安かろう、悪かろう、だが楽だろう
時:1930年(昭和五年)、2月
場所:ワシントンD.C. 日本大使館
駐米オランダ大使、ヴァン・ロイエンの顔色は、ハーグの冬空のように鉛色だった。ここは抗議の場であり、同時に懇願の場でもあった。
彼の目の前で、東郷一成は優雅に紅茶(もちろんオランダ領産ではない)を楽しんでいる。
「……東郷大佐。話が違うではありませんか」
大使の声が震えた。
「貴国は、我が蘭領東インド(インドネシア)の石油を、長期契約で買い取ると言っていたはずだ。
それが、急に交渉中断とはどういうことですか!」
東郷は、カップを置いて微笑んだ。
「ああ、その件ですか。
……実は、少し事情が変わりましてね。
先日、ガルフ・オイル社からベネズエラ(とクウェート)の権益を譲り受けまして。さらにスタンダード社ともペルーの原油の優先供給契約を結びました」
東郷は、わざとらしく困った顔をした。
「いやあ、ガルフのメロンさんが『どうしても現金が欲しい、安くするから買ってくれ』と泣きついてくるものですから。
計算してみたら、貴国の石油よりも3割も安い。
……大使。我々も商売です。安い方を買うのは当然でしょう?」
ロイエンは絶句した。
3割安い? そんな馬鹿な。それは原価割れだ。メロン財閥が自爆覚悟で投げ売りした価格だ。
だがその「投げ売り価格」が、今や世界のスタンダード(市場価格)になってしまったのだ。
「し、しかし! シェルはすでに増産体制に入っています!
今さらキャンセルされたら、在庫でタンクが破裂します! 労働者の給料も払えません!」
「いらない(We don't need you)」。
その言葉は、銃弾よりも深くオランダの心臓をえぐった。
ロイエン大使は、震える声で抗議した。
「貴国は長年、我が領東インドの石油を安定して購入してくれていた。それが突然契約を更新せず、船も寄越さないとは。……我が国の経済に対する、意図的な攻撃と受け取らざるを得ませんぞ」
東郷は淹れたての紅茶を一口すすり、どこまでも冷ややかに答えた。
「攻撃? 誤解ですな、大使」
東郷は、一枚の書類を指先で弾いた。
日本の海運会社からの報告書だ。
「ご覧の通り、チリの硝石、ペルーの銅、そしてベネズエラの石油……。南米から運ぶべき資源があまりにも多すぎて、残念ながら、蘭印まで船を回す余裕がないのです」
「……船が、足りない?」
ロイエン大使は、その言葉を噛み砕くように繰り返した。
「それは……それは貴国の事情でしょう! だからといって、我が国の石油産業を――」
「お気持ちは分かります」
東郷は穏やかに頷いた。その声音には、同情すら滲んでいる。
「しかし大使。これは政治ではなく、物流の問題です」
彼は机の上に、もう一枚別の資料を置いた。
そこには、日本籍タンカーの就航状況が細かく記されていた。
「現在、日本の外航タンカーのほぼ全てが、南米航路に張り付いています。
ご存知の通り、南米西岸から日本へは片道で一か月以上かかる。往復すれば二か月です」
東郷は、ペンで航路をなぞった。
「一方、蘭印航路は確かに近い。ですが――」
彼はペンを止め、ロイエン大使を見た。
そして、決定的な一言。
「現時点では、蘭印の油は“運ぶ船が物理的にない”のです」
「な、ならば!」シェルの代表が叫んだ。
「我々のタンカーで運びます! シェルの船団を使って、日本まで……」
「おや、運賃が高くつきますな」
東郷は、にっこりと笑った。
「我々は今、自前の油田から、自前の船で、原価で石油を調達しています。
そこへ貴社の高い運賃が上乗せされた石油を買う理由が、どこにありますか? 経済合理性に欠けます」
正論だった。あまりにも残酷な正論。
「自分の畑で野菜が取れるのに、なぜスーパーで高い野菜を買わなきゃいけないんだ?」と言われているのと同じだ。
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時:1930年(昭和五年)、春
場所:福岡県・門司港 出光商会・本店
関門海峡を渡る風は冷たかったが、出光商会店主・出光佐三の胸のうちは、溶鉱炉のように煮えたぎっていた。
彼は店先の桟橋に立ち、対岸の下関にあるライジングサン石油(シェル日本法人)の巨大な貯油タンクを見上げていた。
かつて、そのタンクは絶望の象徴だった。
世界を牛耳る石油メジャーの威圧的な塔。彼らが蛇口を閉めれば、日本の漁船も工場も止まる。価格は彼らが決める。出光のような地場の販売業者は、彼らに頭を下げて油を分けてもらうしかない「奴隷」だった。
だが今、そのタンクは静まり返っている。
入港するタンカーがないのだ。
代わりに門司港に入ってくるのは、三菱や海軍のチャーター船ばかり。
弟の計助が、興奮して駆け寄ってきた。
「兄貴! 見ましたか、日石(日本石油)が配っている新しい卸値表を!
