黒いカクテル
時:1930年(昭和五年)、1月
場所:ワシントンD.C. 海軍省・作戦部長執務室
その日の朝、海軍作戦部長チャールズ・ヒューズ大将は、珍しく上機嫌だった。
予算不足で暖房は切られているが、窓から差し込む冬の日差しが、少しだけ部屋を温めていたからだ。彼は冷めたコーヒーを啜りながら、午後の予算委員会の答弁書をチェックしていた。
バンッ!!
突然、執務室のドアが乱暴に開かれた。
ノックもなしに飛び込んできたのは、ONI(海軍情報局)の若い伝令将校だった。彼の顔色は、まるで幽霊でも見たかのように真っ白で、制帽はズレていた。
「て、提督! き、緊急電……! 至急報です!」
「なんだ、騒々しい! パナマ運河でも爆破されたか?」
ヒューズは不機嫌そうに眉をひそめた。だが、将校は直立不動のまま、唇をパクパクとさせている。言葉が出てこないのだ。
「……あ、あの……その……」
「はっきり言え!」
「……う、売れました!」
「は?」
「売れました! ……ガルフ・オイルのベネズエラ権益、およびアルコアのスリナム権益……買い手は……に、日本海軍……」
一瞬、部屋の時間が止まった。
ヒューズは、コーヒーカップを口元に運んだまま凍りついた。
同席していた作戦参謀が、間の抜けた声を出した。
「……は? 冗談だろ?」
「じょ、冗談ではありません! ニューヨークからの確定情報です! 代金決済完了! 所有権移転登記も済んでます!」
カチャン。
参謀が持っていた万年筆が、床に落ちた。だが誰も拾おうとしない。
「……ぶっ、ふふふふ!」
突然、部屋の隅にいた予算局長が吹き出した。
「おい、聞いたか? 日本が買ったんだとよ! アパラチアの石炭だけじゃ飽き足らず、今度はメロン財閥ごと買い取ったってよ! ハハハ! 今日はエイプリルフールか? 傑作だな!」
それは恐怖をごまかすための、乾いた哄笑だった。
だが、伝令将校が泣きそうな顔で差し出した電文の束を見た瞬間、その笑い声はヒッという悲鳴に変わって途絶えた。
そこには契約書の写しと、日本海軍の署名が鮮明に印字されていた。
「……嘘、だろ……?」
ヒューズが立ち上がろうとして、膝をデスクに強打した。ドン、という鈍い音が響くが、彼は痛みを感じていないようだった。
「……おい、地図だ。地図を持ってこい!」
「は、はい!」
情報参謀が慌てて南米の地図を広げようとしたが、手が震えてうまくいかない。地図は床に落ち、彼はそれを踏んづけて転びかけた。
予算局長は、なぜか自分のネクタイを締め直していた。意味もなく、何度も何度も。
ヒューズは手元の書類を逆さまに持ったまま、虚空を睨んでいた。
「……確認しろ。……何かの間違いだ。……誤報だと言え」
「か、確認しました! 三度です! ……スタンダード・オイルも、日本との協力を表明しました!」
「……スタンダードも、だと?」
その瞬間、ヒューズの脳内で「プツン」と何かが切れる音がした。
数分後。
執務室には、奇妙な静寂が戻っていた。
彼らは必死に「軍人としての威厳」を取り戻そうとしていた。
ヒューズは咳払いを一つし、机の上の書類(まだ逆さまだ)をトントンと揃えた。
参謀たちは、誰も目を合わせようとしない。視線は泳ぎ、指先は机の木目を意味もなくなぞっている。
「……諸君。……事態は、深刻だ」
ヒューズの声は、裏返っていた。
「……あー、つまりだ。敵は……我々の裏庭で……その……燃料を……」
「……はい。……ガソリンと重油の、両方を……」
「……そうか。……両方、か」
沈黙。
誰かが喉を鳴らすゴクリという音が、やけに大きく響いた。
彼らは理解していた。これが何を意味するかを。
だがそれを口に出した瞬間、自分たちが「世界最強の海軍」から「道化師」に転落することを認めてしまうのが怖かったのだ。
その時、秘書官が控えめに告げた。
「……提督。スタンダード・オイルのロビイストと、財務長官代理がお待ちです」
その一言が、ヒューズの理性の堰を切った。
彼は手に持っていたコーヒーカップを、全力で壁に叩きつけた。
ガシャンッ!!
