財布の中の影
1926年の秋の夕暮れ、横須賀の東郷邸。
磨き込まれた木の廊下に、膳を片付ける食器の音が軽く響いていた。庭から吹き込む風はまだ冬の冷たさを残しているが、障子に映る影は春の兆しを纏っていた。
食後の席に、数名の士官たちが招かれていた。主はもちろん、東郷一成である。彼の前に並べられたのは厚紙に印刷された新しい札束……ではなく、分厚いカードの束だった。
「諸君、これは将来、海軍の全ての部門で導入を検討している『帝国海軍信用購買証』、通称NCPC(Navy Credit Purchasing Card)の試作品です。各員に一枚ずつ配布し、試験運用に協力してもらいたい」
士官たちが物珍しげに受け取ったカードは厚手の紙で、表には識別番号と提督の印章、裏にはびっしりと注意書きが並んでいた。
「ほう、これは……何に使うものでしょうか?」と士官のひとりが尋ねる。
「海軍内の売店や工廠食堂、さらに提携する軍港都市の商店で提示すれば、現金を持たずに買い物ができる。月末には給与から天引きされる。急な出費があっても、この一枚で与信の範囲内なら対応可能だ」
東郷はにこやかに説明する。
「なるほど! 給与天引きとは安心です。まさしく『海軍の信用』が財布の中に入るようなものですな」
士官たちは未来的な利便性に感嘆の声を上げた。だが、その輪の外で、ひとりの少女はカードをじっと見つめていた。東郷の養女、幸である。
(……カード一枚で全部……。すごい、でも……これってまさかのチャージプレート方式……)
21世紀の記憶が、彼女の胸の奥で静かにざわめいた。クレジットカード。キャッシュレス。オンライン決済。彼女が未来で見てきた言葉が、今ここで形を取りつつある。
幸は小さな手にカードを握りしめ、裏の注意書きを凝視した。
――『購入記録は日本帝国海軍経理部パンチカードシステムに集約、監査される』。
(……つまり、どこで何を買ったか全部、記録される……? 便利だけど、でも……お父さま……これ、みんな、不安にならないかな……)
指先が少し震えた。けれど、彼女は父を疑う気持ちではなく、父の制度が誤解されないかを心配していた。
勇気を出し、声を絞り出した。
「お父さま……このカードを使ったら……私たちがどこで何を買ったか、全部わかってしまうんですか?」
場に一瞬の静寂が落ちた。士官たちが顔を見合わせる。その中で、東郷だけが柔らかい微笑みを崩さず頷いた。
「当然だよ。国家の信用を預かるのだから、与信状況を把握するのは責任の範疇だ。不正を防ぎ、健全な経済を守るための透明性だと思いなさい」
幸は胸に手を当て、唇を噛んだ。
(……透明性。そうかもしれない。でも……“見られている”って思うだけで、人は不安になる。わたしは……お父さまの制度が怖がられないように、守りたいのに……)
士官のひとりがはしゃいだように言った。
「これで陸軍に頼らず、海軍独自の予算で動けるようになりますな!」
これを聞いた東郷の瞳に一瞬、冷たい光が宿る。幸は思わず息をのんだ。
(……国家の中に、もうひとつの国家……。でも、お父さまはきっと、人を苦しめるためにやっているんじゃない。みんなを守るため……だからこそ、わたしも、不安を伝えなきゃ……)
その夜。書斎で新聞を読んでいた父に、幸は思い切って近づいた。
「お父さま……やっぱり、気になるんです。このカード……全部記録が残るんですよね。もし、未来でそれを使って人を縛るようになったら……」
父は新聞から目を上げ、少し驚いたように彼女を見た。けれど怒らず、ただ面白そうに眉を上げた。
「未来では、そういう使い方をしているのかね?」
「……もしもです。でも、“見られてるかもしれない”って思うだけで、人は行動を変えるんです。規律にはなるかもしれないけど……でも、それで人が萎縮してしまったら……」
彼女は必死に言葉を紡いだ。声が震えても、父に届いてほしかった。
