売れ残りのチューリップ
時:1930年(昭和五年)、2月
場所:オランダ・ハーグ、首相官邸
その部屋には、雨に濡れたチューリップのような、湿っぽく陰鬱な空気が漂っていた。
首相のルイス・デ・ベーレンブルックは、植民地大臣からの報告を聞きながら、何度も眼鏡を拭っていた。曇っているのは眼鏡ではなく、オランダ王国の未来そのものだったからだ。
「……つまり、日本は『要らない』と言ったのか?」
首相の声が裏返った。
「はい、閣下」
植民地大臣は、悔しげに唇を噛んだ。
「駐日大使が、蘭印の石油とボーキサイトの長期契約を打診しましたが、日本海軍の担当者はにこやかにこう答えたそうです。
『ご配慮感謝します。慎重に審査いたしました結果、誠に残念ながら今回はご希望に添えない結果となりました。必要になれば、こちらからご連絡します……今後ますますのご健勝、ご活躍を心よりお祈り申し上げます。』と」
「……馬鹿な」
首相は椅子に崩れ落ちた。
オランダ経済は今、瀬戸際にあった。
隣国ドイツは大恐慌で死に体となり、オランダの農産物や工業製品を買ってくれない。
頼みの綱は、植民地(蘭印)の資源輸出による外貨獲得だけだった。その最大のお得意様は日本のはずだった。
日本は「持たざる国」だ。喉から手が出るほど蘭印の資源を欲しがり、足元を見ればいくらでも高く売りつけられる――それがオランダの基本戦略だったはずだ。
「……スリナムだと?」首相が呻いた。
「スリナムは、我が国の植民地(オランダ領ギアナ)ではないか! なぜ日本がそこの権利を持っている!」
「アメリカのアルコア社が持っていた採掘権を、日本が買い取ったからです。……我々の頭越しに、キャッシュ(ドル)で」
なんという屈辱か。
自国の植民地から出る資源が、アメリカ企業を経由して日本に渡り、その金はアメリカに落ちる。オランダ本国には一銭も入らない。
そして日本は「もう満腹です」と言って、蘭印の資源に見向きもしない。
「……このままでは、蘭印の経済が干上がるぞ」
ゴムも、錫も、石油も、倉庫に積み上がったまま買い手がつかない。
大恐慌で世界中の需要が蒸発している中、唯一「カネ(NCPC債とドル)」を持っている日本に見捨てられれば、植民地経営は破綻する。
「……首相」植民地大臣が、決死の形相で言った。
「プライドを捨てて、値下げを提案すべきです。……『NCPC債』での支払いも、全面的に受け入れると」
「……日本の犬になれと言うのか」
「餓死するよりはマシです。それに……」大臣は声を潜めた。
「シェル(ロイヤル・ダッチ・シェル)のデターディング会長が、発狂寸前だそうです。『メロンを殺してやる』と」
⸻
時:同日
場所:ロンドン、ロイヤル・ダッチ・シェル本社
その部屋は、かつて「世界のエネルギー地図」を描く場所と呼ばれていた。重厚なマホガニーのテーブル、壁一面の世界地図。そこには、赤い線でシェルの支配領域が示されていた。
だが今、その地図の前で立ち尽くすアンリ・デターディング会長(シェルグループの帝王)の背中は、かつての自信に満ちたものではなかった。
「石油王」デターディングは執務室の窓ガラスを叩き割りそうな勢いで、報告書を壁に投げつけた。
「メロンの糞野郎がァッ!!」
彼の怒声は、テムズ川の対岸まで届きそうだった。
セブンシスターズによる「アクナキャリー協定(価格維持カルテル)」は、もろくも崩れ去っていた。
原因は、ガルフ・オイル(メロン財閥)の裏切りだ。
ガルフはNCPCを政治的に使えず競合に遅れを取り資金繰りに詰まり、ベネズエラの優良資産を日本に売却した。
その結果、日本海軍は「自前の油田」を手に入れ、国際石油市場から「客」として消えてしまったのだ。
「日本は世界有数の石油輸入国だぞ! その日本が『自給自足』を始めたら、余った石油はどこへ行くんだ!」
答えは簡単だ。市場に溢れかえる。
供給過剰。価格暴落。
シェルが支配するアジア市場でも、日本という巨大な買い手を失い、原油がダブついている。
彼のデスクには、世界中から届いた悲鳴のようなテレックスが積み上がっている。
