NCPC 前編
1927年・昭和二年の春、軍港の街はまだ冬の冷たさを少しだけ残していた。横須賀・汐入の商店街には、朝の潮の匂いと、木箱に積まれた鰯の銀鱗が光っている。どの店先も、引き戸の油は差してあるが、戸袋の隅には去年の埃がまだ頑なに残り、街は新しい季節に追いつこうとしている最中だった。
その朝、見慣れぬ札がいくつかの軒先に下がった。白地に碇章、黒々とした文字が真新しく胸を張っている。
——「海軍信用購買証:NCPC加盟店」
店主の誰かが濡れ雑巾で札の縁を撫で、指先で位置を微調整するたび、光沢が微妙に揺れた。通りを歩く人々は立ち止まり、眉を寄せたり、にやりと笑ったり、それぞれの顔の筋肉で時代の変化を受け止める仕草をした。
魚屋「大清」の氷の上には朝どれの魚が並び、腹の縞が潮風に緩む。ねじり鉢巻きの親父は、背中の筋肉だけで箱を持ち上げるような体つきをしていた。
そこへ、背広を着慣れない若い水兵が、どこかよそゆきの足取りで近づいた。胸元のボタンはひとつぶん位置を間違えている。彼のすぐ後ろには、影のように小柄な少女がついてくる。東郷一成の養女、幸である。
「……あ、あの……これで、お願いします」
水兵は、震える指先で一枚の硬いカードを差し出した。セルロイドの艶。、碇章の下に個別番号が針で刻まれている。噂の「海軍カード」——NCPC。
親父はそれを両手で受け取り、指腹で質感を確かめると、店の隅に据えた手動パンチを引き寄せ、カードの端を正確な位置に重ねた。カチリ、と乾いた音が小さく店内に跳ねた。
「よし。控えはこっちの台帳に……っと。あいよ、二円分。今日は鯖がいいぞ。脂が乗ってら」
「ありがとうございます!」
水兵は安堵の息を吐き、包みを胸に抱えた。胸の締め付けが緩み、頬に血が戻るのが自分でも分かった。
「すげぇ……金を出さずに、魚が買えた……」
彼の横で、幸は安堵する水兵の顔をそっと見上げ、小さく胸を撫で下ろした。
(……これ、未来なら“キャッシュレス”って呼ばれるはず。けど……そんな言葉、ここでは誰も知らない。ただ……あの水兵さんが、胸を軽くして帰れるなら……それで十分なんだと思う)
大清の親父は、レジ代わりの木箱にカードの控えを入れ、台帳の「海軍」の欄に印を付けた。紙の上に残る小さな黒点が、信用という見えない川の水位を一滴分だけ増やした。
通りの向こうに、軍服の襟を立てた男が腕を組み、静かに一部始終を見ていた。東郷一成である。彼は唇の片端だけでほとんど気づかれない笑みを作り、通りの人の流れと同じ速さで視線を動かす。
——制度債は“信”の大河。NCPCは、その支流の小川だ。大河は、田の畦を越え、井戸に沁み、茶碗に注がれて初めて「水」と呼ばれる。人は一度この便利に慣れてしまえば、二度と砂を舐める日々には戻らない。
幸はその視線の先に立っている父を横目で探りながら、駄菓子屋「たぬき堂」の引き戸を押した。木の鈴がチリンと鳴る。瓶詰めの金平糖が日差しで淡く暖まっている。
「……これで、ラムネください」
幸は、背伸びをしてカウンターへカードを差し出した。腰の曲がった婆さまは眼鏡越しにそのカードを見、幸を見、またカードを見た。
「おやまぁ、嬢ちゃんまで海軍さんの札を? ほんとにいいのかね」
水兵が笑って言った。
「この子は提督のお嬢様なんです。大丈夫ですよ」
婆さまは「そりゃぁ安心だ」と頷き、小さなパンチを持ち上げた。カチリ——店の奥の空気が一瞬だけ揺れ、ラムネ瓶の中のビー玉がかすかに転がった。幸は瓶を受け取り、指で栓を押し込み、甘い泡をひとくち飲んだ。その舌に馴染む甘さは、油断すると喉の奥で少しだけつっかえるほど濃い。
(——本当に流通しちゃう。……子どもでも、こうしてカードでおやつが買える。仕組みの理屈は難しいけど……これで商店のおばあちゃんが安心できるなら……やっぱり、きっと意味があるんだ)
商店街の夕刻までに、NCPCのパンチ音は何十回も響いた。
「軍の札なら取りっぱぐれがない」
「掛け売りの心配がなくなる」——そんな会話が魚屋、八百屋、風呂屋、どこからともなく聞こえてくる。便利さという名の蜜は、蜂蜜壺から溢れるように、街の溝へと甘く流れ出した。
その日の午後、横須賀鎮守府内——海軍カード清算所の一角では、別の音が響いていた。電鍵が一定のリズムで机を震わせ、紙テープがガリガリと横に走る。若い主計中尉が腕まくりをし、紙束の端をそろえてホチキスで留め、前の席に滑らせる。
机の上には、NCPCの「控え」が店名ごとに小さな山を作っている。手動パンチの孔が彼らの世界では小さな「価」を意味し、孔の並びは、まるで暗号のように一日の街の呼吸を描いている。
東郷が部屋に入ると、主計中尉が立ち上がった。
「中佐。試運転の一日目、集計に入っております」
「ご苦労。数字は正直か」と東郷。
「ええ。加盟店二十七、取引件数は百八十一。総額は七百三十六円。鯨肉、魚、米、風呂代、紙屑屋の買い取りまで……街がカードの穴で喋りだしました。月末に給与から引かせていただきます」
「——給与天引きが、最強の回収装置であることは古今東西変わらん」と東郷は頷く。
「利用者の身元は我々が握っている。通信は自前で、軍の線を使える。店側の控えは今、電信で集め、鎮守府の台帳に重ね合わせる。……綻びはどこに出る」
主計中尉は即答した。
「偽造と貸与、です。カードはセルロイドで丈夫ですが、顔を知らぬ店での貸与は起こり得る。加盟店へは“認識票の提示”を徹底させます。二重パンチを防ぐため、台帳番号と孔の位置の照合を訓練中。専任の記録係が、異常なパターンを拾うようにしております」
「よし」と東郷。
「それから——加盟店の“利”だ。必ず翌日昼までには『昨日の清算額』を通達し、遅れは出すな。人は、遅れに敏感だ。甘い蜜も時を経ればすぐ酸っぱくなる」
主計中尉は微笑んだ。
「中佐、現場の声は上々です。“海軍の札なら現金同様”“いや現金以上”と。掛けでいつ支払われるか分からぬものより、月末に必ず入る方が良いと」
「——そこだ」と東郷は窓の外の桜をちらと見た。
「民間がゼロからやれば、胡散臭い紙切れにしかならん。だが海軍なら、利用者は閉じており、通信も回り、給与は強制力を持ち、データ処理の現場は日々戦闘報告で鍛えられている。既存の“部品”を組み合わせればいい。……ブリコラージュ、というやつだよ」
言いながら、彼は机の上の電鍵を指で軽く弾いた。タン、と金属の響きが小さく跳ねた。ちょうどその時、隣室の扉が控えめに叩かれ、背広の男が姿を見せた。市中銀行・横須賀支店の支配人、狩野である。年配の目元は笑っているが、背広の肩はわずかに固い。
「本日はお忙しいところを……清算所のご様子、拝見に参りました」