『東郷ブレンド(南米産)』の軽油、今までのシェルの半値ですよ! 半値!」
「……ああ、見たとも」
佐三はニヤリと笑った。その笑顔は商売人のそれというより、戦に勝った海賊の顔だった。
「シェルが死んだな。あの高慢ちきなイギリスとオランダの貴族どもが、音を上げて逃げ出しおったわ!」
佐三は、かつて自分が扱っていたエンジンオイルを思い出した。
メジャーの連中は言った。「品質が違う」「ブランドだ」と。だが佐三は知っていた。漁師が必要としているのは、高級なブランドではない。明日、船を出すための、安くて燃える油なのだと。
そして今、東京の海軍(東郷一成)がやっていることは、まさに佐三の信念そのものだった。
「計助、海軍の担当者が言った言葉、聞いたか?」
「はあ。『蘭印の高級な油など、勿体無くて使えん』と断ったそうですが……」
「傑作じゃないか!」
佐三は膝を叩いて大笑いした。
「それだよ! それこそが『消費者の理屈』だ!
焼玉エンジンのポンポン船に、航空機用のガソリンを飲ませる馬鹿がいるか! 海軍さんは、現場が本当に欲しいものを、泥にまみれて探してきたんだ。
……南米のドロドロの油? 結構!
精製がいい加減? 上等だ!
安かろう、悪かろう、だが楽だろう!」
佐三は、海峡を行き交う漁船団を見つめた。
彼らのエンジン音は、今までよりも軽快に響いている。燃料費が下がったおかげで、思う存分海に出られるからだ。
「兄貴、うちも日石からその『東郷ブレンド』を仕入れて……」
「馬鹿もん!」
佐三は一喝した。
「仕入れるんじゃない。……『貰いに行く』んだ」
「え?」
佐三は、海軍省からの極秘の通達書を懐から取り出した。
そこには、海軍燃料の民間払い下げに関する公募が記されていた。
「海軍は南米から大量の油を持ってきたが、それを末端まで配る手足が足りん。
日石は大企業だ。大口の工場や都市部は得意だろうが、辺鄙な漁村や開拓地まで手が回らん。
……そこは、俺たちの独壇場だ」
佐三の目が鋭く光った。
「海軍に行け。『出光は、NCPC債でも現物でも何でも扱う。海軍さんが持て余している油があれば、一滴残らず俺たちが、必要な人間の元へ届けてやる』と伝えろ!
東郷大佐という御仁は、形式やブランドにはこだわらんはずだ。『実利』を持ってくる奴と手を組む!」
佐三は海軍の輸送船に向かって、敬礼にも似た仕草で手を振った。
「……面白い時代になった。
イギリス人に頭を下げなくていい。アメリカ人の顔色を窺わなくていい。
日本人が、日本人のために、油を運べる時代が来たんだ!