陶器が砕け散り、黒い液体が壁を汚す。
その破裂音が、彼らを「呆然自失の道化」から「激昂する敗者」へと引き戻した。
「……通せッ!!」
ヒューズは吠えた。
その目にはもはや理性的な戦略家の光はなく、ただ裏切られた男の剥き出しの殺意だけが宿っていた。
⸻
その部屋では、陶器が砕ける音が響き渡っていた。
海軍作戦部長チャールズ・ヒューズ大将が、飲み干したばかりのコーヒーカップを壁に叩きつけた音だった。
床には、コーヒーの黒いシミと、白い破片が散乱している。だが、ヒューズの怒りはそんなものでは収まらなかった。彼は、目の前に直立不動で立つ男たち――財務長官代理と、スタンダード・オイルのロビイスト――を、殺さんばかりの形相で睨みつけていた。
「……売った、だと?」
ヒューズの声は、地獄の底から響くような低音だった。
「リチャード・メロンが、ガルフ・オイルのベネズエラ権益を、日本海軍に売った。
そして貴様らスタンダード・オイルは、それを黙認したどころか、『技術支援』まで約束しただと?」
スタンダード・オイルのロビイスト、ジェームズは、冷や汗を拭いながらも、努めて冷静なビジネスマンの顔を崩さずに答えた。
「提督、落ち着いてください。これはビジネス上の合理的な判断です。
ガルフが保有していたマラカイボ湖の権益(メネ・グランデ油田)は、確かに埋蔵量は多い。ですが、油質をご存知でしょう?
API比重16度から30度。重質で、硫黄分が多い酸性原油です。精製コストがかかる割に、ガソリンの収率は低い。あんなものを日本が手に入れたところで、近代的な航空戦力には使えませんよ」
ジェームズは、薄ら笑いを浮かべた。
「日本は『安物買いの銭失い』をしたのです。彼らはあのドロドロの油を、せいぜい艦艇のボイラーで燃やす重油にするのが関の山でしょう。
高度な精製技術を持たぬ彼らにとって、あの油はただの厄介なお荷物です」
「……馬鹿め」
ヒューズは、吐き捨てるように言った。
「貴様らは、油の成分表しか見ていないのか。それとも、わざと見ないふりをしているのか」
ヒューズは、机の引き出しから一枚の極秘ファイルを放り投げた。
それはONI(海軍情報局)が作成した、南米における日本の資源調達ルートの分析書だった。
「これを見ろ。ペルーだ」
ヒューズの指が、南米大陸の西側、太平洋岸の小さな一点を指し示した。
「タララ油田。貴社の可愛らしい子会社、IPCが運営している油田だ。
……昨年の秋、日本海軍がペルー政府の債務を肩代わりした際、貴社はこの油田の輸出枠の半分を、日本向けの『NCPC債決済』に切り替えたな?」
「え、ええ。ですが、ペルーは小規模な産油国です。生産量はベネズエラの十分の一にも満たない。大した量では……」
「量ではない! 質だ!」
ヒューズが絶叫した。
「タララ油田の原油は、API35度から45度。超軽質の『スイート・クルード』だ!
硫黄分は極小。蒸留するだけで、極めて高品質なガソリンとナフサが取れる。
……つまりだ。日本は『航空機を飛ばすための最高級の燃料』を、すでにペルーで確保しているのだ!」
ロビイストの顔から、余裕の色が消えた。
「そして今回、彼らはベネズエラで『艦隊を動かすための無尽蔵の重油』を手に入れた。
ガルフの油はシェルほど重くはない。艦艇燃料には最適だ。
……いいか、商売人ども。よく聞け。
日本は今、右手に『航空機用のウイスキー』を持ち、左手に『軍艦用のビール』を持った。
そして、それらを混ぜ合わせる(ブレンディング)ことで、彼らは自国の製油所の能力を最大限に引き出し、あらゆる種類の燃料を自給自足できる体制を整えてしまったのだ!」
ヒューズは、壁の世界地図を拳で殴った。
「燃料だけではない! スリナムのボーキサイト(アルミ)もだ!
