表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
TOGO 軍神の息子は、アナポリス帰りから軍縮した貧乏日本海軍の記録で稼ぐようです  作者: キユ
第二章

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

163/185

黒いカクテル

 時:1930年(昭和五年)、1月

場所:ワシントンD.C. 海軍省・作戦部長執務室


 その日の朝、海軍作戦部長チャールズ・ヒューズ大将は、珍しく上機嫌だった。

 予算不足で暖房は切られているが、窓から差し込む冬の日差しが、少しだけ部屋を温めていたからだ。彼は冷めたコーヒーを啜りながら、午後の予算委員会の答弁書をチェックしていた。


 バンッ!!


 突然、執務室のドアが乱暴に開かれた。

 ノックもなしに飛び込んできたのは、ONI(海軍情報局)の若い伝令将校だった。彼の顔色は、まるで幽霊でも見たかのように真っ白で、制帽はズレていた。


「て、提督! き、緊急電……! 至急報です!」


「なんだ、騒々しい! パナマ運河でも爆破されたか?」 

 ヒューズは不機嫌そうに眉をひそめた。だが、将校は直立不動のまま、唇をパクパクとさせている。言葉が出てこないのだ。


「……あ、あの……その……」

「はっきり言え!」

「……う、売れました!」

「は?」


「売れました! ……ガルフ・オイルのベネズエラ権益、およびアルコアのスリナム権益……買い手は……に、日本海軍……」


 一瞬、部屋の時間が止まった。

 ヒューズは、コーヒーカップを口元に運んだまま凍りついた。

 同席していた作戦参謀が、間の抜けた声を出した。


「……は? 冗談だろ?」


「じょ、冗談ではありません! ニューヨークからの確定情報です! 代金決済完了! 所有権移転登記も済んでます!」


 カチャン。

 参謀が持っていた万年筆が、床に落ちた。だが誰も拾おうとしない。


「……ぶっ、ふふふふ!」

 突然、部屋の隅にいた予算局長が吹き出した。


「おい、聞いたか? 日本が買ったんだとよ! アパラチアの石炭だけじゃ飽き足らず、今度はメロン財閥ごと買い取ったってよ! ハハハ! 今日はエイプリルフールか? 傑作だな!」


 それは恐怖をごまかすための、乾いた哄笑だった。

 だが、伝令将校が泣きそうな顔で差し出した電文の束を見た瞬間、その笑い声はヒッという悲鳴に変わって途絶えた。


 そこには契約書の写しと、日本海軍の署名が鮮明に印字されていた。


「……嘘、だろ……?」

 ヒューズが立ち上がろうとして、膝をデスクに強打した。ドン、という鈍い音が響くが、彼は痛みを感じていないようだった。


「……おい、地図だ。地図を持ってこい!」

「は、はい!」


 情報参謀が慌てて南米の地図を広げようとしたが、手が震えてうまくいかない。地図は床に落ち、彼はそれを踏んづけて転びかけた。


 予算局長は、なぜか自分のネクタイを締め直していた。意味もなく、何度も何度も。

 ヒューズは手元の書類を逆さまに持ったまま、虚空を睨んでいた。


「……確認しろ。……何かの間違いだ。……誤報だと言え」

「か、確認しました! 三度です! ……スタンダード・オイルも、日本との協力を表明しました!」


「……スタンダードも、だと?」


 その瞬間、ヒューズの脳内で「プツン」と何かが切れる音がした。


 数分後。

 執務室には、奇妙な静寂が戻っていた。

 彼らは必死に「軍人としての威厳」を取り戻そうとしていた。


 ヒューズは咳払いを一つし、机の上の書類(まだ逆さまだ)をトントンと揃えた。

 参謀たちは、誰も目を合わせようとしない。視線は泳ぎ、指先は机の木目を意味もなくなぞっている。


「……諸君。……事態は、深刻だ」

 ヒューズの声は、裏返っていた。


「……あー、つまりだ。敵は……我々の裏庭で……その……燃料を……」

「……はい。……ガソリンと重油の、両方を……」

「……そうか。……両方、か」


 沈黙。

 誰かが喉を鳴らすゴクリという音が、やけに大きく響いた。


 彼らは理解していた。これが何を意味するかを。

 だがそれを口に出した瞬間、自分たちが「世界最強の海軍」から「道化師」に転落することを認めてしまうのが怖かったのだ。


 その時、秘書官が控えめに告げた。

「……提督。スタンダード・オイルのロビイストと、財務長官代理がお待ちです」


 その一言が、ヒューズの理性のせきを切った。

 彼は手に持っていたコーヒーカップを、全力で壁に叩きつけた。


 ガシャンッ!!


