運試し
時:1930年(昭和五年)、1月
場所:ペンシルベニア州ピッツバーグ、メロン・ナショナル・銀行本店
リチャード・B・メロンは、震える手で万年筆を走らせていた。
日本海軍との間で交わされる、総額4億ドルの資産売却契約。
ベネズエラの油田、スリナムの鉱山。一族の至宝が次々と日本の手に渡っていく。だがこれで財閥は、銀行は助かる。
最後の署名をしようとした時、リチャードの手が止まった。
契約書の末尾、別紙のリストに、タイプライターで小さく一行が追記されていたからだ。
『クウェート石油会社(KOC)設立準備権益における、ガルフ・オイル社の全持分(50%)および優先交渉権』
「……なんだこれは」
リチャードは眉をひそめた。
「クウェート? ペルシャ湾の奥の、あの砂漠か?」
伊藤整一中佐は、愛想の良い笑みを浮かべて頷いた。
「ええ、左様です。ベネズエラの設備は古く、改修にカネがかかりますのでね。
その“おまけ”として、夢を買わせていただきたいのです」
「夢だと?」
「あそこはまだ、油の一滴も出ていない不毛の砂漠です。地質学者は『有望かもしれない』と言いますが、掘っても水しか出ないかもしれない。
ですが、我々日本人は『運試し』が好きでしてね。……4億ドルの買い物の、福引き券みたいなものです」
リチャードは鼻で笑った。
知っている。ガルフの探査部が「イギリスがうるさくて開発が進まない」と嘆いていた案件だ。
砂とラクダと、偏屈な太守しかいない土地。開発には莫大な投資が必要だが、今のメロン家にそんな博打を打つ余裕は1ドルもない。
「……いいだろう。持っていけ」
リチャードは、その項目にチェックを入れた。
ゴミを押し付けたような気分だった。
「どうせ砂しか出んよ。日本人がそこで穴を掘って破産しようが、私の知ったことではない」
彼は知らなかった。
自分がたった今、人類史上最大級の油田「ブルガン」の権利を、インクの染み一つで売り渡したことを。
⸻
時:数日後
場所:ロンドン、ブリタニック・ハウス(アングロ・ペルシャ本社)
ロンドンの金融街シティにあるアングロ・ペルシャ石油(後のBP)の本社では、ジョン・カドマン会長が、信じられないという顔で報告書を叩いていた。
「……ガルフが降りた? アメリカ人が逃げ出しただと?」
「はい、会長。大恐慌で資金がショートしたそうです。
代わりに権益を買ったのは……日本の『海軍燃料廠』のダミー会社です」
カドマンは頭を抱えた。
アングロ・ペルシャもまた、世界恐慌のあおりで青息吐息だ。クウェートの太守は開発を急げとせっついているが、掘削資金などどこにもない。
そこへ金満だが得体の知れない日本軍が割り込んできたのだ。
「……黄色い猿どもに中東の複雑な利権構造が理解できるものか。追い返せ」
だが、通された日本側の代表――海軍技術将校の松村少佐――の言葉は、カドマンの予想を裏切るものだった。
「カドマン会長。単刀直入に申し上げます」
松村は、一枚の小切手をテーブルに置いた。ドル建ての、凄まじい桁の数字が書かれている。
「我々は、石油が欲しい。
貴社は、開発資金がない。
……ならば、話は簡単です。
掘削にかかる費用、パイプラインの敷設費、現地への工作資金……その全てを、日本側が『制度債』および『ポンドかドル』で負担しましょう。当座の予算は1千万ドル」
カドマンは目を丸くした。
「全額……だと?
リスクを全て日本が負うというのか? もし油が出なかったら?」
「その時は、我々の負けです。貴社は1ペニーも損をしない」
松村は即答した。
「その代わり……油が出た暁には、生産量の半分を日本へ優先的に輸出させていただきたい。価格は国際相場から割り引いていただきますが」
「……金だけ出して、経営権は我々(イギリス)に残すと言うのか?」
「ええ。形式上は、あくまで『英日合弁』です」
松村は微笑を浮かべて付け加えた。
「それに会長。我々と組むことは、貴国にとっても悪い話ではありませんよ。
……もし将来、アメリカが『石油禁輸』だの『通商破壊』だのと騒ぎ出した時」
彼は、執務室に飾られたユニオンジャックを指差した。
「クウェートの石油は『大英帝国の事業』です。
そこから日本へ向かうタンカーをアメリカ海軍が沈めれば、それは大英帝国の利益(アングロ・ペルシャの配当)を損なうことになる。
……貴国政府は、それを許しますかな?」
カドマンは膝を打った。
戦慄と、感嘆が同時に押し寄せた。
「……なるほど!
