表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
TOGO 軍神の息子は、アナポリス帰りから軍縮した貧乏日本海軍の記録で稼ぐようです  作者: キユ
第一章

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

15/184

財布の中の影

1926年の秋の夕暮れ、横須賀の東郷邸。


磨き込まれた木の廊下に、膳を片付ける食器の音が軽く響いていた。庭から吹き込む風はまだ冬の冷たさを残しているが、障子に映る影は春の兆しを纏っていた。


食後の席に、数名の士官たちが招かれていた。主はもちろん、東郷一成である。彼の前に並べられたのは厚紙に印刷された新しい札束……ではなく、分厚いカードの束だった。


「諸君、これは将来、海軍の全ての部門で導入を検討している『帝国海軍信用購買証』、通称NCPC(Navy Credit Purchasing Card)の試作品です。各員に一枚ずつ配布し、試験運用に協力してもらいたい」


士官たちが物珍しげに受け取ったカードは厚手の紙で、表には識別番号と提督の印章、裏にはびっしりと注意書きが並んでいた。


「ほう、これは……何に使うものでしょうか?」と士官のひとりが尋ねる。


「海軍内の売店や工廠食堂、さらに提携する軍港都市の商店で提示すれば、現金を持たずに買い物ができる。月末には給与から天引きされる。急な出費があっても、この一枚で与信の範囲内なら対応可能だ」


東郷はにこやかに説明する。


「なるほど! 給与天引きとは安心です。まさしく『海軍の信用』が財布の中に入るようなものですな」


士官たちは未来的な利便性に感嘆の声を上げた。だが、その輪の外で、ひとりの少女はカードをじっと見つめていた。東郷の養女、幸である。


(……カード一枚で全部……。すごい、でも……これってまさかのチャージプレート方式……)


21世紀の記憶が、彼女の胸の奥で静かにざわめいた。クレジットカード。キャッシュレス。オンライン決済。彼女が未来で見てきた言葉が、今ここで形を取りつつある。


幸は小さな手にカードを握りしめ、裏の注意書きを凝視した。


――『購入記録は日本帝国海軍経理部パンチカードシステムに集約、監査される』。


(……つまり、どこで何を買ったか全部、記録される……? 便利だけど、でも……お父さま……これ、みんな、不安にならないかな……)


指先が少し震えた。けれど、彼女は父を疑う気持ちではなく、父の制度が誤解されないかを心配していた。


勇気を出し、声を絞り出した。


「お父さま……このカードを使ったら……私たちがどこで何を買ったか、全部わかってしまうんですか?」


 場に一瞬の静寂が落ちた。士官たちが顔を見合わせる。その中で、東郷だけが柔らかい微笑みを崩さず頷いた。


「当然だよ。国家の信用を預かるのだから、与信状況を把握するのは責任の範疇だ。不正を防ぎ、健全な経済を守るための透明性だと思いなさい」


幸は胸に手を当て、唇を噛んだ。


(……透明性。そうかもしれない。でも……“見られている”って思うだけで、人は不安になる。わたしは……お父さまの制度が怖がられないように、守りたいのに……)


士官のひとりがはしゃいだように言った。


「これで陸軍に頼らず、海軍独自の予算で動けるようになりますな!」


これを聞いた東郷の瞳に一瞬、冷たい光が宿る。幸は思わず息をのんだ。


(……国家の中に、もうひとつの国家……。でも、お父さまはきっと、人を苦しめるためにやっているんじゃない。みんなを守るため……だからこそ、わたしも、不安を伝えなきゃ……)


その夜。書斎で新聞を読んでいた父に、幸は思い切って近づいた。


「お父さま……やっぱり、気になるんです。このカード……全部記録が残るんですよね。もし、未来でそれを使って人を縛るようになったら……」


父は新聞から目を上げ、少し驚いたように彼女を見た。けれど怒らず、ただ面白そうに眉を上げた。


「未来では、そういう使い方をしているのかね?」


「……もしもです。でも、“見られてるかもしれない”って思うだけで、人は行動を変えるんです。規律にはなるかもしれないけど……でも、それで人が萎縮してしまったら……」