 陶器が砕け散り、黒い液体が壁を汚す。

 その破裂音が、彼らを「呆然自失の道化」から「激昂する敗者」へと引き戻した。


「……通せッ!!」


 ヒューズは吠えた。

 その目にはもはや理性的な戦略家の光はなく、ただ裏切られた男の剥き出しの殺意だけが宿っていた。



 その部屋では、陶器が砕ける音が響き渡っていた。

 海軍作戦部長チャールズ・ヒューズ大将が、飲み干したばかりのコーヒーカップを壁に叩きつけた音だった。


 床には、コーヒーの黒いシミと、白い破片が散乱している。だが、ヒューズの怒りはそんなものでは収まらなかった。彼は、目の前に直立不動で立つ男たち――財務長官代理と、スタンダード・オイルのロビイスト――を、殺さんばかりの形相で睨みつけていた。


「……売った、だと?」

 ヒューズの声は、地獄の底から響くような低音だった。


「リチャード・メロンが、ガルフ・オイルのベネズエラ権益を、日本海軍に売った。

 そして貴様らスタンダード・オイルは、それを黙認したどころか、『技術支援』まで約束しただと?」


 スタンダード・オイルのロビイスト、ジェームズは、冷や汗を拭いながらも、努めて冷静なビジネスマンの顔を崩さずに答えた。


「提督、落ち着いてください。これはビジネス上の合理的な判断です。

 ガルフが保有していたマラカイボ湖の権益(メネ・グランデ油田)は、確かに埋蔵量は多い。ですが、油質をご存知でしょう?


 API比重16度から30度。重質で、硫黄分が多い酸性原油です。精製コストがかかる割に、ガソリンの収率は低い。あんなものを日本が手に入れたところで、近代的な航空戦力には使えませんよ」


 ジェームズは、薄ら笑いを浮かべた。

「日本は『安物買いの銭失い』をしたのです。彼らはあのドロドロの油を、せいぜい艦艇のボイラーで燃やす重油にするのが関の山でしょう。


 高度な精製技術クラッキングを持たぬ彼らにとって、あの油はただの厄介なお荷物です」


「……馬鹿め」

 ヒューズは、吐き捨てるように言った。


「貴様らは、油の成分表しか見ていないのか。それとも、わざと見ないふりをしているのか」


 ヒューズは、机の引き出しから一枚の極秘ファイルを放り投げた。

 それはONI(海軍情報局)が作成した、南米における日本の資源調達ルートの分析書だった。


「これを見ろ。ペルーだ」

 ヒューズの指が、南米大陸の西側、太平洋岸の小さな一点を指し示した。


「タララ油田。貴社の可愛らしい子会社、IPCインターナショナル・ペトロリアムが運営している油田だ。

 ……昨年の秋、日本海軍がペルー政府の債務を肩代わりした際、貴社はこの油田の輸出枠の半分を、日本向けの『NCPC債決済』に切り替えたな?」


「え、ええ。ですが、ペルーは小規模な産油国です。生産量はベネズエラの十分の一にも満たない。大した量では……」


「量ではない! 質だ!」

 ヒューズが絶叫した。


「タララ油田の原油は、API35度から45度。超軽質の『スイート・クルード』だ!

 硫黄分は極小。蒸留するだけで、極めて高品質なガソリンとナフサが取れる。

 ……つまりだ。日本は『航空機を飛ばすための最高級の燃料』を、すでにペルーで確保しているのだ!」


 ロビイストの顔から、余裕の色が消えた。


「そして今回、彼らはベネズエラで『艦隊を動かすための無尽蔵の重油』を手に入れた。

 ガルフの油はシェルほど重くはない。艦艇燃料には最適だ。


 ……いいか、商売人ども。よく聞け。

 日本は今、右手に『航空機用のウイスキー』を持ち、左手に『軍艦用のビール』を持った。


 そして、それらを混ぜ合わせる(ブレンディング)ことで、彼らは自国の製油所の能力を最大限に引き出し、あらゆる種類の燃料を自給自足できる体制を整えてしまったのだ!」


 ヒューズは、壁の世界地図を拳で殴った。


「燃料だけではない! スリナムのボーキサイト(アルミ)もだ!

 エンジン(アルミ)と、重油ベネズエラと、ガソリン(ペルー)。

 奴らは、戦争に必要な『ロイヤル・ストレート・フラッシュ』を、我々の裏庭で揃えてしまったのだぞ!


