黄金の足枷・連邦準備法(Federal Reserve Act)
時:1929年11月5日(火)
場所:ニューヨーク連邦準備銀行・地下金庫
NY連銀の失血は止まらなかった。それどころか、傷口はさらに広がっていく。
FRBが市場に供給した金は、ドルの信用を回復させるために使われなかった。それはただ銀行の窓口を通り過ぎ、再び国民の手に渡り、そしてそのうちのかなりの割合が、日本大使館の「長期債」窓口へと吸い込まれていった。
金 → 市場へ(ドルとの交換)
ドル → 日本大使館へ(長期債購入)
日本海軍 → 一部のドルを金への再交換請求
NY連銀の神官(理事)たちは、恐るべき現実に直面した。自分たちが流している聖水(金)が、巡り巡って異教の神殿(日本海軍)への供物として捧げられている。これは儀式ではない。収奪だ。
この週までで3億ドル相当(約450トン)の金が、NY連銀の金庫から消えた。
地下金庫の「アメリカの棚」は、目に見えて痩せ細り始めていた。
時:1929年11月11日(月)
場所:ワシントンD.C. ホワイトハウス、オーバルオフィス
財務長官アンドリュー・メロンは、かつてないほど憔悴していた。彼の自慢の銀髪は乱れ、常に冷静だった瞳には焦燥の色が濃い。
彼の目の前には、FRB議長ロイ・ヤングが突きつけた、一枚の冷酷な報告書があった。
『連邦準備銀行券発行残高に対する正貨準備率、法定下限の40%に接近中』
「……嘘だろう、ヤング君」
メロンは、乾いた唇を舐めた。
「まだあの大暴落から数週間だぞ。なぜこれほど急激に金が減るのだ」
「イヤーマーキング(所有権移転)です」
ヤング議長は、死刑宣告を読み上げるように言った。
「日本海軍は、市場から吸い上げたドルを、猛烈な勢いで金へと換えています。物理的に持ち出しはしませんが、地下金庫の帳簿上、あれはもう『日本の金』です。我々の準備金には算入できません」
ここで、アメリカが自らに課した「鉄の掟」――連邦準備法(Federal Reserve Act)が牙を剥いた。
「長官。法律により、我々は保有する金の2.5倍までしかドルを発行できません。逆に言えば……金が1億ドル減れば、市場から2.5億ドルの紙幣を回収し、燃やさなければならないのです」
フーヴァー大統領が、呻くように言った。
「……つまり、市場が『金がない! 助けてくれ!』と悲鳴を上げているに、我々は法律を守るために、さらに市場から金を吸い上げろと言うのか?」
「そうです、大統領。やらなければ、私が逮捕されます」
ヤングは無表情に答えた。
「馬鹿な!」
国務長官ヘンリー・スティムソンが机を叩いた。
「国が死にかかっているのだぞ! 法律を変えればいいではないか!
議会に緊急動議を出して、40%という数字を引き下げるか、あるいは国債を担保にドルを刷れるように法改正すればいい!」
その叫びに対し、財務長官メロンは冷徹な、しかしどこか諦めを含んだ声で答えた。
「ヘンリー。君は、この国の議会というものを知っているはずだ」
メロンは葉巻を置いた。
「この連邦準備法を作ったのは誰だ? あの頑固者のカーター・グラス上院議員だ。
彼ら民主党の保守派も、そして我々共和党の重鎮たちも、骨の髄まで『真正手形説』と『金本位制』の信奉者だ。
彼らにとって、金の裏付けなしにドルを刷ることは、神への冒涜であり、悪性インフレを招く悪魔の所業なのだよ」
メロンは天井を仰いだ。
「もし今、私が議会に行って『金が足りないから法律を緩めてくれ』と言えばどうなる?
議会は紛糾するだろう。審議には数ヶ月、いや数年かかる。
そして何より……政府が自ら『ドルの価値を希釈する』と宣言した瞬間、世界中の投資家がドルを見限り、取り付け騒ぎは今の十倍になる。
ドルは紙くずになり、アメリカ経済は即死する」
スティムソンは言葉を失った。
史実においてアメリカがこの呪縛を解き、国債を担保にドルを発行できるようにする「グラス・スティーガル法(1932年)」を成立させるまでには、大恐慌から実に3年近くの歳月と、地獄のような苦しみを要することになる。
今の彼らには、その時間はなかった。
アメリカの民主主義の手続きの遅さと、政治家たちのイデオロギーの硬直性が、彼らに立ちはだかっていた。
メロンは頭を抱えた。
彼の持論である「清算主義」――腐った企業や投機家を退場させれば、有能な人々が底値で資産を買い取り、経済はより強靭に再生する。
その理論が、根底から崩れ去っていた。
「……私の理論では、資産を買い取るのは『勤勉なアメリカ人』のはずだった」
メロンは独りごちた。
「だが今、市場からドルが消えている。勤勉なアメリカ人には、底値の株を買うためのドルがないのだ。銀行も貸してくれない。……では、誰が買うのだ?」
答えは、窓の外にあった。
ポトマック川の向こう、日本大使館。あそこには、日本海軍が吸い上げた莫大なドルと、そして「NCPC債」という名の、ドルに代わる決済手段が唸るほどある。
「……日本だ」
フーヴァーが、戦慄と共に呟いた。
「我々が清算すればするほど、ドルを持たないアメリカ人は死に、ドルとNCPC債を持つ日本海軍だけが、焼け跡の資産を拾い上げていく……。
我々は、国をきれいにするつもりで、国を明け渡しているだけではないか!」
ドルが市場から減れば減るほど、NCPC債がその隙間を埋めていく。
アメリカの法律(40%ルール)が、アメリカの首を絞め、日本の支配を助けている。
前からわかっていたことだが、東郷一成はアメリカの法律さえも武器にしているのだ。
「……止めなければならん」
スティムソン国務長官が、決意を込めて言った。
「既存の取引は仕方ないとしても、これ以上、奴らに我が国の資産を食い荒らさせてはなりません。国防の問題です」
「どうする? NCPC債の禁止は、議会が否決したばかりだぞ」
「NCPC債を禁止するのではありません」
スティムソンは、一枚の法案ドラフトを机に叩きつけた。
『戦略的産業防衛法(Strategic Industries Defense Act)』
「外国政府、および外国軍隊による、我が国の指定重要産業(通信、電力、鉄道、軍需)への新規出資、および新規株式取得を制限する法律です。
名目は『国家安全保障』。これなら、議会も反対できません」
それは自由貿易の旗手であるアメリカが、なりふり構わず鎖国に舵を切る瞬間だった。
資本の自由な移動を禁じ、外国人を締め出す。
それはアメリカの理念への裏切りだが、そうしなければ、国ごと買い取られてしまう。
「……やろう」
フーヴァーは決断した。
「ただし、急げ。法案が通るまでの間にも、日本はドルを金に換え、株を買い続けている。
……東郷が、この国の全てを買い占めるのが先か。我々がバリケードを築くのが先か。時間との勝負だ」
オーバルオフィスの時計が、時を刻む。
その音はもはや時を告げる音ではなく、アメリカ経済のカウントダウンのように聞こえた。
東郷一成は、この動きすら読んでいただろうか?
おそらく、読んでいただろう。
彼が打つ手は、「閉ざされた扉」をこじ開けることではない。扉の中で飢える人々に、壁の隙間から「飯」を差し入れ、中から扉を開けさせることなのだから。
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