東郷はしばし黙り、やがて水をひと口飲んで言った。
「……抑止力か。なるほどな。確かに、“見られているかもしれぬ”と思わせることは規律維持の手段にはなる。しかし、実際には我々にその監視網を張る力も意思もない。これは監視ではなく、“見えざる威圧”としての影にすぎないのだ」
軍縮で兵学校の卒業生は減り、むしろ慢性的な人材不足に悩んでいるくらいだからな。
そうつぶやいた東郷が窓の外に視線を向けた。月光の下に海軍工廠の煙突が黒い影を落としている。
「軍務とは、影を使うこともある。大砲よりも、影のほうが人を従わせることもあるのだ」
幸は胸の奥で小さく頷いた。
(……やっぱり怖い。でも、お父さまは全部わかってやっている。だから……わたしがそばで、みんなの声を届けてあげなきゃ。お父さまが安心して制度を広められるように……)
その夜、灯の下で小さな手帳を開き、幸は決意を書き留めた。
――「わたしが橋になる。人の不安を、お父さまに届ける役目になる」。
ランプの炎が揺れ、影が壁に映った。その影は少女の小さな肩を大きく見せ、彼女の献身の芽生えを静かに照らしていた。
その決意を胸に刻んだ翌週から、幸のささやかな「任務」が始まった。
彼女はこれまで以上に、父・一成に連れられて街へ出かけるようになった。汐入の商店街、工廠へ向かう労働者たちのための安食堂、そして水兵たちが束の間の休息をとる甘味処。一成が随行の士官や店主たちと制度の運用について話している間、幸は少し離れた場所で、そこにいる人々の息づかいに耳を澄ませた。
「最近出回りだしたNCPCって札、便利だよな。財布が軽くってよ」
「ああ。だがよ、こないだ女房に頼まれて反物を買おうとしたら、なんだか見られてるみてぇで、やめちまった」
「考えすぎだろ。どうせ給料から引かれんだ、同じことだ」
「そう言うがなぁ……」
食堂の隅で、作業着姿の男たちが交わす会話。幸はそれを、小さな手帳の隅に、子供の字でそっと書き留める。『べんり。でも、きものをかうのは、すこし、こわい』。
甘味処では、若い水兵たちがクリームソーダを前に声を潜めていた。
「なあ、このカードで遊郭には行けるのか?」
「馬鹿、記録が残るのに使えるわけねぇだろ! 上官に知られたらどうすんだ」
「だよな……。健全な金しか使えねぇってことか」
幸は、俯いてぜんざいを口に運びながら、手帳に記す。『ゆうかくは、だめ。けんぜん』。
夜、書斎で父が報告書に目を通していると、幸は小さな手帳を手に、そばへ寄った。
「お父さま。今日の、『街の声』です」
東郷は驚いた顔をしたが、すぐに面白そうに眉を上げて手帳を受け取った。そこには、大人の報告書には決して上がってこない、たどたどしい文字で綴られた人々の本音が並んでいた。
『おさかなやさん。かけうりがなくなって、あんしん』
『おふろやさん。こまかいおかねがいらなくて、らく』
『へいたいさん。おかあさんへのぷれぜんとを、かくしたかったけど、ばれちゃうかも』
東郷は、最後の行でふと指を止めた。そして、小さく、本当に小さく笑みを漏らした。
「……なるほど。母親への贈り物を隠したい、か」
彼は顔を上げ、幸の目を見た。
「幸。良い仕事だ。ひょっとしたら、どの主計中尉の報告書よりも価値があるかもしれん」
「本当ですか?」
「ああ。制度の“痛み”は、こういう場所に宿る。誰もが胸を張って買えるものばかりではないからな」
東郷は幸に言った。
「“橋”というのはな、幸。ただ渡すだけではいけない。渡る者が安心して歩けるように、欄干をつけ、足元を確かめてやらねばならん。お前は、この制度に必要な“欄干”を見つけてくれた」
父の言葉に、幸の胸は温かくなった。自分のやっていることが、無駄ではなかった。この小さな活動が、父の巨大な制度を、少しだけ優しいものに変えられるかもしれない。
「はい、お父さま。明日も、街の声をたくさん聞いてきます」