貴公らは石油だけではなく、ユニオンジャックという『魔除け』を買いに来たのか!」
アメリカはかつて日英同盟を破棄させたように、イギリス・日本との二正面戦争を望まない。
日本のタンカーが「アングロ・ペルシャの石油」を運んでいる限り、アメリカ海軍はおいそれと手を出せなくなる。
「……いいだろう」
カドマンは、小切手を手に取った。
背に腹は代えられない。それに、砂漠の油田など半分博打だ。日本人に金をドブに捨てさせて、アングロ・ペルシャが恩を売れるなら安いものだ。
「契約成立だ、少佐。
精々、砂遊びを楽しむがいい」
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時:1930年(昭和五年) 、1月
場所:ピッツバーグ、メロン・ナショナル銀行・記者会見場
フラッシュの光の中、リチャード・B・メロンは、人生で最高に賢い取引を終えた男の顔をしていた。
記者が質問する。
「ミスター・メロン! 日本海軍への資産売却について、一部では『国益の流出』との批判もありますが?」
リチャードは、葉巻をくゆらせながら余裕の笑み(ドヤ顔)で答えた。
「ハハハ! 国益? 君たちはビジネスを知らんね。
いいかね。私が日本に売ったのは、老朽化したベネズエラの設備と、ジャングルの奥地のボーキサイトだ。維持費ばかりかかって、利益の出ないお荷物だよ。
それを日本人は、市場価格の倍で買ってくれた。これは『片付け』だ」
「では、クウェートの権益も譲渡されたというのは?」
リチャードは、肩をすくめておどけてみせた。
「ああ、あれか! あれは私の『慈悲』だよ。
日本人が『砂漠で宝探しがしたい』と言うから、おまけで付けてやったんだ。
あそこにあるのは砂とラクダと、偏屈な太守だけだ。掘っても水しか出んよ。
……日本海軍の諸君が、砂漠で熱射病にならないことを祈るばかりだね!」
会場はドッと沸いた。
ガルフ・オイルの探査部長が、得意げに解説を加えた。
「皆様、地質学的に言えば、あそこ(クウェート)は確かに堆積盆地です。ですが、あまりにも深すぎる。そして何より、輸送コストが合いません。
テキサスならパイプ一本で港まで運べますが、あそこからアメリカまで運ぶにはスエズ運河を通るか、アフリカを回らなければならない。
仮に油が出たとしても、採算が取れるのは原油価格が今の3倍になった時でしょうな。つまり、永遠に来ない未来です」
「その通りだ!」
リチャードは満足げに頷いた。
「我々は維持費のかかる『お荷物』を、4億ドルの契約の“おまけ”として押し付けたのだ。
これは、エスキモーに氷を売るよりも難しい商談だったよ!」
彼らは信じて疑わなかった。自分たちが「一流企業」の部屋にいて、日本海軍は「映す価値なし」の部屋に入っていったのだと。
ニューヨーク・イブニング・グラフィック紙の一面には、風刺漫画がデカデカと掲載されていた。
描かれているのは、シルクハットを被ったスマートな紳士と、サイズの合わない軍服を着て、両手に砂を抱えた背の低い猿(日本海軍)。
紳士は猿からドル札の束を受け取りながら、背中で舌を出してウィンクしている。
キャプションにはこうある。
『The Smartest Deal of the Century!(世紀の賢い取引!)』
『Japan buys "Sand" for Millions!(日本、数百万ドルで“砂”を買う!)』
スタンドの前で、ビジネスマンたちが笑い合っている。
「おい見たか? ジャップの連中、ついに狂ったぞ。クウェートだとかいう、地図にも載ってない砂漠の権利をありがたがって買っていったそうだ」
「ハハハ! あそこにあるのはラクダの糞と熱風だけだろ? 石油なんて出るわけがない」
「メロン氏は天才だな。廃品回収車(日本海軍)に、粗大ゴミを高値で売りつけたんだ」
雑誌『ヴァニティ・フェア』は、特集記事を組んだ。
タイトルは『砂漠のドン・キホーテたち』。
記事の中では、地質学の権威がもっともらしく解説している。
「……科学的に見て、アラビア半島の地下構造に大規模な油田が存在する可能性は極めて低い。日本海軍は、地質学を知らない素人の集まりだ。彼らは4億ドルの授業料を払って、砂遊びを学ぶことになるだろう」
アメリカ中が笑っていた。
南米の資源を奪われた悔しさを、「日本にゴミを売りつけた」という優越感で埋め合わせていたのだ。
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