千ポンドが消えていきます。
銀行団は追加融資を拒否しました。『担保価値がない』と……」
「担保価値がないだと!?」
デターディングは激昂した。
「我々には世界最大の油田がある! 最強のタンカー船団がある! それが価値がないと言うのか!」
「……ですが、売れません」
秘書は残酷な事実を告げた。
「アメリカは不況で買いません。日本は南米から買っています。
油は燃やせば金になりますが、タンクの中で腐っているうちは、ただの可燃性廃棄物です」
デターディングは、膝から崩れ落ちた。
もしスタンダードがシェルの筆頭株主になれば、蘭印の石油はすべてアメリカのものになる。大英帝国の艦隊は、燃料をアメリカ企業に握られることになる。
「……政府だ! 政府に連絡しろ!
これは国家の安全保障に関わる問題だ! 敵対的買収を阻止させろ!」
⸻
時:同日
場所:ロンドン、ダウニング街10番地
ラムゼイ・マクドナルド英国首相は、頭を抱えていた。
目の前には、海軍大臣と大蔵大臣が口角泡を飛ばして叫んでいる。
「首相! スタンダードの買収を認めてはなりません! シェルは帝国の心臓です!」
「ですが大臣、止める金がありません! 金庫は空です!」
イギリス政府はジレンマに陥っていた。
スタンダードの買収を阻止するには、対抗してシェル株を買い支えるか、あるいは法律で強制的に買収を止めるしかない。
だが、買い支える金はない。
法で止めれば、「自由市場の終焉」を宣言することになり、シティ(金融街)からの資本逃避が決定的になる。
オランダ政府に至っては、もっと悲惨だった。
「シェルがアメリカに買収されたら、蘭印は実質的にアメリカ領になる」とパニックになり、かといって金本位制のせいで救済資金も出せず、ただ「遺憾である」と叫ぶことしかできなかった。
欧州の混乱は極まっていた。
誰もが「助けてくれ」と叫んでいるが、誰も助ける力を持っていない。
孤立無援。
かつて「国家を超える力を持つ」と言われた石油メジャーの巨人が、為す術もなく解体されようとしていた。
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