『米国子会社(Shell Oil Co.)、第4四半期売上高90%減。ガソリンスタンド閉鎖数、1,200箇所』
『ベネズエラ現地法人、隣接する日本海軍鉱区(元ガルフ権益)への労働者流出止まらず。ストライキ発生』
『蘭印子会社BPM、貯蔵タンク満杯により生産停止。原油価格、採算ラインを割り込む』
デターディングは、ブランデーグラスを握りしめた。
「……なぜだ。我々は最強だったはずだ。垂直統合、多角化、そして潤沢なキャッシュフロー。恐慌など、蚊ほどにも感じないはずだった」
デターディングは低く呟いた。
「……本来なら、我々はこの程度で死なないはずだった」
最大の誤算は「アメリカ市場の壊死」だ。
FRBの利上げと日本海軍によるドルの吸い上げで、アメリカ経済は窒息した。自動車は売れず、工場は止まり、誰もガソリンを入れない。
シェルの巨大な米国投資は、ただの巨大な不良債権と化した。
そして第二の誤算。それが「日本」だった。
「……日本海軍からの回答は?」
デターディングが低い声で問うと、販売担当重役が青ざめた顔で首を横に振った。
「断られました、会長。『当分の間、蘭印からの輸入予定なし』とのことです」
「馬鹿な! 日本は石油を持たざる国だぞ! 喉から手が出るほど欲しいはずだ!」
「それが……彼らは南米から自前のタンカーでピストン輸送を行っており、国内のタンクは満杯だそうです。
それに……彼らはこうも言っています。
『蘭印の油は質が良すぎる。平時の訓練で燃やすには勿体無い』と」
デターディングは絶句した。
質が良いから買わない? そんな理屈があるか。
だが、それが現実だった。日本はペルーの軽質油とベネズエラの重油をブレンドする技術(スタンダード・オイル供与)を確立し、安価な燃料で艦隊を動かしている。
高価な蘭印の油など、贅沢品でしかなかった。つまり、日本は「安い油で十分」という段階に入っていた。
日本は、シェルを殺すために攻撃しているのではない。ただ「必要ない」から無視しているだけだ。
だがその無視が、巨人シェルにとっては致命傷となりつつあった。
⸻
時:同日
場所:オランダ領東インド(蘭印)、ボルネオ島・バリクパパン油田
熱帯のスコールが、油田の鉄塔を濡らしていた。
かつては24時間稼働していたポンプの音が消え、静寂が支配している。
現地支配人のファン・デル・メールは、錆びついた手すりに寄りかかり、港を見下ろしていた。
港には、満載喫水線を切ったタンカーが数隻、動かずに係留されている。行き先がないのだ。
「……本社からは『生産を止めろ』との命令だ。だが、止めれば井戸が傷む。再稼働には莫大な金がかかる」
彼は嘆いた。
スマトラ、ボルネオなどの原油は、硫黄分が少ない良質な「スイート原油」だが、同時に「パラフィン分(ワックス分)」が非常に多いという特徴がある。
稼働中: 地下から熱い原油が絶えず流れているため、ワックスは溶けた状態でパイプを通る。
停止後: 流れが止まると原油が冷える。するとパラフィンが結晶化し、パイプラインや油井管の中でロウソクのように固まってしまう。1930年の技術では、一度地下数百メートルでカチカチに固まったワックスを溶かすのは至難の業だ。
最悪の場合、パイプを引き抜いて交換するか、その井戸を放棄して掘り直す(莫大なコスト)しかない。カネがあれば、だが。
隣にいた現地人スタッフが、不安げに尋ねる。
「トゥアン(旦那様)。給料は……?」
「……待ってくれ。本国からの送金が遅れているんだ」
嘘だった。遅れているのではない。来ないのだ。
本国オランダは、ドイツ経済の崩壊に巻き込まれ、金融システムが麻痺している。
ギルダーの価値を守るために金本位制に固執し、海外への送金を厳しく制限していた。
つまり、蘭印は「本国に見捨てられた孤児」となっていた。
資源はある。設備もある。だが、「カネ(決済手段)」と「船(物流)」がない。
それが、恐慌下の資源国の現実だった。
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