東郷大佐、あんたはとんだ大海賊だよ。
俺たち商人は、あんたが切り開いた航路の後ろをついていくだけで、蔵が建つわ!」
1930年の春から、出光商会は猛烈な勢いで大陸、そして南米へと進出した。
彼らが運ぶのは、かつてメジャーに独占されていた高価な「灯」ではない。
日本海軍が奪い取ってきた、安くて、粗野で、しかし熱い「日本の火」だった。
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時:同日
場所:東京・丸の内、三菱商事・燃料部
その日、三菱商事の燃料部フロアは、まるで戦場のような騒がしさだった。
だが、それは悲鳴ではない。特需に沸く、商売人たちの熱狂だった。
「おい、次のタンカー『第三小倉丸』の手配はどうなってる!」
「ペルーのタララ港で満載して、来月横浜に入ります! 現地の精製施設も拡張工事に着手したとの電報が入りました!」
課長のデスクには、南米行きの船便予約リストが山と積まれている。
三菱、三井、日本石油……日本の商社マンたちは、雪崩を打って地球の裏側、南米へと飛んでいた。
彼らが手にしているのは、ドル札ではない。海軍発行の「任務証明書(NCPC債の発行権)」だ。
彼らにとって、南米の石油は「実質タダ(外貨を使わずに手に入る)」の打ち出の小槌だった。
そこへ、一人の来客があった。
「ライジングサン石油(シェルの日本法人)」の営業部長、オランダ人のファン・デル・ポールだ。彼は焦っていた。
「……三菱さん。我が社の『ボルネオ産・特級軽質油』はいかがですか。
航空ガソリンにも使える、最高品質の油です。
今なら特別価格、ドル払いでもポンド払いでも、相談に応じますよ!」
三菱の課長は、申し訳なさそうに(しかし目は笑いながら)お茶を出した。
「いやあ、ミスター・ファン・デル・ポール。いつもお世話になっております。
ですがね……その、正直に言わせていただくと」
課長は、窓の外を走る円タク(T型フォードを使ったタクシー)や、乗合バスを指さした。
「見てください、あの車たちを。
日本の街を走っているのは、大半がアメリカ製の旧式エンジンを積んだ車です。
圧縮比は低い。オクタン価なんて50か60あれば十分動くんですよ。焼玉エンジンの漁船なんて、燃えれば何でもいいんです」
彼は、机上のペルー産原油のサンプル(NCPC債で購入)をポンと叩いた。
「我々が南米から仕入れているこのガソリン。……ハッキリ言えば、御社のボルネオ産より質は落ちます。硫黄も少し多い。
ですが、日本の民需にはこれで『十分』なんです。
何より……こっちは『NCPC債』で決済できますから、貴重な正貨(外貨)を使わずに済む。為替リスクもゼロだ」
課長は、オランダ人営業マンにトドメの一言を放った。
「御社の油は、素晴らしすぎます。いわば『銀座の高級寿司』だ。
我々庶民が毎日食べたいのは、海軍さんの食堂で出る『牛丼(南米石油)』なんですよ。
……わざわざ外貨(金)を払ってまで、タクシーに高級ガソリンを飲ませる余裕は、今の日本にはありませんな」
ファン・デル・ポールは肩を落とし、すごすごと帰っていった。
彼の背中には、「高品質・高価格」という戦略が、「適正品質・決済革命(NCPC)」の前に敗れ去った哀愁が漂っていた。
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時:数日後
場所:ペルー・リマ、カヤオ港
南半球の太陽の下、ペルー最大の港は、見たこともない数の日本人でごった返していた。
三菱商事、三井物産、日本綿花……。
日本の商社マンたちが、背広の上着を脱ぎ捨て、汗だくになりながら原油の積み出しを指揮している。
「おい! タララからのパイプラインの詰まり、まだ直らないのか! タンカーが待ってるんだぞ!」
「リマの日本人移民を呼んでこい! 人足が足りん!」
「あちらでは現地のペルー人が『NCPC債』を持って行列を作ってるぞ! 自転車とミシンを早く降ろせ! 飛ぶように売れるぞ!」
彼らにとって、ここは日本版ゴールドラッシュだった。
東郷が金融と政治でこじ開けた「裏庭」に、日本の商社という実動部隊が、雪崩れ込んだのだ。
三菱商事の支店長は、現地政府の役人と肩を組んで笑っていた。
「アミーゴ! 心配するな。石油だけじゃない。アンデスのアルパカも、亜鉛も、全部買う!
日本の軍艦と商船が、ピストン輸送で運んでいく!
その代わり、この港の倉庫は我々が使わせてもらうぞ!」
役人は真新しいNCPC債を胸ポケットにしまい込み、満面の笑みで頷いた。
「シィ、セニョール! アメリカ人はいつもしかめっ面で借金の催促に来たが、あなた方は買い物リストを持ってきてくれる!
……ビバ・ハポン!」
地球の裏側で、「日の丸石油ロード」が爆発的な勢いで構築されていた。
その光景は、ワシントンの東郷一成が描いた設計図が、商魂たくましい日本のビジネスマンたちによって、極彩色の現実へと塗り替えられた姿だった。
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