 それを『安物買い』だと笑っていられる貴様らの脳みそは、原油よりもドロドロに腐っているんじゃないか!?」


 ロビイストは絶句し、財務長官代理は震え上がった。

 彼らは「利益」しか見ていなかった。

 だが軍人は「組み合わせ(ポートフォリオ)」の恐ろしさを知っていた。



 時:同日 夜

場所:ニューヨーク州ハイドパーク、ルーズベルト邸


 暖炉の火が、フランクリン・デラノ・ルーズベルト(FDR)の車椅子に長い影を落としていた。

 彼は、ワシントンの海軍省にいる友人から届いた密書を読み終え、深いため息をついた。


「……ハリー」

 FDRは、ブランデーグラスを回しながら言った。

「スタンダード・オイルのティーグル社長は、『日本に製油プラントを売りつけて、添加剤(テトラエチル鉛)の特許で首輪をつけてやる』と豪語していたそうだな」


「ええ」腹心のハリー・ホプキンスが頷く。

「日本がハイオクタン・ガソリンを作るには、アメリカの技術に頼るしかない。だからコントロールできると」


「……チョコレートより甘いな」

 FDRは、天井を見上げた。その瞳は、炎よりも冷たく燃えていた。


FDRは車椅子をきしませ、ホプキンスに詰め寄った。


「ティーグルはこう考えている。『日本が飛行機を飛ばすたび、我々に金が落ちる』と」


 FDRは、契約書のコピーを指先で弾いた。


「だが戦争になった瞬間、この紙切れは何になる?」


 ハリーが黙り込む。FDRは畳み掛けた。


「特許? 契約?

 敵国に対して“使用停止”を通告するつもりか?

 日本が『はいそうですか』と工場を止めると思うか?」


 FDRは鼻で笑った。


「日本はこう言うだけだ。

『非常時につき、国家総動員法で接収した』とな」


「……あっ」


「つまりだ。

 平時には日本が儲かり(安価な燃料確保)、戦時には日本がタダで使う(技術没収)。

 その間、アメリカが得るのは“幻想上のロイヤリティ”だけだ。

 ……ティーグルは、自分の首を絞めるロープを『有料』で貸してやったに過ぎん」


 FDRは壁の地図を指差した。ベネズエラとペルー、そして日本を結ぶ線。


「それに、スタンダードが売ったのはガソリンではない。

 “航空機を量産し続ける能力サステナビリティ”だ」


「ティーグルは、こう思っている。『精製技術の核心は我々が握っている』と。

 だが日本は、ペルーの軽質油とベネズエラの重質油をブレンドすることで、“高度な技術を要しない設計”に寄せている。

 油の段階で、答えを作っているのだ」


 暖炉の火が一段、強く揺れた。


「我々はより高性能な航空機を作るために、複雑なプラントを建てる。

 だが日本は、そこそこの性能の航空機を、より安く、より多く、より長く飛ばすためのインフラを整えた」


「……それは」


「戦争で勝つ側の条件だ」


 FDRは嘆息した。

 南米大陸の地図が、星条旗の色から日章旗の赤へと、塗り替わっていく幻影が見えるようだった。


「……東郷君。君は、我々の強欲さを利用して、我々自身の首を絞めるロープを編ませたのだな。

 スタンダード・オイルは、日本の航空隊のスポンサーになった。

 メロン財閥は、日本の艦隊の燃料補給係になった。


 ……これほど滑稽で、これほど致命的な『商談』が、かつてあっただろうか」


 FDRは、グラスを飲み干した。

 その味は、かつてないほど苦かった。


「……ハリー。海軍に伝えてくれ。

 『オレンジ・プラン(対日戦計画)』は、根底から書き直しだ。

 敵は、ガス欠になどならない。

 彼らのタンクは、我々の裏庭の油で満タンだ」


 その夜、ホワイトハウスとウォール街は、まだ自分たちが何を失ったのかを完全には理解していなかった。

 だが、ワシントンの海軍省と、ニューヨークのFDRだけは知っていた。

 太平洋のパワーバランスが、永遠に変わってしまったことを。


いつもお読みいただきありがとうございます。


もし少しでも「面白い」「続きが気になる」と思っていただけましたら、ブックマークや感想、ページ下の【★★★★★】で評価をいただけますと、執筆の大きな励みになります。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
日本のアメリカ国内&周辺での利権確保だけど、アメリカは有事の時に資産・利権凍結で交渉材料に出来るんだよなぁ 潜水艦で通商破壊、船団の護衛艦隊には上回る規模の主力艦隊で攻撃 拠点の近場で活動出来るの…
アメリカ君こんな利権切り売りしていたら景気回復させようにも製品の輸出先が無いじゃない…
ヒューズ閣下の脳血管、海軍作戦本部長の任期一杯まで保つのか不安ですな。 この世界の日本、大型タンカーが大量に必要ですね。南米は遠いから輸送効率のためパナマックスギリギリくらいのサイズで巡航18kt、…
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