彼女は必死に言葉を紡いだ。声が震えても、父に届いてほしかった。


東郷はしばし黙り、やがて水をひと口飲んで言った。


「……抑止力か。なるほどな。確かに、“見られているかもしれぬ”と思わせることは規律維持の手段にはなる。しかし、実際には我々にその監視網を張る力も意思もない。これは監視ではなく、“見えざる威圧”としての影にすぎないのだ」


軍縮で兵学校の卒業生は減り、むしろ慢性的な人材不足に悩んでいるくらいだからな。

そうつぶやいた東郷が窓の外に視線を向けた。月光の下に海軍工廠の煙突が黒い影を落としている。


「軍務とは、影を使うこともある。大砲よりも、影のほうが人を従わせることもあるのだ」


幸は胸の奥で小さく頷いた。


(……やっぱり怖い。でも、お父さまは全部わかってやっている。だから……わたしがそばで、みんなの声を届けてあげなきゃ。お父さまが安心して制度を広められるように……)


その夜、灯の下で小さな手帳を開き、幸は決意を書き留めた。


――「わたしが橋になる。人の不安を、お父さまに届ける役目になる」。


ランプの炎が揺れ、影が壁に映った。その影は少女の小さな肩を大きく見せ、彼女の献身の芽生えを静かに照らしていた。


その決意を胸に刻んだ翌週から、幸のささやかな「任務」が始まった。


彼女はこれまで以上に、父・一成に連れられて街へ出かけるようになった。汐入の商店街、工廠へ向かう労働者たちのための安食堂、そして水兵たちが束の間の休息をとる甘味処。一成が随行の士官や店主たちと制度の運用について話している間、幸は少し離れた場所で、そこにいる人々の息づかいに耳を澄ませた。


「最近出回りだしたNCPCって札、便利だよな。財布が軽くってよ」

「ああ。だがよ、こないだ女房に頼まれて反物を買おうとしたら、なんだか見られてるみてぇで、やめちまった」

「考えすぎだろ。どうせ給料から引かれんだ、同じことだ」

「そう言うがなぁ……」


食堂の隅で、作業着姿の男たちが交わす会話。幸はそれを、小さな手帳の隅に、子供の字でそっと書き留める。『べんり。でも、きものをかうのは、すこし、こわい』。


甘味処では、若い水兵たちがクリームソーダを前に声を潜めていた。

「なあ、このカードで遊郭には行けるのか?」

「馬鹿、記録が残るのに使えるわけねぇだろ! 上官に知られたらどうすんだ」

「だよな……。健全な金しか使えねぇってことか」


幸は、俯いてぜんざいを口に運びながら、手帳に記す。『ゆうかくは、だめ。けんぜん』。


夜、書斎で父が報告書に目を通していると、幸は小さな手帳を手に、そばへ寄った。

「お父さま。今日の、『街の声』です」


東郷は驚いた顔をしたが、すぐに面白そうに眉を上げて手帳を受け取った。そこには、大人の報告書には決して上がってこない、たどたどしい文字で綴られた人々の本音が並んでいた。


『おさかなやさん。かけうりがなくなって、あんしん』

『おふろやさん。こまかいおかねがいらなくて、らく』

『へいたいさん。おかあさんへのぷれぜんとを、かくしたかったけど、ばれちゃうかも』


東郷は、最後の行でふと指を止めた。そして、小さく、本当に小さく笑みを漏らした。

「……なるほど。母親への贈り物を隠したい、か」

彼は顔を上げ、幸の目を見た。

「幸。良い仕事だ。ひょっとしたら、どの主計中尉の報告書よりも価値があるかもしれん」


「本当ですか?」

「ああ。制度の“痛み”は、こういう場所に宿る。誰もが胸を張って買えるものばかりではないからな」


東郷は幸に言った。

「“橋”というのはな、幸。ただ渡すだけではいけない。渡る者が安心して歩けるように、欄干をつけ、足元を確かめてやらねばならん。お前は、この制度に必要な“欄干”を見つけてくれた」


父の言葉に、幸の胸は温かくなった。自分のやっていることが、無駄ではなかった。この小さな活動が、父の巨大な制度を、少しだけ優しいものに変えられるかもしれない。


「はい、お父さま。明日も、街の声をたくさん聞いてきます」

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
NCPCってカードのようですが外国人や外国企業もカードなのですか?それとも紙の券のような形なのですか?
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