エンジン(アルミ)と、重油と、ガソリン(ペルー)。
奴らは、戦争に必要な『ロイヤル・ストレート・フラッシュ』を、我々の裏庭で揃えてしまったのだぞ!
それを『安物買い』だと笑っていられる貴様らの脳みそは、原油よりもドロドロに腐っているんじゃないか!?」
ロビイストは絶句し、財務長官代理は震え上がった。
彼らは「利益」しか見ていなかった。
だが軍人は「組み合わせ(ポートフォリオ)」の恐ろしさを知っていた。
⸻
時:同日 夜
場所:ニューヨーク州ハイドパーク、ルーズベルト邸
暖炉の火が、フランクリン・デラノ・ルーズベルト(FDR)の車椅子に長い影を落としていた。
彼は、ワシントンの海軍省にいる友人から届いた密書を読み終え、深いため息をついた。
「……ハリー」
FDRは、ブランデーグラスを回しながら言った。
「スタンダード・オイルのティーグル社長は、『日本に製油プラントを売りつけて、添加剤(テトラエチル鉛)の特許で首輪をつけてやる』と豪語していたそうだな」
「ええ」腹心のハリー・ホプキンスが頷く。
「日本がハイオクタン・ガソリンを作るには、アメリカの技術に頼るしかない。だからコントロールできると」
「……チョコレートより甘いな」
FDRは、天井を見上げた。その瞳は、炎よりも冷たく燃えていた。
FDRは車椅子をきしませ、ホプキンスに詰め寄った。
「ティーグルはこう考えている。『日本が飛行機を飛ばすたび、我々に金が落ちる』と」
FDRは、契約書のコピーを指先で弾いた。
「だが戦争になった瞬間、この紙切れは何になる?」
ハリーが黙り込む。FDRは畳み掛けた。
「特許? 契約?
敵国に対して“使用停止”を通告するつもりか?
日本が『はいそうですか』と工場を止めると思うか?」
FDRは鼻で笑った。
「日本はこう言うだけだ。
『非常時につき、国家総動員法で接収した』とな」
「……あっ」
「つまりだ。
平時には日本が儲かり(安価な燃料確保)、戦時には日本がタダで使う(技術没収)。
その間、アメリカが得るのは“幻想上のロイヤリティ”だけだ。
……ティーグルは、自分の首を絞めるロープを『有料』で貸してやったに過ぎん」
FDRは壁の地図を指差した。ベネズエラとペルー、そして日本を結ぶ線。
「それに、スタンダードが売ったのはガソリンではない。
“航空機を量産し続ける能力”だ」
「ティーグルは、こう思っている。『精製技術の核心は我々が握っている』と。
だが日本は、ペルーの軽質油とベネズエラの重質油をブレンドすることで、“高度な技術を要しない設計”に寄せている。
油の段階で、答えを作っているのだ」
暖炉の火が一段、強く揺れた。
「我々はより高性能な航空機を作るために、複雑なプラントを建てる。
だが日本は、そこそこの性能の航空機を、より安く、より多く、より長く飛ばすためのインフラを整えた」
「……それは」
「戦争で勝つ側の条件だ」
FDRは嘆息した。
南米大陸の地図が、星条旗の色から日章旗の赤へと、塗り替わっていく幻影が見えるようだった。
「……東郷君。君は、我々の強欲さを利用して、我々自身の首を絞めるロープを編ませたのだな。
スタンダード・オイルは、日本の航空隊のスポンサーになった。
メロン財閥は、日本の艦隊の燃料補給係になった。
……これほど滑稽で、これほど致命的な『商談』が、かつてあっただろうか」
FDRは、グラスを飲み干した。
その味は、かつてないほど苦かった。
「……ハリー。海軍に伝えてくれ。
『オレンジ・プラン(対日戦計画)』は、根底から書き直しだ。
敵は、ガス欠になどならない。
彼らのタンクは、我々の裏庭の油で満タンだ」
その夜、ホワイトハウスとウォール街は、まだ自分たちが何を失ったのかを完全には理解していなかった。
だが、ワシントンの海軍省と、ニューヨークのFDRだけは知っていた。
太平洋のパワーバランスが、永遠に変わってしまったことを。
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